先験性とは何か
先験性とは何か。 これを語ろうとすると、あっさり騙りに落ち込む。 しかも先験性ではなく、先験的理念の「命題」のほうを騙ってしまう。 対象認識ができるようにしようとして、心理学や宇宙論までを手掛けてしまう。 つまり、カント先生言うように、独断論的形而上学をやってしまうのだ。 その原因は二つある。 自分で考えていない、というのが一つ。 誰かの考えを「オーム返し」やってる。 もう一つは、「自分の無知に気が付いていない」のである。 先験性とは何か、は、哲学のテーマである。 無知の知の主題であって、形而上学のテーマではない。 神の不死の経験的認識、なんぞではない。 心理学でも、宇宙論でも、神学でもない。 心理認識のメカニズム探っているのではないし、宇宙の成り立ちを再現したいわけでもない。 ましてや、誰かの言説を利用して、稼ぎたいわけでもない。 哲学では食えまへん。 神の国を騙りたい、なんてのは、最も論ン外の部類。 哲学とは無関係になる。 そうではなくて、先験性は哲学のテーマ。 経験して知識を得る際に、この経験という枠や、知識再現という演繹ができる。 その理解枠を、オイラ「共有できるようにレクチャー論議したい」だけだからだ。 経験が、経験として可能になる、その「枠組み」。 「これを親しく論議したい」、だけなのである。 だからこれは修辞学と、確かに少し似てくる。 中性的な論議を期待してるところがある。 何かの政治的意図や目的があって、そのために「辞を修め、うわべを繕う」、この作業に、どうしても似てくるのだ。 つまり、花咲か爺さんの灰撒きなのだから。 どこが修辞学と違うのか、といえば。 こちら(哲学)は、その「目的が明確でない」。 つまり科学的ではない。 目的は演繹の方角に不明のまま、「ある」、からだ。 哲学の演繹というのは、演繹して自分が経験的に認識を得るだけであって。 その経験的知識を当てはめる的が、再現されてあるわけじゃない。 認識と知識のズレが、どうしてもある。 それどころか、動機は、悪霊によって、それまでの自分が、まっこうから全否定されている、ということなのである。 修辞学のほうは、修辞でもって論議を公共の論議に乗せ、特定の「目的達成させたい」。 だから弁証法が多用される。 哲学は、修辞でもって論議を公共の論議に乗せるが、狙いは自分の無知の知だ。 全然、狙いが違うものなんである。 論駁とか伝達とかの、ターゲットがあり、目的が明確にある場合。 それは修辞学。 哲学には、ターゲットがない。 論駁とかもやるが、それが目的じゃない。 批判の理由も、産婆術にすぎんのである。 だから産学協同理念にも一切馴染まん。 そもそも役立たん。 最近の世間の言説は、ねじまげが本当に酷くて。 カント先生の哲学論議もねじまげられているのを感じる。 狙いのアジェンダへ向かって、である。 アジェンンダは哲学じゃない。 純粋理性批判が、純粋理性「批判」だとしては読まれていないのである。 モノ自体を騙る、形而上学的目的論説として、読まれてしまっているのだ。 まるでライプニッツの哲学騙り。 カント先生の批判で、ライプニッツ・ヴォルフの哲学として、あっさりハナから退けられる代物だ。 オイラも気が付かずに、似たような論議やってるかもしれない。 なので、オイラの「目的」を明確にバラシておきたい。 オイラの「目的」は哲学の「復権」である。 ウロボロスにしてある。 オイラが、じゃなしに、未来のオイラが、あるいは未知のあなたが、無知の知を受け取りなおせるように。 哲学を、この世に復権させたい。 今は、モノ自体が騙られるへんな時代。 哲学が、まるっきり死んでしまってるからである。 骨抜きにされてしまって、ありもせん「共有の修辞学」に乗っ取られている。 これは学問自体が、そうなってしまってるからなのだが。 哲学の存在意義は、学問のための「アルケーでありうることを、出発地点を示すこと」である。 知りたいと思うこと、・・・の「目的のため、ではない」。 単に、「無知だから、知りたいから」なんだ。 花咲か爺さんの灰撒きやるのは、サクラを予想して、やるんではない。 結果的にサクラ使う、のだが。 誰がやってるのかもわからん先験性の、その咲いた跡からの「批判的関与」目的なんである。 哲学は、その、「先験性のアルケー役を露にさせる」。 つまり、みつめ(られ)る。 先験性とは何かをちゃんと語ろうとすると、あっさり騙りに落ち込むのだが。 三つ目が見えて。 みつめ(られ)が見えなくなるのだが。 先験性とは、その自分で見えない(られ)なのである。 人の現実意識は常に、時空意識の認識的反省、「という過去」である。 だから批判的アプローチが、意味をもってくる。 演繹、できる。 未到来への欲求や、理念反復のカルト上塗りのためのアジェンダ、ではないのである。 オーム返しや、モノ自体の形而上学的認識ではない。 認識をもたらすものは感性であり、その時空形式の。 ほんとは空虚な、「受け取り直し」、なのである。 あくまで、時間・空間だということ。 ワレ思うゆえにわれあり。 この思いは、まず感性で「あり」、ついで受け取り直しへの反省で「ある」。 同義反復のワレが重なって、空虚な受け取り直しが、親しく論議できそうに思えてくる。 享有する感性の、共有部分とでも言うべきか。 時・空間とでも言うべきか。 それが自分の騙ろうとした過去から受け取り直せる、みつめ(られ)部分。 これが先験性である。