三つ目第四章 4-6-8-1~6 破綻論議
経験は、固有な享有時空の内部だけでは、ほんとうのところ。 これも認識不可能のはず。 論議不可能、なんである。 先験的反省なしには、絶対に経験とはならないはず、だからだ。 枠なしには、知的な転写などは一切不可能だろう、ということ。 だから経験に、ほんとうは現在も未来も無い、ことになる。 そういうことになる。 アジェンダはもちろん、ない。 だから純粋経験なんて、おまへん。 アジェンダというこれは時空詐欺であるにすぎまへん。 現実主義者のやる、自覚のない愚脳シスです。 過酷な現実があるから、というやつ。 ”過酷”も自分の感性だというのを棚上げして論議。 純粋経験などに至っては、経験を伴わない経験だというから。 だから、現在も未来も、一切関係なくなる。 サクラですら、なくなる。 虚無の論議。 これは、過去の写しだけで経験抜きに弁証論議しようとする、騙しの存在なのだ。 しかしそんな、瞳着するサクラとして、一応論議できるようには見える。 哲学を無に隠してコレやった先生方もいる。 ヘーゲルがやったし、西田先生もやってた。 オイラコレがわからんで、食えん哲学に走って身を滅ぼした。 固有な時空の経験などは、だからことごとくサクラだ。 ということになっちまう。 すべての厳密な対象化認識の目論見が、ことごとく、そうなってしまう。 サクラの意味にも、いろいろあることになる。 背後に空虚を隠した、騙しサクラもあるわけなのに。 現実は一期一会で、しかも幽玄のまま。 無為に他者との関係を失い、自己完結して終わる。 これでは固有な経験など、サクラどころか、一切なくなる。 それではイカンじゃろと思う。 特に哲学を隠して修辞学利用したのがいかん。 三つ目第四章 4-6-8-2 破綻論議 経験は、必ず過去の実在の出来事なんである。 これをハッキリさせとかなならん。 これは動かしがたい出来事。 そのはずなのに。 レトリックに消える。 経験は、かならずオイラの「現実した経験」で。 オイラには必ず「過去の出来事」がある(はず)。 しがらみが、どんな場合にもついて回る、ということ。 これを捨て去ろうとしたのが仏教だが。 小乗事情だと、とくに無理な相談多くて。 たいがい多人、その座布団には数乗れないものであって。 しかも反省の時空的には、それがサクラ、になるのだからだ。 みんなのザブトンに乗せる大乗事情だと、今度は詐欺に直結。 仏教のヤバイ点暴露です。 つまり、人の経験的認識を可能にしている「先験」なるものは。 カルト共有内部だけに通用する、ある種アジェンダなのだ。 と、わかるはず。 予定建て、儲けを企画しちょるんだと。 全員現世ご利益につながらない宗教はすべて、詐欺と。 これもおのずからわかるはず。 選ばれし者なんてのが最悪。 構想力が、そのアジェンダの枠を立てる。 カルト内部での共有枠を、ツケ払いで作っているのだと。 自然に見えるはずである。 これらを教えてくれたのはカント先生である。 写し絵なしに、形而上に示さずには、しかし論議できない。 構想力は、型枠にならない。 感性だけで知性なしだと、そもそも見えちょらん、からだ。 見えない限り、枠になれない。 つまり経験を経験として認識、できない。 サクラであっても、見える枠が、必ず要るのだ。 この見えさせる枠の力を、知力という。 対象の学問としては形而上学となる。 認識する、・・・できる知性とは、つまるところ。 転写して、知ること。 知ることは単純に言うと、写し絵すること、なのである。 普通、直観という。 アンシャウエン。 感性に直面させる。 ここらへんは、スコトウス先生の論議にもあったはず。 しかも先生の論議は特に、常に経験的なのである。 それを忘れず。 先験性時間などは、ここでは一切持てないはずだ。 時間的に、転写後のモノ、の反省だからだ。 つまり、過去を思い出すそのご利益、のほう。 三つ目第四章 4-6-8-3 破綻論議 しかしハッキリ言っておく。 「知性は先験性を、まったく持てない」、はずである。 これをおろそかにすると詐欺になる。 なのに、先験性は、あらかじめ知的に知ること。 ハナから詐欺やん。 ツケ払いで、出ー来て後に、これを初めて知るのである。 時間を逆転させる、感性がやる詐欺。 騙されるのは知的直観? 知的直観にも、かように感性が絡む。 感性は、時空的にはサクラの経験なので、必ず過去にある、のだから。 それを忘れちゃいかん。 引っ張ってきて、知る。 利益を得る。 それが必要。 そのことが可能だが。 利益なしではいかん、そのことの理由がわかるはず。 なおかつ、主体性は、そこで先験性の枠作りをした当人のはずなのだが。 この当人は、なんと、経験性を一切持てないはずの、知性なんや。 空虚な主人。 つまり経験論議だと、共有のものとしては知性論議できない、のだ。 経験は、モトは徹頭徹尾個人ものだからだ。 逆に「感性は経験性を持てない」という問題もある。 痛みを感じていても、経験として帰納的に認識できない。 先験は徹頭徹尾共有ものだから。 こうやって、あれもこれも一期一会になっちまう。 泥沼つーこと、になる。 なのに、感じる、やんか、となる。 こういった弁証論議の繰り返しの背後を哲学していこうとすると、必ず破綻するのだ。 破綻論議になる。 この言い訳を「一意にまつろうとするから」だと思う。 誓約に祀ろうとはせん。 一つにまとめて、ご利益にしてしまおう、とする。 ハッキリ言うなら、ぐ脳死すになるのである。 多様に祭ればいいのだが、それでは今度は、まとまらんなる。 ごりやくが、得られんなる。 お祭り騒ぎに、つまり、あいまいな政治経済になっちまうからだ。 三つ目第四章 4-6-8-4 破綻論議 つまりその場で、一意に祭ろうとして。 みんながみんな偶像崇拝に落ち込むわけである。 たまたま出会ったサクラ像を拝む。 それしかなくなる、わけだ。 但し偶像崇拝は、一神教徒だけの禁止事項です。 これが偶像崇拝の、本当の意味だと思うんだが。 「一神共有カルトが、偶々出会った物を拝むこと」。 これは一神教徒の間では、一応ちゃんと禁止されてる。 多神哲学でも、アリストテレス先生は命題に拘るな、と教えてくれる。 ヘラスにもすでに、一神教徒みたいな思考をする連中が居たのだ。 エンシなんか誰でもいいのに、偶々やってきたガイジンでもいいのに。 たてまえにして祭るのはいいが、つい拝んでしまうことになる。 聖母マリアを祭り、敬虔対象に扱うのはいいが。 崇敬はいいが。 崇拝して拝んじゃいかん、みたいなもの。 もともと三つ目も、そこの土壇場で生まれるものだ。 そんなもんなんだろう。 多神教徒には、偶像崇拝が、もともとからありえない。 それも、ここでわかるはずだ。 もともと、無関係なんである。 人が共有するのは、自然だから、なんだと。 かくされてないからだ、と、一意にではなく、わかるはずである。 純粋素材に見繕ったからじゃおまへんよ。 自然学者になった一意的自然崇拝者は、多神教徒とは違う。 この場から決定的に違うのである。 アリストテレス先生は、こいつら相手に苦労した。 タ・メ・タ・タフィシカを書いたが。 自然学批判を書いたんだが。 のちの時代に、修辞学に、レトリカに採りこまれた。 隠されてないサクラが、三つ目に化けるのを、おおっぴらに許す。 具脳死すをやる。 それを自分でやってて気が付いてない輩も一神教徒には多い。 だから結果的に、出来損ないの自然神を祀る、わけだ。 ここいらの示唆として、カトリックにはマリア様崇敬問題というのがあって。 ほんとうに面白いのだが。 宗教談義してるわけじゃないし薄暗い話しなので、もうヤメる。 論議に結論が出ないのは、これが破綻論議なので、仕方なし。 ウロボロスが、ヴァーチャリターが見えてくりゃ、それでええ。 みえにくいとは思うが。 ヴァーチャリターは、ドゥンス・スコトゥス先生の述べた破綻論議です。 オイラの言い出したことじゃありまへん。 オイラが昔に言い出したのはヴァーチャルガーデニングという破綻論議。 誰も読んでくれんかった。 もう忘れた。 三つ目第四章 4-6-8-5 破綻論議 修辞学的共有論議と哲学は、その明確な区分の心構えなしには。 うかうかやってらんない、のも事実。 あっさり破綻に追い込まれるからだ。 なのにごった煮にして提供された。 結果的に、科学的分類が有効に見えてしまう、その理由ともなった。 聖アウグスチヌスには、このごった煮対策の心構えがあるかのようだ。 科学的分類の心得があるかのように、それを見てしまうことになる。。 それらでもって、ローマ帝国という政教一致の国家を築こうとしたんだと。 哲学的無知の知と科学的切り分け分類で、三つ目を個人信仰の背後に隠して。 だが科学的にやると、今度はそれが帝国の破綻を生むのである。 それしか、破綻しか、選択肢がなかったわけだ。 修辞学と哲学という大本を、あいまいに、ごった煮したので。 ツケがたまりすぎて、ローマ帝国は、あっさり破綻。 この分類を、ちゃんと彼がやってて、解決してた可能性も一抹ある。 世間もオイラ同様不勉強なもんで、著作をロクに読めとらんので。 聖人を六階しただけかも。 実はこの聖人の著作は、オイラ一冊も読んでない。 ラテン語わからん。 三つ目第四章 4-6-8-6 破綻論議 区分の心構えを、ヘラス人たちはテクネーと呼んで重視した。 だが。 一意に思惟を進めたがる人々には、この「クラスの有職故実」が理解できない。 感性の型枠が理解できんらしい。 多神教のやる、誓約(うけい)みたいなもんだから、当然なんであるが。 基礎的存在論のような解体論議も理解できんようだ。 多神教というものが、そもそも彼らには理解できちょらん。 造物神でない、有象無象の八百万の神というモノが、まるっきしわかっちょらん。 修辞学は有益だから、必ず共有論議なのである。 共有を騙るから、修辞学。 レトリックともいう。 これは上っ面な多神教からの表現だが。 深味を出すそのために、享有の感性をダシにしちょるんだが、そこは隠す。 哲学は、必ず共有とは全く違う、徹底しての享有論議。 破綻は悪霊(ダイモニオン)に否定させる。 個人信仰にして教団の悪行を隠す、キリスト教徒と若干似とる。 享有を、まず解る。 そのために共有の理性(知恵、あるいはソフィアの知)をダシにする。 悪霊の否定の声を聴いて、虚偽の知恵を破壊するんだが。 どうしても、共有が逃げて隠れる。 これらはしかも、ぜんぶ二元論なのではなくて、本質的に多原論、なのである。 どちらも必要なはずなんだが。 相容れない時間・空間の関係みたいなもんとなる。 だから一意に論議すると破綻するんだが。 この相いれない破綻的ヴァーチャリター。 否定する悪霊の声。 それが見えてないと、哲学と修辞学の境も、まったく見えなくなるはずだ。 哲学は、まさに悪霊を見る学である。 我が国のサニワに似てる。 享有と共有の違いを、区別できないまま、論議が結論命題を出して終わる。 もともと同じもの、オイラの時間・空間なのだから、なんだが。 見つめ、であって、見つめられ、でもある。 三つ目、であって三つ目られ、である、そこが結論で見えんなる。 底がみつからんままとなる。 くれぐれも言っとく。 神が不完全だから底が見えん、のじゃないよ。 神を観察しようという、人の認識のほうが、有限な身体存在者だから、そうなる。 死すべき、いいかげんなもの、だからだ。 神の知性そのものじゃない。 知性は、いい加減でないように一見見えるが、背後に必ず感性が居る。 この死すべき有限な身体を、未来で完全機械にしようなんてのは、論外。 破綻を飛び越えた超越悪魔論議だよ。 聖アウグスチヌスは、グノーシスめいた悪魔論議とは無縁だった。 ちゃんと最初に自分の罪を認めたからだ。 だが。 享有の、個々人の罪は認めても、共有の組織の罪は、その一切を不問にした。 電信柱が長いのも、横町のポストが赤いのも、ぜんぶオイラ個人が悪い。 にした。 一神教徒として、絶対の存在者の存在を立て。 その修辞学的共有と哲学的享有の、相容れぬ様を、個人信仰のせいにした。 多分、共有信仰なんてサクラでいい、と思ってたんだろうかとも思う。 根が悪人なんで。 ローマ皇帝を動かして、悪人が祭祀やっても、サクラメントは有効ですと認めたんだが。 ここのとこで、いまいちハッキリせんものが残る。 修辞学的共有と哲学的享有の相容れぬ様を、明確にしてないのだ。 それがあるから誓約(うけい)問題があり、哲学の世界はぜんぶ多神のはずだ。 しかし聖アウグスチヌスはもともと、マニ教に学んだ一神教徒。 一神教では哲学にならんはずなのに。 破綻も、超越も、論議の佇みも、虚無主義も、ぐ脳死すもなしに。 修辞学を哲学にした。 神の前に、電信柱が長いのも、横町のポストが赤いのも、ぜんぶオイラ個人が悪い。 と、個人ごとにして。 しかし共有のローマ帝国は神の国である。 悪人が祭祀ヤッテも、サクラメントで有効。 コトは、おいらたちの享有と共有に関わる、信仰推進アジェンダだと。 共有のご利益と享有の認識をごった煮にして 今日の哲学と修辞学の怪しげな関係を築いてしまった。 この人物が、今日の宗教的混乱の元凶なのだろう。 哲学と修辞学の混乱の元凶でもある。 オイラは、この人物が聖人であると認め、 なおかつ、電信柱が長いのも、横町のポストが赤いのも、ぜんぶ個人信仰カルトが悪いと、破綻して言っちょるわけだ。 彼ら一神教徒は共有信仰者ではない。 個人信仰者の集まる、カルト奴隷集団だからだ。 だから聖書読みあって共有であろうとした。 それが証拠に。 民主主義とファッシズムが同じものであると、理解しちょらん。 ナチスのハイデガー先生は理解してた。 そのかわり、自分の哲学も破綻させてたんだが。 倫理が他者とは無関係な、個人のものだというのを理解できん。 これは一神教論者の宿命。 しかし、オイラのこの節も破綻論議の節である。 次節は。 感性は時空的にはサクラの経験なので、必ず過去にある、というあたりを追求してみたい。 なるべく破綻せんように。