危険の正体は一神教
三つ目の正体は、モロに一神教であることが自分にもわかってきた。 知恵の実の正体はこいつ。 独特のカルト宗教。 これはオイラの中にも、現にある。 一意に集中して考えれば、必ず出現するからだ。 これは危険なカルトなのだが。 哲学がなければ、こいつが出てくる。 ジャーナリズムで後天的に、アポステリオリに、刷り込まれたものだ。 ・・・である、という「一意の認識」が、すでにそうだし。 命題提示される、その命題は、必ず一神教でできている。 カルト記述でできている、というべきか。 祝詞ですら、神々相互の誓約の前に、これを使う。 これまで自分でわかってきた事柄からすると、それはサクラなんだが。 予定だとか、企画だとか、未来志向の時間認識なども、すべて同じ。 これらは一神教的な、聖書の反復で、できているのだ。 受け取り直しでできている。 だからこれらは。 アガスティアの葉っぱに書き込まれてある、というべきでもあるのだろう。 そんなもん、実は、どこにもおまへんよ。 人の自己享有、というコレも同じ。 麻酔かけられたら飛んでしまう。 酒とか覚醒剤でも変容する。 享有は、アガスティアの葉っぱ並みのモノだと、オイラ言ってるわけだ。 ある種のサクラなんだと。 これが、そもそも未来立てられている三つ目なのだと。 一神教は必ず、個々人の信仰を利用するカルト。 誰でも、危険極まりない一神教を、自分の心の中に持っていると言えるから、なのである。 そもそも超越的認識というシロモノが、まず三つ目である。 それの、受け取り直しが一神教で。 目的に合致した、命題の技術的再現ノートが、科学技術となる。 未来への指示書(のーと)が。 科学技術は必ず、一神教と対になってるのだ。 その目的を、どこから持ち込むのかが、「問題」なんだが。 コレを一神教徒は普通(ありもせん)未来から持ち込む。 それで、合目的対象化認識がアジェンダを得て。 科学技術の完成となる。 そして完成は感性なのだ。 実在化する。 命題を、自らに課すことに働けば。 そのことが、倫理、となるのだ。 課して、自分を鎖につなぐこととなる。 (一神教徒は享有の自分と、共有の宗教組織を区別できないので、歪んでくるし。記述された道徳文書と課された宗教命題を区別できないので、道徳への理解もできないのだが) あの聡明極まりないハイデガー先生ですら、ナチズム(積極的キリスト教)に毒された自分の過去が見えていなかった。 もっとわかりやすさを目指すんなら、こうも言える。 論理への絶対信頼が、一神教の三つ目なのである。 論理利用目的の、<命題のアジェンダが一神教で>。 そもそも、それが三つ目。 論理とか数学の、アルゴリズムとかを使うんだが。 つまりサクラの時空を使うんだが。 身体論理のアジェンダ解析が、そもそも数学利用。 数学には、必ずアルゴリズムが伴うのである。 二次元の幾何学ですら、二次元という、身体アジェンダの解析のこと。 つまり感性命題を伴う。 次元命題が取り仕切る、んじゃない。 そうではおまへん。 感性命題が、アポステリオリに持ち込まれて、それが取り仕切る。 それらのアジェンダの、客観論理化信頼が、というべきか。 この論理へのフィードバック操作が、「修辞学的理解」、なのである。 客観論理化が、アジェンダを信頼のものとする。 一神教理解と、修辞学的理解は、実は同じカルトもの、なのである。 多神教徒でも修辞的理解はもちろん可能だが。 その理解の受け取り直しは、必ず、一神教的理解のみだということ。 しかも、形而上学的に可能であるだけだ。 形而上学抜きには無理だ。 この、修辞学の言い訳、が弁証法なのだ。 こういうふうに言えると思う。 オイラたちの認識世界は、モロに、未来企画のアジェンダを実践する一神教カルト世界なのである。 徹頭徹尾、それで出来ている。 世界像の時代になっちまってる。 しかし何もかも、三つ目の完璧な支配下にあるのかというと。 違うんである。 これらの二進法的デジタル思考は、アジェンダに埋没していて。 しかも、泥沼化しているのだ。 それが、世のしがらみ。 小乗仏教が、捨て去ろうと苦慮していた苦の経験。 完璧な英知など、この一神教的世界のどこにも、現実には存在していないのである。 人工知能だと、エンテレケイアな認識を持つやろ?。 自分で考えずにそんなこというやつは、東大卒でもアホちゃうかと思う。 有限という感性が、経験という制約で、立ちふさがっているから。 エンテレケイアな認識などは、世にない、のである。 絶対にない。 経験的制約の前に、エンテレケイアな認識など、おまへん。 プログラミングというカルト操作がある人工知能に至っては、経験がプログラミングで与えられる、ということだから。 もっとありえへんことになる。 人間の場合、三つ目(存在)は必ず、同時に三つ目られ(実在)、でもあるのだ。 その実在の人間が作る人工知能は、もっと限られた経験的アジェンダしか相手にできないものなのだ。 サクラだから。 認識も、オイラが享有する享有認識だ、と思い込んでいるが。 それを経験認識、取得させるものは、「オイラの有限な感性」。 認識の知は、無知の上にしか乗りまへん。 感性的、アナログ支配の前には、一神教アジェンダも、ごった煮。 数学や論理や倫理といった、記述命題ごった煮の一つにすぎないのだ。 力信仰に囚われた、知力の弱い者たちが悪魔崇拝するように。 コスモス信仰に囚われたごった煮の見えてない者たちが、これにこだわる。 聖書や賢者の石や。 アガスティアの葉の記述に、ありもせん全体に、こだわる。 ライプニッツが、データベースの未来にこだわる様と、同じなのだ。 統計と熱力学を合体させる、それとも同じ。 二進法的デジタル思考は、必ずアジェンダに埋没する。 それしかないのだが。 そのアジェンダを取り仕切るのは、経験的感性。 超越的理性ではなく。 超越論的理性でもなく。 経験的、しかも享有の、感性。 カント先生の論議にアジェンダは出てこないが。 先験的感性論議がカテゴリーを形成するそこで、図式論の闇が広がる。 そのことを先生も知っている。 過去、現在、未来という時間の形式は、物理形式である前に。 オイラという人間の、身体機能の感性形式なのである。 つまりア・プリオリな一神教的認識の形式なのである。 未来は、三つ目のものではない。 三つ目られ、が、知性の機能が作り出すのでもなく。 感性というサクラとして、図式的に、時間・空間枠を作り出すものだからだ。 この、ア・プリオリな一神教的認識の形式は。 正しく取り出すことができないのである。 アジェンダ、つまりありもせん未来の、ありもせんサクラ企画構想だからだ。 これに絶対の信頼を置くことがいかに危険なことか、経験のないものには理解できんだろう。 しかし詐欺に会い、悪人に騙され、戦争に巻き込まれて酷い面にあったひとなら、わかるはず。 オイラも、能力の低いまま図式論を相手にすることで、一生を棒に振ったといえる。 そうだろうか? 親父は食えんなるぞ、と言ってくれたが、確かにそのとおりだった。 稼げなかった。 アジェンダを取り仕切るのは、「経験的感性だ」とだけ解ったけど。 カテゴリーの別名は、純粋悟性概念の図式。 それに絶対の信頼を寄せるのが一神教カルトであり、これが三つ目だ。 そんなものはしかし、実在せんのである。