三つ目 4-6-10 現存、現実、存在
帰納法と演繹法にも手を出して、哲学と修辞学のごった煮も整理されてきた。 ここらで、ごった煮具材のより分け、をやってみよう。 存在ということ、現実ということ、現存ということ。 こういった区分を使う。 具材は、・・・である、という命題。 この整理は過去にやった記憶があるので、おおざっぱに。 現存は、必ず時間・空間上にあることの表明である。 現存することの認識の特定、というべきか。 ないもんは現存とは言わん。 現で時間を表現し、存で居場所を表現している。 そのことで、反復して反省確認済みのサクラであると認識できる。 そのことの確認なのだ、とわかるはず。 こころに枠作って、サクラだと確かめるのが、この現存。 ここですでに、おかしいのであるが。 相手はすでに「現存していない」サクラというこころの掴んだ偽物なんだから。 なのに、現存だ、という表明。 ウソついてるわけである。 今、という、時と場所に、対象の一意なるものをすり替えているのだ。 時間・空間化してしまったので、つまり享有化を図ったので。 一意の対象が視野から消えてしまったということ。 これが、ここのおかしい点だ。 時間・空間化すると、そうなるのである 逆に、イチイを定めると現存がサクラごと消える。 盲点みたいに。 つまりエクジステンツ中であるそのことの表明が、現存。 反省機能のない人には、これ(現存)が現実との区別がなくなるのだろう。 エクジステンツが現実になっちまう人、多い。 だが、現存は現実とは違うサクラ命題。 エクジステンツは脱存。 一方、現実とは、時間・空間上にそれらが見えていることの表明である。 (対象的認識の枠に、はまって見えていること)。 現存とは違って、こっちは共有が優先なのである。 知性関与の写し絵が、そこに「出ー来ている」、ことを意味する。 (時空を無視した架空の場所に) エンターテイメントが、ミュトスが必ず絡むんだ、ということ。 また一方で三コ目の、存在というのは。 中空に置かれた単なるゲシヒテの生起命題である。 ・・・である、ist、あるいはsei。 実践、あるいは変異中の様の、その同義反復。 中身はないけど、支点があるのだ。 在、存、の無意味な繰り返し。 天と地と精霊の、精霊役だ。 これを命題の先の方に置いてしまうと、受け取り直しが、まっとうにできんなる。 すわりが悪くなるのだ。 エス イスト 形容詞とやると、イスの座りが悪くなる。 膠着語のように、語尾に置くべきなのである。 エゴ コギト エルゴ スム みたいに。 デカルトが、この命題の語順を、日常とは変えて置いたのは意味があるんである。 これが実在となると、中空に置かれたものではなくなって。 これらの対象をも確定し、現前に据え置かねばならない。 目論見が絡んでくるのだ。 単に前に置いた、ではなくて。 アンヴェーゼン(現存)だとかゲーゲンヴァルト(現在) 主観的にも。客観的にも、現存在が宣言できる根拠であらねばならない。 そんな根拠とか、アルケーとか、命題だとか。 選んだ対象にではなく、向こうから来るモノに、寄りかからねばならない。 他の命題が必要なのだ。 ・・・の実在。 この、むこうからくるものを。 目論見なのに、三つ目だ、というのが、世に満ちている三つ目論者。 つまり自然学者の論議である。 みつめ(られ)なんで、対象把握はできんけど、身体にすぎんのだよ、という三つ目(られ)論者が、孤独なオイラ。 これを身体だと、神体なんだよ、と言い切ったのがスピノーザ。 いや、そこから脱存したダーザインなんだと、現存在(=人間、メンシェン)なんだと言い切ったのがハイデガー先生である。 これらは哲学フィロソフィ、である。 政治家せんせえとは無関係で、修辞学ではない。 自然学を論議するのは哲学なんだが、肝心の自然学は哲学ではない。 これを明確にしたのがアリストテレスのタ・メ・タ・タ・フィシカ。 形而上学じゃおまへんヨ。 自分の無知を悪霊に否定させておいて、その無知の鞭を悟るのが哲学だからだ 必ず享有モノなのである。 若干マゾっ毛で、フェチッシュ。 自然学者の場合には、無知(鞭)は見えてないんで。 必ず、共有の修辞学となるようだ。 つまり享有サクラ相手の、共有レトリック学、詐欺師御用達の産学協同となってしまうのである。 ここで同時に、ごった煮も生じてしまう、ということ。 やっと、ごった煮の原因、わかりました。 無知が見えてないから、そうなるんだと。 享有と共有の区別なく、ゴッタゴッタ煮てしまうんだと。 自然学者の場合。 対象物の自然のほうは、純粋素材としてサクラにして。 素材は切り出した大自然の一部、ということになる。 そんなもん、もともと、ないんやが。 だから弁証法使って言い訳ばっかしてると、ニヒリスムスに落ち込むんやけど。 ここで自然(なこと)を対象物のサクラにして帰納させると。 科学技術、スキエンチア=サイエンスが、自然と出来上がるわけである。 こういったことは、ぜんぶ経験で知ったのである。 若いころには、まったく気が付いてなかった。 科学は子供のころから気になってたが、わからんかった。 人の認識は、その感性が枠づくりをして。 経験で出来上がる。 エンターテイメントが絡んで、カルト化される、ということ 時間・空間は、その「人の認識の枠」なのである。 個々人と別個の存在者じゃおまへんヨ。 だからこれなしには、何もない、ことになる。 時間・空間のないナニカなんて、ない。 そもそも時空で一体のモノなんだが。 人の認識の都合で、必要があって分けられている。 認識の判断のために、分かれている? どっちもどっち、なんだろう。 自然と人が、不可分で分けられん、みたいなもの。 一神教徒は、ムリに切り分けてスキエンチアしてしまうが。 本来は不可分のもの。 享有身体みたいなもんなのである。 共有身体は分けられる。 だが、享有は不可分で分けられん。 分けたら精神分裂病になる。 能、なども、だから、そのものとしてはない、のである。 作り上げられた人の身体、その経験的時空がある。 いやむしろ常にあった、のみである。 享有にとって、過去は実在する、のだ。 また、この「実在」が、享有の過去の「別名」なのである。 個々人に対してのみ、取り消しがたく、ある。 だから、共有の過去、などは、本当は、ないのだ。 ヒストーリエ(歴史記述)にして記述し、祭る、しかない。 自分だけにあって、他人にわかりえないもんを、享有(きょうゆう)という。 享受する固有の身体。 逆に、誰にでも予測でき、認められそうな感性的実在を、共有(きょうゆう)という。 だから共有は、実にいいかげんなモノなのである。 享有は個人にとって取り消しがたい厳とした真実。 共有は、いいかげんなモノ。 人は必ず個々人なので、厳としてある。 共有のこれは、予測や推測、目的などのしがらみのみがモト、なのである。 共有は現存在ではないし、決して実在ではないのである。 (この命題はスゴイので、いずれ思い出したい。こんなテーマ出てくるとは思わなんだ) しかし享有と共有のこの区分も、絶対のもの、ではなくて。 どちらも。人の感性と経験が生んだサクラの類。 享有ですら、厳としてあっても、かなりいいかげんなもんである。 この、感性と知性の差異にしたって、ホンマは怪しいもんである。 その線を振り返って、思惟のモーメントを逆にたどって、・・・あんよひもを手繰って。 シツコク徹底確認したのがカント先生。 純粋理性を、とつとつと批判しバラしていったら。 なんと感性でこさえた枠が見つかったのである。 純粋悟性概念の先験的図式に、行き当たった。 これが構想力、シェーマである。 図式論という言いかたもする。 この先験的図式を、カテゴリーだと言いたいのが、一神教徒なのだが。 一意の目論見が先走る。 カント先生も一神教徒なので、カテゴリーとしては扱う。 けど。 扱い方が違う。 先生の場合は、あくまで純粋悟性概念の図式。 つまりサクラ扱いなのである。 そもそもカテゴリーは、多神教徒用語。 この命題枠だった。 もとはヘラスのカタログ・ロゴス。 魂の証としてプラトンが持ち出し。 アリストテレスが、それを実在だ、とした。 享有の三つ目(られ)にした。 存在者の存在などとは、もとより何の関係もないものなのである。 一神教徒が、哲学をへんな方向、へんな方向へと引きずっていったのが見える。 唯一の神だとか、存在者の存在だといった、へんな命題にこだわって 哲学を虚無の方向へとひきずっていって、突き落としているのだ。 これが明白に見えてきたので。 オイラは、目的を隠したアジェンダとは付き合いたくないのである。