おいらの思想を簡単に述べると
1:哲学はソクラテスの無知の知で、「形而上学」や「修辞学」とは別門、別物ということ。産婆術、あるいは、審神者(サニワ)の術である。無知であるから、社会的な共有知識は、ほとんど無関係。だから産学協同には馴染まない。 2:哲学の知識は必ずウロボロス、あるいはヴァーチャリター(ドゥンススコトウス先生が述べた)となる。 3:おいらの哲学的認識は収集知識が経験させるものでできているのだが、核となるものはオイラの「感性が受け止めた認識」であって、モノ自体などは、認識上にもともとないという考え。これはカント先生やヘーゲルと同様である。なにが触発したのかトイエバ、オイラの身体。 4:モノ自体がないと考えるのだから、当然大自然、といったものも「ない」。自然物はないし、オイラの身体がみつめ(られて)あるだけ。(オイラの感性認識が)あらわに見えてる、だけの話。自然学というものは明確な形而上学を提示して、それにに基礎を持つのでなければいかがわしくなる、という考え方。そもそも日本語で、自然というのは「副詞」である。「名詞」ではない。 5:・・・である、はオイラの享有認識。だが、実は共有認識という社会的代物もあって、両者が混在している。これらのごった煮が、今日の哲学認識の泥沼を作り出している。 6:ごった煮された、この大自然は何か、を言い訳するもんが一神教徒特有の形而上学だ。だが、知性で見えてるそれを言い訳すれば、弁証法となる。このどちらも世間でいう哲学だが、おいらは、このどちらをも認めない。絶対に認めない。認めれば虚無主義に落ちるだけだと、わかるから。 7:認識には必ず享有と共有がある。もともとおなじものなのだが、このごった煮が認識の泥沼を作り出して、わからんしてきた。 8:この泥沼作りに熱心なのは一神教。この享有信仰が、すべての元凶と考える。これ、最近わかってきた。 9:特に人の享有認識を利用して共有社会のお祭りをするさいに、おかしくなった、という考え方。多神教の諸国では問題なかったが、一神教徒たちが共有社会を教団の私物化カルトとし、結果的に社会を破壊していった。つまりウイルスに対する予防接種や統一教会お祭り問題。 10:世の人々の多くが認知している哲学なるもの。それは、この一意の(一神教的信仰の)カルト的宗教的範疇であって、これを言い訳するのが形而上学。形而上学は知的な論議だが問題がある。哲学ではないし。ヴァーチャリターな世界全体を見せないと成り立たんとか、場所を定めたら時間がいいかげんになるとかいった、泥沼問題となるのだ。純粋理性の先験的誤謬とか、マトリクスを生み出してしまうドグマ問題とか。神の視点に立たんと不可能なもんとなってしまう。 11:オイラたちの認識は限られており、適当。時間・空間はカント先生の言う通り、認識を形成する枠、直観の形式、でいいと思う。人の享有・共有認識も、時空枠の別の形式だろう。この区分や共有が、未だわからん部分。哲学から形而上学を追い出し、修辞学も追い出せばわかってくるはず。 12:カテゴリーは魂の証、実在の形式、純粋悟性概念の図式、と三様にいわれてきた。プラトン、アリストテレス、カント。これらは哲学であって、同じものを言っている。政治的(お祭り的)意図が忍び込む範疇論議とは違うもの、別物である。だからオイラは範疇論議をサクラ論議としてしか認めない。 13:世の人々の多くが認識している哲学なるものは、この一意の(一神教的信仰の)カルト的宗教的範疇の修辞学である。これが形成するのがパラダイムであって、これを言い訳するのが形而上学。ハイデガー先生は世界像の時代だとしてこれを批判した。だがカント先生もハイデガー先生も未だ問題だとしていたように、形而上学は哲学ではない。レトリカ(修辞学)に属させるのが正しいんではあるまいか?見える知のレトリカだと。 14:哲学は無知の知。なので、言い訳目的政治意図を持つ弁証法的修辞学とは違うのである。この違いができたのがローマで、一神教徒がこれをやった。聖アウグスチヌスなどが最右翼。知ろうとする哲学を殺し、形而上学と修辞学をごった煮して、哲学に上塗りした。今日の哲学が、悪霊介在の批判学としてしか成立しない理由。ソクラテスがすでに、詩人に政治意図で法に嵌められ、殺されてたという事情もある。法や倫理は一神教的修辞学で重宝されるが、もとより哲学とは無縁である。