哲学史8推敲 デカルトの補足 オルガノン
次の節のスピノザを準備していて、気が付いたことがある。 デカルトは「哲学を最優先だ」とハッキリ述べている。 無知の知を、思惟即存在として見出し、継承した。 そこから、伝統的な修辞学の誤りの諸々を、脱ぎ捨てた。 これは一神教特有の形而上学、その。 「脱ぎ捨て」、なのである。 つまり心理学、宇宙論、神学を、二元論的に破綻させたままで。 有限な、人の感性が認識する「対話の側に留め置いた」。 これで結果的に、一神教をも、あいまいな言い訳で、うやむやにしたのだ。 しかもそのことで、彼は哲学の中興者となりえ。 アリストテレスや、聖アウグスチヌス、ドゥンス・スコトゥスの正統の継承者となった。 それにもかかわらず。 共有社会の哲学史の扱いのほうは、まったく違う様相なのである。 誰の書いた哲学史見ても、おかしいのである。 修辞学は、脱ぎ捨てていなかったことになっちょる。 確かに形而上学はへんな、中途半端な状態で残したので。 これに「騙されて、あげた」人が多いのだろうが。 彼が、いろんな主義者たちの教祖に祭られるという、実に、へんな事態。 これは、西欧社会が一神教を脱ぎ捨てられんから、なんだろうか。 これでしかし、デカルト哲学も。 まともに継承されていないことになってしまった、のである。 修辞学的には、中途半端な形而上学のみが継承されて。 その形而上学が哲学だ、とされてしまっている。 そういうわけである。 彼の述べた「原理」や「法則」、「方法」なども、まったく違った形而上学的な意味に解せられてしまっている。 つまりデカルトは、一神教の宗教問題を、わざと暗く、あいまいなままに残した。 これらは哲学と無関係だから、わざとそうしたのだが。 そのため、その暗い形而上学をめぐって、「形而上学だけの継承」がなされてしまっている。 しかも、哲学でないそれが哲学だとされてしまっている。 ということなのである。 西洋の世間知識人は、一神教の宗教を脱ぎ捨てぬまま、身に着ている。 そのため、哲学の無知まで、多くの人が行きつけていないのだ。 これは実は、ローマ帝国での修辞学者たちと同じ事情だ。 修辞学者たちは、ギリシャ語を得て膨大なかつ理解不能な知識と出会ったが。 彼らには哲学の文化が一切ない。(一神教徒と化してしまっていたので) そのため修辞学が生まれたわけで。 しかもその生まれた理由を、彼らは自らに問うことをほとんどしなかった。 一部の人を除いてだが。 その修辞学が、オルガノンへの彼らの取り組みで、内部から目覚める。 再び哲学を産むことになるのだが。 まさに、デカルトの時代に出会う、この問題と同じ、なのだ。 一神教徒にはもともと、(多神教要素を持つ)哲学がまるで「理解しがたい」。 オイラは日本人が哲学と無縁だったと思っているが。 これは日本人がもともと多神教なので、無知を必要としないからである。 哲学は、「カルト破壊して掃き清めること」だからだ。 ところが西洋の一神教徒のほとんどは、無知の知をしみじみと振り返ることもしない。 形而上学にうつつをぬかして、修辞学を立てて繕っているのだ。 デカルトの哲学を継承せず、形而上学を継承している。 哲学から脱ぎ捨てたはずの、「宗教問題」と「修辞問題」が、脱ぎ捨てられずに、そのまま今日にも残っているのである。 デカルトは、これらを脱ぎ捨てて、それで、哲学と出会ったのに。 西洋の世間共有の哲学史は、哲学を無視して。 「修辞された形而上学だけを受け継いだ」。 秀才の満ち溢れえる世間なのに。 世間というこれが自分勝手に、形而上学と修辞学を、脱がずに手元に残したのだ。 つまり世間は哲学を、100%誤解している。 形而上学が哲学だ、と、思い込んでしまっているのだ。 名前が、字が、明白に違うんだが。 哲学は哲学。 形而上学は形而上学。 別物じゃよ。 現代では辞書にすら、哲学=形而上学だと、そう書いてあるのもある。 そのため。1:「無知の知」が、知への執着愛としてでなく「欲求愛」となった。 親しみ愛のフィリアはこれも、誤解された。 神の愛などという大ウソが、形而上学で騙られたためだ。 このことが、極度に大きいと思う。 自分の執着愛(哲学)をほっぽって、ありもせん神の愛に、みんなでエロースして、すがりついた。2:アリストテレスの「メタタ・フィシカ」が、自然学批判であるにもかかわらず。 自然学を超えるものとして、「メタ・フィシカ」つまり超越・自然学として、構想されたこと。 これもある。3:そのため、カテゴリーやディアレクティケーの意味も完璧に変節してしまい。 ロゴスの、並列させての確認のためのカタログや、親愛なレクチャー、という意味すら失った事。 これらの諸問題が無数に生じてしまっている。 カテゴリーは、デカルト形而上学以降とくに、「範疇」の意味として理解されるようになってしまって。 デイアレクティケーはプロチノス以降、「弁証」を意味するようになってしまっていた。 つまり言い訳(弁証)者に成り下がっているのだ。 範囲の鋳型を鋳造する感性図式的意味や、論議の言い訳の道具になった。 ぜんぶがぜんぶ、すりかわったってこと。 ぜんぜん違う別ものです。 カテゴリーはロゴスのカタログであって。 範囲立てたり鋳造したりの権能などは、一切無い。 デイアレクティケーは親愛なレクチャーであって。 言い訳などの享有の意味を、そもそも、持てない「共有」もの。 佇み直して、これらの事態を再論議する必要がある。 ぴったり、好都合の言葉が残されてあることに気が付いた。 それがオルガノン、なのだ。 アリストテレスの言葉じゃおまへんよ。 後の世の修辞学者たちのモノ。 上述の諸問題は、いすれも。 オルガノンの、「本質構成をなす部分の修辞論議」で、起きてるわけだ。 つまり、その部分の「修辞、形而上的論議」による路線間違い、なのである。 誤解に拠る、間違い。 これがつまり、「オルガノン修辞における、形而上学の問題」といってよい。 ハイデガー先生の翻訳が難しすぎるのと。 世の哲学史がおかしいので。 オイラ、胃を壊してしまって。 まともな卒論にもならんかった、遠い過去のオイラの問題。 それが今、わかってきた。 破綻卒論にゲタはかせてくれて、なんとか卒業させて頂いた三村先生に、この哲学史を献上したい。 とっくにあの世だし、読んでくれる人も、もう居ないかも知れないが。 オルガノンは今日、宗教に基礎を持つ「論理法則」の意味と化してしまった。 「修辞」を「論理」に摩り替えてしまった。 というより、論理という「言葉に摩り替えた」。 論理はロゴスのもので、その権能は十全には見えていないのに。 つまりバーチャリターなのに。 修辞済みの論理として、「人工の現実のほうを悪用立てた」。 オルガノンは、社会で共有の、法や、決まり事、になり切ってしまった。 つまりロゴスを追放し。 オイラたちが単純に、論理、という言い方に慣れてしまったのである。 ロゴスは単に、言語記号の意味にすら一部では、堕ちてしまった。 もともと、そうだったんではない。 これが非常に具合悪いことは、今日の「諸論理諸法則の横暴」から、わかるはず。 対話で、物事が解決できなくなっている。 論議世界に今日的問題なんか一切ない、という人はサイコパスだ。 しばし哲学史は、アリストテレスに舞戻るように感じるかもしれんが。 未だオイラに暗い、この「オルガノン」の前に佇んでみたい。 これは哲学史なので。 あくまで修辞的に拘るのみ、としたい。 オイラたちの前にあるのは、ローマ帝国時代に修辞されたオルガノンなのである。 これはアリストテレスの直のテキスト、「ではない」のだ。 ウイキによると。 「オルガノンとは、ギリシャ語で(道具)の意味であり、文字通り、(概念の整理整頓を通して)真理の探求を可能・容易にするための道具としての(論理学)にまつわる著作群であることを表現している」という。 まるで哲学のものであるように、書いてある。 が、これは「ウソ八百の、サイコパス者の修辞偽装論議」なのである。 オルガノンはもともと、ヘラスの哲学用語ではなく。 ローマでのギリシャ語、「実用の用語」だった。 つまり「目的に奉仕する用語」なのだ。 目的を隠して学問しちゃいかんのだが。 しかも、その用語が機械的な意味合いを持って、そうなっている。 そのことが形而上で明らかとなってきたんだから。 だからこれは、事実上、デカルト以降の出来事。 という、へんな事態が見える。 「論理」が「道具的」に見なされ始めたのも、最近だ。 これはプラグマチズム思想がでてきて以降のことだろう オルガンは、もとは単なる道具ではなく。 楽しく歌うための「楽器」だった。 ヘラスでは、そうだった。 人が奏でる歌を、器具的に代置して、手足動で歌う装置だった。 誰かが「発明した機械」だった?。 自動機械だったのではない。 単なる道具でもない。 人から見て、機械とみなすしかない、ある種の生命活動のようなものだったのだ。 だからオルガンと、名が付いた。 機械に名付けたんじゃない。 道具だとか用具、にあたる、もとの言葉自体が、かなり怪しいのだ。 たぶんであるが。(これはオイラのドクサだが) オルガンという芸術的な具体的発明モノ、コレが先にあって。 それを形而上学的に修辞して、あとから出来た言葉がオルガノン、だろう。 オルガンというこの楽器を、「単なる用具や道具だ」と言う音楽家などは、いないはずだ。 むしろ、自分の「命だ」と、演奏家なら言うだろうに。 だから、道具という有用な言葉は、最初からあったのではなく。 最後に、できたのだ。 これらの用語は、後のローマ時代以降の修辞用語なのである。 ギリシャ語の諸知識に対する、「実用的」な修辞のための用語。 オルガノンは、形而上学が一神教徒たちに利用されたようなものの、権能を示すのである。 ローマ帝国で実用に供された造語ではあるまいか、とすら、オイラ疑う。 (オイラのギリシャ語は落第級なので、あんまり信用できんが) わかりにくく言うなら。 オルガノンとは、「絵画芸術の汎実用化のための、用語」なのだ。 ローマで、初めて絵画芸術が生まれた。(ギリシャにはなかった) そのときに、同時にできた、んじゃあるまいか。 (若干、ヤスパース的)。 (ヤスパース先生は、理性のオルガノンを言う) オイラは昔、勝手にオルガという「生きた」人の「名前とカノン」をくっつけて。 さらに居場所を明確にして、(オル・カノン、というとわかりやすいので)。 存在論的用語にして使っていた。 居る・カノン。 こんなんではなく、単にオルガンのほうが、ええ。 もともと、形而上的に、かつ存在論的に、見えるようにした修辞学での用語なのである。 (使う者が)オル、論理を歌う。 そのための論理法則。 この場合でも、使う者を消して中性にしてはいけまへんヨ。 アリストテレスが言うちょるわけじゃないのに。 形而上学で修辞して、できたのが、オルガノン。 これは人工に想定された「人間の論理」なのだ。 ということをまず念頭に置いてもらって。 これがもともと、アリストテレスの論議としても、理解上のネックになっていたのだ。 アリストテレスが、どういう講義録を残したのかは、原型がないので一切不明。 カテゴリー、命題、論法、詭弁などの、「論理上の修辞諸問題」となって、すでに講義録にあった。 そのことは間違いないだろう。 これらは、そのまま検討された。 論理という言葉は、ロゴスがすでにあったが。 そのロゴスが、彼らに都合いいように、別の言葉に化けて修辞されていった、ということ。 後の時代の修辞論議。 それがオルガノン。 その構成として。 「カテゴリー論」、「分析論」、「その前後」、「トピカ」、「詭弁論駁論」などを含む極めてややこしい複雑な諸問題。 そう理解されたい。 認識対象が、その全体像がはっきりしない、のである。 オルガノンの世界は、全貌が見えないほどバカでかいのだ。 巨大芸術オルガンなんじゃから。 たかがオルガンなのに、そうとは言わないので。 オルガノンは、「論理」、の一言で片付くような単純な問題では、絶対にない、のである。 ましてや、カテゴリーを勝手にそぎ落として、記号や名だけにして、数学的に扱える問題なんぞでは、ありえない。 事は、「人の論理の本質に関わる問題」、しかも実際は、「実用修辞問題」。 その「有用性の範囲策定」のため、つまりカテゴリーを有用に使うために。 数学や法を目的外使用しようとするわけだ。 メタバシスやるのも、つまり、その背後にあるオルガノンが根本原因なのだ。 デカルト以降は、ワレ思う思慮で見えるようにして。 記号にしてそいつらを、名だけで動く「心理学」、「宇宙論」、「神学」のモノとした。 図らずもデカルト哲学が、「形而上学的修辞学やってくれて」。 それらの有用な「芸術オルガン演奏会」が可能となったのだ。 くれぐれも言う。 オルガノンは、「単なる道具」といった理念なんぞではおまへん。 芸術(クンスト)をやる人間の、享有かつ共有の、「極度に重要な道具=命」。 演奏するための、「神様的お客様のような組織的道具=しかも命」。 そういう意味の、しかも全貌がはっきりせん用語なのである。 生きた命みたいな楽器がモトだ、ということ。 オルガン。 コレ(楽器であること)忘れたら、オルガノンは、ただの非現実論理と化す。 化している。 道具になっちょる。 しかし楽器は、現実問題として演奏家の命なのだ。 生体にも見える。 もとの名ざしした、命モノ。 命ある限り、忘れるはずない。 これが、後の時代には、存在論的ありかたも、法的実行力も備えた、自分の「身体を備えた自動機械」となった。 ローマ帝国時代には神の法則であった組織が。 のちには機関に、つまり「器官」にもなった、と言うべきか。 修辞上は、生体ではない。 オルガンという、小道具なのだが。 アリストテレスの時代には、まだ世間は「生体の組織器官」の意味だったのであるという。 その程度の「自然学もの」だったんだろうということ。 アリストテレスの時代、オルガノンは、哲学で論議されてたんではなくて。 たぶん「自然学として講義されてた」んである。 人が親しく共有する、自然学や、無知の知。 これをレクチャーするために「使って」た修辞。 「カテゴリー」や「時空認識形式」や「トピカ」、「詭弁論駁」といったたぐいのものだった。 それが修辞論議の項目になった。 それがまず、目的不明な修辞問題で、初期に極度に肥大し。 さらにこれがデカルト形而上学によって。 ますます肥大した。 つまり哲学が、肥大させ一助の原因。 「実行支配力を持つ、方法の一部」になり。 「法則を秘めた、歌う自動機械」に、なったのである。 芸術を担う、クンスト・モノとなった。 肥大したオルガンの持つ、この芸術から、芸のクンストをそぎ落とし。 つまり歌う自動機械から、その感性的な歌と自動をそぎ落とし。 修辞して、有用な法的実行力だけ見えるようにして、有用部分を取り出したのが。 今日の「論理」、というわけなのである。 歌うオルガンが、修辞されて「人間論理」に化け。 さらに、アリストテレス無視の形而上学で「汎用の記号論理」に化けた。 それが今日あるオルガノンだ、とも言える。 まさに化け物。 便利にはなったが。 不具合はおまへん、というのが、記号論理学者たちの言い分だ。 彼らはさらに、もとの辞書すら書き買え。 これがオルガンであった事実をすら消そうと、今必死だ。 修辞したローマ時代の論者たちの見方に拠っても、上述のこの見解は、妥当な見解だと思う。 オルガノンの諸々は、「アリストテレスが作り上げたものではない」、そうだ。 古くはエレア派自然学者のゼノンや、哲学のソクラテス、プラトンと継承されてきた「ディアレクチーケーがモト」になってる、というのだ。 オイラも、ほぼ、それでいいと思う。 ゼノンはソフィストであって、フィロソフォスじゃないけど。 「対話」や「質疑応答」、「問答形式集の枠想定集」、みたいなもの。 それが、プラトンの時代に、「定義」とか「分析」、「総合」といった、推論技術のことを指すようになっていて。 しかも。 哲学では、その諸々のテクネーのことをいうのだ、となってた。 心構え(テクネー)。 これを中世末期に継承してたのが、デカルトだ。 技術は必ず用途とモノが必要だが、テクネーは自分が居るれば、それでいい。 アリストテレスがやったことは、この心構えを、修辞学で知識や言い訳に変えることではなかった。 「蓋然的通念を前提にした弁証」などは、ディアレクチーケーの「下位に置いた」からだ。 デカルトも同じ扱いだった。 アルケーから始める、動かしがたい「哲学論議が絶対優先」。 こころを、そこへ、論議の核心へ導いた。 オルガノンの、本来の居場所へ。 オルガンの心構えへ。 これを、「論証」と、いうのである。 論証の意味合いが、論理のそれと全然、違うのだが、おわかりだろうか? さらに、「カテゴリー」、「命題」、「三段論法」、「詭弁」、といった内容が、オルガノンでは、次々と検討されている。 「分析」や「トピカ」、「論駁」といった事柄も検討されている。 これを内容的に少しだけ、つまり表題だけで見ていこうと思う。 アリストテレスのオルガノンなるもの。 実は「後世編集の修辞学」のもの。 オルガノン。 まず、カテゴリー(ロゴスのカタログ)は、アリストテレスの場合は10個。 実在の、つまり現実認識のための心構えの、ロゴス的騙(カタ)ログ。 実在のありかを示すもの。 「実有」、「量」、「質」、「関係」、「場所」、「時間」、「位置」、「状態」、「作動」、「受動」、である。 カテゴリーは、現実を「享有」規定していくための、言語要素羅列みたいなものだ。 つまり、人の感性の形式(とみなした)、そのカタログなのだ。 ディアレクチークを推し進める、当の理性(ロゴス)の形式に対応した、「感性のありさま」。 あくまで<感性のためのもの>なのだ。 共有論理のもの、じゃない。 絶対に、範疇といった中性的な個別権能「共有」機能ものじゃない。 辞書にウソ書いてある。 この(現実の)個人の感性カタログによってはじめて、オルガンができ。 次に命題が立ち、論議が立つのだ。 享有論議が立ち、悪霊に全否定され、最後に無知の知が立つのだが。 「それがすべてディアレクチークという共有となる」のであって。 そうなって初めて現実、なのだ。 心の機能を導く人工の「範疇」なんぞじゃないので、ココを間違うと全部間違う。 カテゴリーは、政治意図を一切持てない。 このオルガノンのカテゴリーは、そのさまの、心を導く形式を反省していって。 そこで見つかったものだろう。 ディアレクチークも、これを下位に置く、というのは不思議なんだが。 「現実のない論議は、共有であっても架空の論議であるので哲学の下位に置かれる」、んだそうだ。 言い訳(弁証法)が下位になるのは、だから当然でもあるのである。 現実の物事を論議するさい、そのモノから論議立てるには、モノを演繹可能な大前提に仕立てる必要がある。 カテゴリーの機能である実有はもちろん、量も質も、モノの実在の要素である。 大前提ではない。 並列するカテゴリー。 関係、場所、時間、位置、状態、作動、受動、どれをとっても省略など、できない。 ほかならぬ省略できないものを事後に集めて、カテゴリーと、あとから言っているのである。 事前に言ってるんではないんだから、大前提などではない。 もとからある、感性に属ずる「こころがまえ」のもの。 次に命題。 これのない論議は、立ちようが、ない。 お題目。 オルガノンでは、これだけで1冊の本として立てる。 これがつまり、大前提なのだ。 構成要素の名詞、動詞の検討から始めて。 それ自体は、真でも偽でもないことや。 名詞は「約束」によって意味を持つ音声であるが、「時」を持たない。 動詞が、それの持つ固有の意味に「時」を持つ、といったことまで教えてくれる。 大前提の、諸々の解説が続く。 意味を持った音声である文に、真偽が加わると、命題文となる。 そのことや。 命題文には、その肯定・否定と、単純・複合がありうること。 矛盾対立命題すらありうることも教えてくれる。 事物の、普遍と個別の区分も命題区分。 (主語)の単一性(複数人であっても、命題として立つ我々は、確かに単一)。 こんなこと、前提にもなりまへん。 やがて時制(過去・現在・未来)と、真偽が検討され。 過去・現在については真偽が成立するが、未来の個別的なものについては決定できないことも、普遍真理として論じられ。 肯定命題・否定命題のバリエーションが紹介され。 表現対象の複数性と、弁証術の諸々が加わる。 「様相」(可能・許容・不可能・必然)と、肯定命題・否定命題のバリエーション。 命題の関係性についての判断も語られるのだ。 享有、共有の区別などは、しかし、ここにはないのである。 彼らは、ごった煮派なのだから。 コレは、オイラだけが騙る、特殊なオルガノン修辞だからでもある。 次に、この命題を結合する「三段論法」が検討される。 これは分析論の一部だ、と言う説もあるようだが。 オルガノンで正面に扱うのは、厳密に論証されうる「確実な必然的真理のみ」。 大前提を騙ってる、んじゃなくて。 「見えない分母を修辞している」だけなのだ 蓋然的で異論のある「蓋然的推論」は、トピカのほうで別に扱う。 詭弁的推論ついては「ソフィスト的陥穽推理」で論議されている。 命題を結合する三段論法というのは、以下のコレである。 すべての人間は死ぬ(大前提) ソクラテスは人間(小前提) ゆえにソクラテスは死ぬ(結論) 演繹的推論が厳密に述べられた場合には、哲学では必ず三段論法になる?。 しかしあらかじめ現実存在了解のない「非哲学の思弁では」、ならないかもしれん。 記号論理学などでは、幽霊が出るらしいのだ。 バートランドラッセルの批判がある。 「三段論法は演繹的推論の一つであるに過ぎない」というラッセル説には基本は賛成。 哲学者として修辞学や形而上学を脱ぎ捨てるなら、幽霊は出ないはずだ。 へんなもの着てるから、出る。 オルガノンは確かに、アリストテレスの講義録モトの修辞学なんで、これ自体怪しげなものなんだが。 記号論理学などでは、論理が大前提を騙ってる、とみなすらしい。 哲学はアルケーを信頼するが。 オルガノンが「大膳帝」だと、なんかは、みなさない。 カテゴリーを超えて、オルガノンそのものは効力などを持たないはずだし。 命題化されていない、「うふぉ」についての自然学でも、同様となるからだ。 そして経験的帰納法が及ぶのは、分母が確定する数学においてのみ。 であって、それには理由がある。 「死ぬ」とかいった、先験的領域(つまり後世の、非経験的な概念)には、そもそも数学は適用されない。 死体を数えるのが数学ではない、からだ。 数量、質量のカテゴリーで、死を量る、そのつもりなら別だが。 三段論法で、「異なる事柄が必然的に帰結する論理が作用する。」 などと修辞するのは、あきらかに間違いだろう。 wikiにはこう書いてあったが。 三段論法は、必ず、「同じ次元の論理のみに」作用するのである。 背後の「時空の現実」が、必ず要るのだ。 これ、三段論法は、そもそも数学論理ではないし。 論法がやる目的は、「論駁」や「弁証」のためになされることが多い。 現実の論議のみ。 演繹して結論命題を立て、更に人の無知を導く論議を使って論駁や弁証、というのは無理が大きい。 オルガノンは修辞学だが。 その用途は、もともとは哲学専用と考えられていたものである。 目的行為のためにオルガンはあるのだが。 現実無視の目的なんて、ローマ帝国の時代でも考えられてない。 今はある。 オルガノンはこのあと、「学問の出発点」を検討に入るのである。 それぞれの領域における公理と前提、定義に、「それ=学問の出発点」があるとする。 根源的で必然的な前提から出発するもの。 蓋然的な前提から出発するもの。 蓋然的に見せかける前提から出発する。 三つの形式があるそうな。 恒真的(apodictic)な「論証」こそが目指されるものであるそうで。 オルガノンは、このためのオルガンなのだ、とされる。 論証(demonstration)が上位で、蓋然的な通念(endoxa, エンドクサ)を前提にした弁証(dialectic)は下位のものという。 要点が見えなくなっただろう。 トピカの説明してない、からだ、が。 論証アポデイクシスが、オルガノンの「メインもの」だとわかった以上。 オルガノン修辞は、そこへ邁進するかというと、・・・しないのだ。 彼らは神学者だから、もともと要らないのである。 しかし読者で多神教徒のオイラたちには要る。 それに対し、トピカが、「下位の」弁証術ディアレクティケーを修辞しよう、というもので答えてくれるのである。 いわばオイラたち用に提供されている、のである。 内容は、序説と、付帯性の述語付けに関する諸々の「トポス」。 その特性、定義、弁証術である。 中には「本質」のトポスもある部分。 これらが実は、とんでもない哲学検討の大洪水を招き寄せることになるのである。 大学時代に、この話を何かの特殊講義で聞いた記憶がうっすらあるが。 当時はロクに、重要な問題だとは思ってなかった。 弁証術をオルガン修辞すること。 それは、関わった人が、これで「トポスの哲学をやるはめになる」、からなんだが。 ここで関わった修辞学者も、大勢いたのだろうと思う。 哲学って、こういうもんなんだヨ、と、ざっくばらんに書いてるのが、「トピカ」だからだ。 哲学の紹介をせねばならん。 哲学史なんて、トポスに比べたら、小さな小さな領域の修辞に思える。 トピックス(トポス)の、時代変遷が歴史記述だ。 つまり哲学史も、これ(トポス)に含まれるのである。 およそ哲学論議(ディアレクティケー)のすべてが、ここに出てくるはずだ。 これに関わって、本物の哲学者も大勢出たはずなのである。 内容は、オルガノン全体と同じ構成になる。 その反復、反省だからだ。 いや、もっと大きくなる。 つまり本物の哲学になるのだ。 面白いのは、「論議が、より深くなって出てくる」、という点。 小さくまとまるのではなく、まるで底なしになって深まってくる。. 演繹、弁証、見かけだけの推論(論争的推論)、誤謬推理はもちろん。 現存と不在、中間についても論議されるし。 知識に対する有用性、方法の限界なども問題となって出てくる。 命題と4つの述語形態は、定義、特性、類、付帯性。も検討され。 「述語形態はどこまで別々に取り扱われ得るか」。といったことや、「同じ」という言葉の種々の用法などが、数的、種的、類的、にも扱われ。 さらに内容は深まりを見せていく。 とうていついていけないほど、内容は精緻になっていくのである。 全体見るのすら、ここでしんどくなるのだ。 オイラの能力を超えてしまう。 ここらで、トポスについてくの、やめ。 友情、正義、富、強さはもとより、およそ論議で取り上げられるすべての事柄。 それらが「トピカ」には網羅されている、といってよい。 トピカは端的に言うと哲学大全(という修辞になるが)。 オルガノンの内部の、小さなトピック領域。 そこに、対話術の諸々として、およそ世界の世界性を形成する論議が全部、入れ子状態で詰まっているのだ。 まさにアガスティアの葉っぱなのです。 無知の知のみならず、形而上学論議などもぜんぶ含まれるということ。 だから、この「トピックス」という事に関する現代風理解も、どこかおかしいのである。 つまり、正しく修辞されたトポスの訳ではないのである。 トポスの訳であるなら、世界のすべてになるはず、だから。 (主体)との間の関係についての「トポス」なんていう項目もあり。 1. 存在しないものに特性を可能性において与えた時は、特性は覆される。 2. 特性を最上級において与えたならば、その特性は覆される。 これらを読んでいると、まるでトピックは「真理」という用語ではないかと思えてしまうから不思議だ。 有用な、対話術知識の総修辞。 それがトポスである。 オルガノンという、修辞したオルガンの、小さな一部部品、なのであるのに。 これが全貌を騙る。 まるでウロボロス形式が、モロに見えてくるのだ。 バーチャルになってくる。 (ローマ帝国時代の当時はまだ、そんな用語はない。これはドゥンス・スコトウス先生の物) トポスというここには、哲学が関与した、世界のすべてが詰まっているのだ。 アリストテレスの講義録は、こうやって大勢の修辞学者によって編纂され。 西洋の諸学の基礎となり、それが現代の論理学、弁論術、科学技術の基礎となった。 特に、デカルトが哲学の中興者となったことで。 その哲学が、形而上学や修辞学だと誤解されたことで。 オルガノンはオルガンではなく、「論理」とされたのだ。 デカルトはそんなこと言ってないのに。 オイラは形而上学も修辞学も、哲学だとはまったく認めないのだが。 このオルガノンの壮大さ、特についていけないほどのトピカの壮麗さには、「尊敬」・「畏敬」の念しか沸かない。 世間は、デカルトの哲学は継承しなかった。 だが、彼が受け継いでいたこの巨大な修辞学には、ただただ尊敬の念しか沸かなかっただろうはず。 しかしトポスは、その壮麗さのあまり、敬遠された。 それを生み出した、この「修辞学」と「形而上学」のほうが、科学技術の基礎となったのだ。 理性的誤謬に満ちた修辞学と形而上学が。