三つ目 3-2-11 サクラメントとテクノロジー1
科学技術(サイエンス)を論じた以上、テクノロジーについても述べておかんといかんだろう。 オイラは両者を、修辞学上で区別するからだ。 サイエンスの語源は「ラテン語の動詞"scio"」だそうだ。 オイラ過去から、サイエンスのモトはスキエンチアだ、と言ってきた。 切り取って見せることだと。 知識獲得、ではない。 切り出して、見て知る、という、「実践行為」のこと。 だから科学者とその成果がうたわれる。 経験的認識が、そこで構想の型枠となって働く。 これを知性の働きというのが普通だ。 しかし動詞が語源では・・・。 製品にできて、対象となりうる名詞ではないし。 モノつくりの技術手順なんぞでもないのだ。 科学技術を、そんな知識体系みたいな、技術手順みたいな意味に理解してたら、おかしなことになる。 なっちょる。 科学技術は経験的な行為の実践的集積。 なのであって。 同時に、先験的知識ではありえない「実践モノ」をいう。 必ず唯物論になるはずだし、実験を必要とする。 先験的理論とは関われないはずなのだが。 だから、へんな事態起きてる、と言える。 しかし誰も異議をとなえない。 それは、愚能死すなその本質を、気にしたくないからだ。 気にして、こだわるのは、科分類の、成果のほうだろう。 科分類がこだわらせる、んじゃなくて科分類へ他人の目を向けさす。 未完成の未来を魔術で見せる。 簡単にいっちまえば。 科分類が「質料的分類想定」のことにあたるのだ。 徹底して修辞学概念上のもの、つまり新プラトニズムのものなのだ。 これが手順の指示書と合体して、技術の柱で、自ら立つことを主張する。 科学技術なる、原理があるかのように自己主張。 ふつうは科学、とだけ言うことが多い。 が、必ず科学「技術」なのである。 技術なのだ。 再現技術要請が先立って、科学部分が具能シス化されるから、そうなるのだ。 技術的要請があって三つ目が主導し、そこで初めて科学が想定されて立つ、ということ。 時間手順が逆。 これは知性優先の、ぐ脳死すの、特徴でもある。 三つ目の正体、やっと少し見えてきましたな。 テクノロジーは、そんな科学技術とは、まったく違う別の本質を持つのだ。 科学技術者からもテクノロジー者からも「おなじものだ」という答えが返ってくるが。 これはウソ。 あれは「キリスト教徒です、魔女ではありません」、と奴隷が言うちょるだけ。 そもそも連中は、自分を反省しない。 なので、自分のやってることが見えんのである。 テクノロジーを見るには、科学技術が見えとらんと、見えない。 修辞学だけでは相手できん。 科学技術を見るには修辞学と、そのもとの哲学が見えとらんと、見えん。 つまり多神教でないと。 話は変わるが、分類想定は、科学的対象の「素材」としてのものだ。 技術的要請に基づいて、つまり目的があって素材選別が行われるからだ。 科学というのは、これを「合目的」対象化認識技術だと、その体系的実践学術だと、オイラ言ってるわけだ。 知識体系ではなく、想定の実践なのである。 背後に必ず「一神教の形而上学」が隠れてる。 それが科学と不可分の、科学技術の基礎、なんだと、まずこれを理解されたい。 しかも、これを生んだのはグノーシス主義で、その修辞学の元には新プラトン主義があるんだと。 現代の解釈で過去を主義主張に使う、時空の時代錯誤があるんだと。 これらを先の節で述べたわけである。 神秘主義という、隠れ蓑着てる、と。 さて、ここからがテクノロジーぶっ壊し。 テクノロジーの語源のほうは、米国が生んだ独特のものである。 テクネーとロジックでできちょる。 こっちは三つ目実践ではなく。 これ自体が、「三つ目で出ー来させるためのサクラ」なのだ。 はなさかじいさんの命題、みたいなもんか。 テクネーは、古代ヘラスの言葉である。 「心構え」、とオイラは訳す。 技術体系や知識の部類ではないのである ロジックのほうは現代英語。 こっちは切り取り、実践で知ることなどではなくて、過去の基礎も持たない。 スキエンチアとは、まったくの無関係だと思う。 テクネーと、ロジックの合体した、新しい三つ目なのである。 それがテクノロジー。 一神教のもとで、というのは同じなのだが。 新大陸で全く新たに起こったもの。 担ったのはカトリックではなくて、清教徒たちだとされる。 官吏役の偽ユダヤ人が姿を隠して関与したのは、科学技術とまったく同じだが。 すべてカルヴィン主義の中から生まれてきた連中だ。 カルトに凝り固まった彼らが、中心にいるのである。 ユダヤ人排斥のルター派ではなく、それと区別がつかないカルヴァン派のもの。 今は、カルヴィンをそう呼ぶらしい。 多神教のテクネーの概念を導入して、アジェンダのロゴスの論理でまとめたオートメーションの技術体系をいう。 誓約は必要ない。 一神教なので、テクネーはロゴスのアジェンダに、一方的に従うのみである。 できる、光る硬い叙情に、粛々と従う。 つまり、ポイエシスに従う、のである。 宮沢賢治が格闘していた春と修羅の主題、心象のハイイロハガネに従うのだ。 これを、もっとわかりやすく解説していきたい。 修辞学ではウソが蔓延してるし。 へんな倫理で隠すので、世間にはぜんぜん見えてない。 やはり、合目的対象化認識の科学技術と類似は類似だが。 マシーナリー・テクニークのように一見見えるが。 しかしまったくの別物。 ミステリーを導いて、というサクラ利用ではないのだ。 カトリックのような、普遍化への意図は彼ら持たない。 またテクノロジーにおいては、サクラ機械が構想されて再現される、というわけでもないのだ。 ミステリー目当ての、機械仕掛けの神じゃない。 プロトタイプを作って、それに合わせて型枠を再現、といった必要はないのである。 むしろ、できりゃええ、の一発勝負。 できたら、その手順を科学的に採用すりゃええだけで、特に基礎理論などは要らん。 捨てて、ええ。 実験の意味が違うのだ。 科学技術とは、まったく違う工程を持つ。 科学技術は、基礎理論を先に立てないと、できない。 それに基づいて、まずプロトタイプの製品を仕上げる。 基礎理論が必ず必要となる。 それがないと、できん。 ここが最大の違う点だ。 テクノロジーは、そんなややこしいこと、しない。 出ー来りゃ、ええ。 そのできるさまを見ていて、天才たちがかかわって、 まず売れる製品を先に仕上げる。 基礎理論なんてのは一切不要。 それから量産を検討していくだけ。 テクネーのロジック化、つまりサクラは関与させずに、 心構えを直接型枠にしてしまう、からである。 成果物これ自体が、サクラ。 何のサクラか、というと。 デミウルゴスの持つ三つ目の怪物。