三つ目第四章-3 図式一般 推敲 , 4-4
人の目には、構想力はそう評価するしかない、ということ言ってるだけ。 カント先生自らが、そう言ってるわけ。 図式は、その「カテゴリーを操作したがる架空の能力」そのもので。 構想力として、サクラ化されたモノなんだと。 これはオイラの意見。 そこをガッチリ押さえておく必要がある。 サクラなんですよおおお~サクラ。 しかもこの図式については、型枠(クラス)だ、としてしか見えとらんので。 時間・空間の枠としてか見えとらんので。 そのものに注視すると、そのものとしては、ない、ことになるのである。 プラトン先生のパルメニデス批判に出てくる、メー・オンだ、ということ。 こだわるとメー・オンに引きずり込まれる。 命題にこだわると、それが時間であることにも、空間であることにも気が付かんまま。 虚無に落ち込む、ということ。 というのが、パルメニデス風の形而上学的思惟の特徴だ。 アリストテレス先生が、命題にこだわるなと戒めて、防衛していた重要点。 図式論は闇だ、で終えたがるのは、一般の修辞学の特徴である。 形而上学を扱おうとするから、そうなるのだが。 闇のそこ、で終わっているコレが、未だに修辞学の現状、なのである。 なーんにも、オイラにも、ぜーんぜん、わかっちょらんになる、ということ。 ソコは、あるにはあるんじゃが。 底という場所(オルト)は。 人の対象化認識がモトだ、とは、わかる。 そのためには構想力(これは想定できるだけ)がないと、となる。 これが問題点。 しかし型枠と製品だけ見てたら、非存在示唆されたも同じになるのだ。 メー・オンに引きずり込まれて、おわっちょる。 しかし数学や言語といったものより、もっと具体的な典型例が、しぜんと見えるでしょうが。 素朴に考えると。 これが自然、ということ。 環境だとか国土だとかの現代風自然じゃなくて。 素朴なフュシス(隠れていないこと)。 名詞じゃありません。 これを名詞にして名刺に配っちまうと。 ロゴスがカタログ化されて。 一般を主張したがる。 それが泥沼を生むのだ、とオイラ思っている。 この、泥沼の一例を採り上げてみたい。 極度に一般化された命題としての、たとえば「波の認識」というのがある。 一般を主張するアジェンダのためじゃないので、間違わんように。 思惟のモーメントが逆の、反省なんで。 時間も空間も、必ず、そこにある。 ソコに、底に、場に、ある。 そのこと(時間空間)が、あなたにも見えてきて、わかるだろう。 しかし時間も空間も、相手が波では、特定しがたいものに変わってしまう。 というか、特定できんなる、のである。 パラダイムの位置が変わるので、あたりまえなんじゃが。 オイラたちの波の対象的認識が、まさに図式の、サクラのあり様から一歩も出てないから、なのだ。 逆に言うと、ここでサクラにこだわってしまうからなのじゃ。 神になろうとする人の、有限な存在者としてのありかたが、そのあいまいさを、つくる。 その優生学的命題が間違っとるのに。 物理現象として、認識できそうに思う。 身体へと関与できる三つ目化して、初めて見いだされるソレを明確化すれば。 エスが見えるからだ。 但しアジェンダ化されてないと、わからん、のが西洋人。 科学技術は、そのアジェンダしか見えとらん、超近視の技術だ。 建前にして仮置きするだけで、時間なんぞ一切見ようとしてないのが日本人。 オイラはこっちだ。 いつも建前ばっかしで終わって、科学的思考ができん。 つまり、サクラに描かれなければ見えないし。 そうかといって、普遍的にどこにでもある、ように思えるものだし。 じつは「数字とは自然界、宇宙から発見した法則です」。 といった、へんな意見ネットで見たのが、この論議のきっかけの一つ。 自然界、宇宙なんていう形而上学的アジェンダじゃなくて。 ぜんぶ人の身体法則じゃろうが!。 スピノーザの修辞論テーマを叫びたくなるようなへんな意見。 これは有限な、滅ぶべき、超重要な個人モン、なんですよぉ~。 数字じゃなくて、「実在」だからだ。 それをサクラ数字で数えてる、だけだから。 図式は、実在を数字で数えてワカル(破壊できる)、感性の、シロモノである。 三つ目第四章-4 図式一般 図式は、実在を数字で数えてワカル、感性の、シロモノである。 知性で関わるべきモノ、なんぞではないのである。 しかし形而上に、知性で示さないと見えない。 だが、知性でできたものでは決してない、ということ。 有限な時間でできた、しかも型枠しかみえとらんサクラ的モノ、なのだからだ。 中身の空間が、からっぽ。 多分、時間も同じなのである。 オイラには見えんが。 あっさりと、メー・オンな領域が、導入されちまう。 オイラは数字も、人が身体共有論議するための、サクラだと思う。 身体共有しないのなら、まったくの無意味となる、からだからだ。 共有論議にのみ有効。 法でもなくて、投機規格品なんだと。 アジェンダというの、だれか言ってた。 得する商品、なんだと思う。 なのであって、数学は、宇宙に普遍の法則なんぞじゃおまへん。 哲学が、自分の無知を悟るだけのつまらんものだというのと同じ。 法というシロモノなども、その類のもので。 ぜんぶ「そう」なのだ、とオイラ思ってる。 個人無視の共有品。 さかさにすればウソになるもの。 まとめて「グノーシスな規格品」なんだと思う。 最近注目されてる波も、同じだと言いたい。 物理現象ばかりから注目されていることが多い。 注目しておいて、物理現象なんて言い出す。 すると、視線を反らせているも同じなんだが。 しかしこれ(波)も、科学技術というアジェンダでの投機企画品でなければ。 身体共有するためのサクラなんである。 波も、身体と無縁な自然現象などでは、ありえないからだ。 一元的に言うなら。 合目的に、身体で見いだされたミステリー、なのだから。 図式は、それら対象的認識の諸々を構想する力(のようなもの)。 だから構想力と呼ばれる。 しかし見える力(製品)じゃないし、力が実在するわけでもない。 あくまで型枠想定にすぎんのである。 実験やればもちろん、ソコに実在、となる。 実験が、今度は現実を作り出す、からだ。 波を形成する物理力も、確かに電気力として取り出せる。 しかし構想する力は、型枠のモトは。 クラス化しても、形而上学やっても取り出せないのである。 これを取り出したい、のが新プラトニズムのカテゴリー論者たちだが 彼らは結局、客観的にしか、クラス化できないのである。 主観的には一切できない。 相手が主観で出ー来ているクラスなのに。 まったく関われない。 だからデミウルゴスに、とっ捕まることとなるのだ。 構想力は、個々人の感性でできている、 なのに。 感性無視の、知性化したクラスとしてしか、共有化には取り出しようがない、からだ。 これがまた、イデア問題と抵触している。 そのことが、あなたにも、もうわかるだろう。 正義だの理想だの、宗教だの持ち出さないと、論議できなくなるのだ。 カント先生も数学的論議してたはずが、自分で避けてた形而上学論議になりかけてた。 そのことを思い出していただきたい。