哲学史11-3ー4 カント 図式論
「カント哲学の(オイラだけの享有)核心部分」 胃の調子が悪くなるテーマ。 もちろんカント哲学の核心部分だと。 オイラが勝手に思い込んでる図式論である。 カント先生が熱心にコレと取り組んでいるのかといえば。 ロクに振り向きもせずにあっさり通り過ぎているように見える、というのが正しい。 だから、ここではオイラも、前置きも結論もクライマックスも抜きに、あっさりと軽く騙るのみに留めたい。 但し、形而上学的に図式を考えると、問題の所在が一切見えなくなるので要注意だ。 この理由は、過去に自分で、わかった。 要するにwindowsのAPIのbitblt構造だからだと。 見えんのでイメージに頼り、それが重なって覆い隠してしまう部分が出てくるのだ。 絵画的になると肝心の部分が全部消える。 興味ある方は、オイラのブログサイトの遠い過去をほじくってください。 何度か舌足らずに論議した記憶だけがあるだけだが。 カント先生が図式論を見出したのは、先験論のアルケーに、時間・空間というあんよひもが見えたためで。 ア・プリオリな純粋悟性概念が、感性に導かれて図式(schema)的に働くものであることがわかった。 その感性は、見えない図式権能をもって、カテゴリーを働かせている。 そのように思える事。 つまり構想力として働いているように思える事が、この論議の核心だ。 だからカテゴリーは、「純粋悟性概念の図式」、とも言われた。 相手は、人の持つ「構想力」なのである。 これはイメージだとかの、人が構想済のものの反省ではない。 見えさせる力や、集まって範疇にする力、なんぞでもない。 むしろ時間(形式)とともにある、すでに、未だ、現存在にも、見えてない力。 自分の無知を覗き込まないことには見えてこない。 オイラたち日本人にはむしろ、空間とともにあるカラッポを見せる力だろう。 見えてない、bitblt形式の力。 プログラムみたいに思うかもしれんが、違う。 あくまで形式なのである。 おまけに見えてないので、絵には描けない、のである。 そのくせ、むしろ<図に描ける>という不思議がある。 まさに図式できる、のだ。 絵画より、漫画の本質に似たもの。 カント先生が「構想力は時間の秘密である」と言っているのは確かだが。 これを自分の哲学の核心に置いて見ていたかと言うと。 ちがうやろナ、と思う。 自由とか、道徳とか、共有の政治のほうが先生には大事だ。 つまり社会の共有現実のほうを向いてたのがカント先生。 ロック哲学の継承者なんやから、政治目的の修辞学が大事。 図式は、経験を導く先験的なナニカだが。 およそ形而上学的なテーマではないし。 ディアレクチークの要約にもなりえない。 修辞できない、のである。 これも図式論の特徴。 修辞できない。 つかみどころのない(うふぉ)ものだからだろうが。 カント先生の哲学の最終目的はディアレクチークなので。 つまり先生は哲学の教授なので、それで食ってるんで。 つかみどころのないものはいつまでも相手せず、素通り。 ゲルマン系種族は散歩好きなので立ち止まりはするが。 その程度。 時空を扱う類似の物に、想像力やイメージ形成力(ピクチャー化の力)があるが。 そんなんとも、ぜんぜん違うんで、間違わんように。 文字通り「構想する力」であって。 一見、企画力にも似ている。 しかし企画とはモーメントが正反対。 それに構想力は、目的抜きなのだ。 予定もなければ到達点もない。 ソコ(ソコという場所、底)があるだけ。 企画は確かに時の内に予定だてるアジェンダなのだが、時間手順に従う。 一意に収斂させるし、目的が導いている。 そういう個別目的を持たない、決められた時間手順を持たないのが。 図式にある「構想の力」。 共有の共有を成り立たせていそうな、既に知ってるけど見えてない力。 共有の共有は、享有する時間のうちに、しかも図式のうちに、間違いなくあるのだ。 これがしかも、享有の享有、概念の図式。 先験的悟性概念の図式というべきもの。 つまり、カテゴリー(純粋悟性概念の図式)として働いている「現存在の捕まってる力」なのだ。 カント先生風に言うと、自然な、つまりナチュラリスな、現存在にある力。 心理分析できる対象もんじゃない。 政治的意味合いの隠れている、範疇の力などでもない。 なので、くれぐれも間違わんように。 これはカント先生が言う通り、形式立つ先験性が持つ「時間」のほうだからだ。 その「先験的時間形式」、なのだと思う。 形式を形式立てる、形式=時間。 憂慮として見えてるが、実は形式。 図式という、あくまで共有の「形式」。 但し、これが享有でしか理解できない形式、という不可解さを持つ。 だからオイラはむしろ。 「有職故実」という日本語が適切だと過去に思った。 オイラは特に、ここでは見えてないし、先生がハッキリ述べているわけではないが、更に「空間も一体になってる」んだ、と思う。 一体となって、「人の身体として」享有者の感性権能を一手に受け持っている。 未知の権能なのである。 権能と言うより、やっぱし形式じゃのう。 未来の投企権能じゃないので、これ絶対に間違わんように。 アジェンダ無関係。 むしろ過去の権能にも見える、ものだからだ。 先生も、こんなこと言わないし、そんなもの扱う学問はない。 (形而上学を除いた)哲学、以外は。 図式は時間であるが、同時に空間でもある。 バーチャリターな存在、なのだ。 つまり(うふぉ)世界の世界性。 メタ(超越)世界性じゃなくて、「先験的」な世界性。 超越してもうたらそれでつながりがチョン切れる。 でも、若干メタメタ同然の、世界性。 わからんのでメタメタになるためだ。 これも、形而上学が目指す世界の世界性に、重なって見えて(いる=ない)ためだろう。 なので間違わんように。 いる、でも、ない。 でもあるが、でもない。 ある、も、ない、も妥当しちまうのである。 図式それ自体は、みえない闇なのであるから。 あるのに、闇。 それが、現実のオイラたちの世界を取り仕切って、図示してる。 まさに秘密ゲ・ハイムニス。 これが、不可解な時間・空間の図式形式だ。 まあ、オイラという有限で低能の享有者が、自分の身体を共有だと思い込んで不思議がってる、それだけのことです。 図式は、形而上学世界像を成り立たせる誤謬推理には、必要不可欠なものなのである。 同時に、ピクチャーや(人の)イメージをも導いている。 実に、世の根源の(つまり身体の)命の力、なのだともオイラ思う。 じつは共有人という自覚を、これが導き図示するかと言うと。 決して導かない。 むしろ享有者の「自覚」を掴む。 彼の「実在認識」をのみ、図示して、導くのである。 ハイデガー先生はたしか、ヒンブリックとか言ってた。 めくばせする。 だから哲学上、重要な概念となる(はず)。 なのに、これに共有のプログラムみたいなものを想定しても、一切ムダなのだ。 形而上学的に思惟すれば、bitbltになるだけだからだ。 そんな、プログラムなんつう電脳世界のもんに至っては。 一切馴染みまへん。 構想力は、享有者の、つまり思惟即存在者の存在認識には関わるが。 だが徹底して、有限な<感性のモノ>なのである。 それが「ある」ことは、<享有者にしか、わからない>からだ。 オイラの身体の痛みは何かを図示しちょるが、痛みはオイラにしか、わからん、つーこと。 だからといって、道徳や倫理のようなものかというと。 そういった手の「共有公共性」の片鱗すら見せない。 しかし感性に「図示できる」のだ。 つまり、公共の力なのでもあるのだ。 図式では、間違いなく差し示せる、のである。 めくばせできる。 案外、言語の文字の、記号的本質かも?。 記号ではなく、図式本質、と言うべき。 連中は図式が見えてないので名や記号に固執するが。 記号は、享有部分が皆無。 カテゴリー骨抜きにするメタバシス論議なので。 メタバシスやらない感性なのであれば、記号ではないことになっちまう。 だが、代置記号と、どこか似たとこはあるのは間違いないのだ。 物理時間などといった普通の対象認識論議では、一切ハナから相手できない。 賢い頭でいくら考えてもムダというものだ。 対象認識では、感覚同様、イッヒ デンケ の、その個体だけのものとなる。 オイラが考えるだけのモノ。 しかしコレは同時に「先験的な共有もの」だからだ。 そんなものに、なんで拘ってきたかと言うと。 これがイッヒ デンケの、「デンケンを可能に」しとるものであること明白だからだ。 図示しようとしちょる、からだ。 図式されて、オイラはじめて解る。 つまり、オイラのオイラ性、オイラ享有の時間・空間の実在をア・プリオリに。 めくばせされて図式られて、オイラは、オイラをオイラであると理解する。 形而上学が、世界の世界性を論議する先験的誤謬であるのなら。 こちらは、オイラのオイラ性を論議する。 「無知の知という先験的誤謬」のもの、だからだ。 無知の知の本質なのである。 構想力は、その根源的力で、ズブエクトウムを支えている。 つまり「時空間の、根源の秘密の秘密」、核心の核心、なのである。 しかし形而上学では一切扱えない。 一意の神を考えたら、ものの見事に消えるからなのである。 だからこのミステリーは。 神々の力ではあっても「一意の神ではない」と言える。 しかも、ありもせん「先験的経験論議」でしか、扱えない。 そのくせオイラのオイラ性を、認識の認識性を、存在の実在部分を訴えている。 自由の自由性を言う、有限な、根源の力なのだから。 無限の力じゃない。 有限の力。 経験論主義なんぞといった、主義主張では、もちろん扱えまへん。 カテゴリーの図式、つまり純粋悟性概念の図式は、数学的に扱える。 但し、思惟のモーメントが逆になり、容易にメタバシスになる。 純粋悟性概念は、実在のモノ自体それ自身であり。 統覚であり。 神だ、というのが形而上学者だが。 カント先生は(先験的)経験論者なので。 カテゴリーに神の機能を持たせたりしない。 つまり本来の使い方をされなくても、図式の働きがあるから、共有世界で図式が有効になる。 というだけのこと。 ところが、その図式がある、と言えるのは、共有世界の世界性ではないのだ。 <享有>の時空でないと、それは<実在>しない、のである。 先験的誤謬推理に陥るからだ。 ここで「実在」は、「享有の別名」であることがわかる。 ここらでやめとく。 結局、なんにもわからんままだが、誰か継承してもらえるだろう。 実践理性批判も判断力批判も、さらに晩年のカント先生がのめり込んでいく社会問題や自由、政治、倫理・道徳の世界も。 ここでは一切扱わないことにした。 倫理・道徳については扱いたい面もあるのだが、いずれ補遺にでもするかも。 図式論でひっかかって、オイラ、カント先生の著作にも満足に登れんままに、一生終わってしもうたが。 でもせっかく哲学史はじめたんで、20世紀まで早く一応ぜんぶは行って見ておきたい。 というのが、はしょる一番の理由だ。 ディアレクイークの、そっち優先にした。 さて。 いかがわしい世間の形而上学は、いかがわしさ指摘されても終わらなかった。 それはカント先生以降、「メタ形而上学へと進化を遂げて、学問や思想の世界に巣くった」という説もある。 この説採用。 形而上学がメタ・フィシカなので、メタメタ・フィシカになったわけだ。 これはオイラの説。 巣くっただけでなく、それらは自分を隠して哲学だと主張した。 「病んだ哲学」が一層酷くなった。 それらは合理主義の名のもとに、イルミナティの総帥となったヘーゲルで、大いに復興したかに見せている。 だが。 先験哲学の形而上学的誤謬推理ゆえに、その図式の権能は、先験的統覚の空虚さのほうを図式化しようとしてしまう、のだ。 形而上学は姿を変えて。 ドイツ観念論や、心理学への回帰に拠る現象学などとともに。 メ・タルでできたコインやカミで出来た紙幣を扱う、経済学をも産んだ。 タルもカミも円も神である。(エン・リル) オイラ、経済学すらも形而上学だ、と言いたいわけだ。 一神教の、これは宗教カルトなんだと。 さらに形而上学は、隠れ言語や心理を扱う構造主義を産み。 ミュトス領域へと大きく特化し、肥大した。 プラグマチズムを産んだのである。 いずれも「哲学とは無縁に思える思想運動」なのだが。 彼らの共通の敵があったので、それを奴隷にして肥大した。 奴隷労働者は、無知の知という哲学だったのだ。 彼ら形而上学者は、無知を何より嫌うという特徴がある。 人は無知で生まれるのに。 あかんぼが、きらい。 たぶん、哲学が多神教でできているから、形而上学者は哲学を嫌うのだろうが。 彼ら形而上学者は、寄ってたかって哲学を破壊し、消したのである。 自分たちの労働力を消そうとした。 今も、コレやってる。 戦争だとか、遺伝子だとか、医療マフィアだとか、急速普及する電磁波も使って。 カント先生以降の後半の哲学史は、人中心に見ていく哲学史にはならないんでは?。 どういった主義主張の中で、哲学が細々と息づいているのか、これを示す試みとなるだろう。 後半の構想と言うか、それの予定を。 実際にはどうなるか、皆目わからん。 ドイツ観念論という、疑似哲学の歴史(フィヒテ・シェリング・フッサール)をまずうかがって。 ついで。 神学者のキルケゴールを、「例外的単独者の哲学と肥大する組織」、というテーマで扱い。 合理主義の形而上学集大成者に見えるヘーゲルを、「イルミナティの、無の哲学」というテーマで扱い。 歴史や超越神学には囚われなかったが、メタバシス神学には捕まってしまってるように見えるマルクスを、「価値資本の無産哲学」として見通したい。 さらにニーチェで、「形而上学崩壊の時代の哲学」を、「最後・最高の文献学修辞」として扱いたい。 大陸の哲学の系譜をたどるので。 オッカム以降の、プロテスタント疑似哲学系譜も必要だろう。 経験論とメタバシスの、記号論理論者たちだ。 さらにサイコパスたち。 彼らのプラグマチズム疑似哲学まで採り上げておきたい。 ニーチェ以降の大陸は。 ハイデガー先生の、「ナチス存在論の哲学」をもちろん騙り。 フランス構造主義という、陰謀論にすぎない修辞思想を逆暴きし。 21世紀の現状考察も、できればやりたいものである。 ナチスというのは、「積極的キリスト教徒」のことを言う。 哲学史が形而上学と決別できなかった、哲学の終焉を宣言せねば存在論の病を克服できなかった、彼らの事情を描きたい。 特に日本の現状は、どうなる? 日本人はもともと多神教徒なので、哲学なんてのは要らん。 しかし支配階級が一神教化してしまったので、掃き清めの必要が出た。 今は無数の哲学者が育ってるんだと思う。 点取り虫の形而上学がのさばって、殺して回ってるのは間違いないんだが。 享有の哲学は、もともと哲学史には馴染まないものだし。 一神教徒の類は特に、哲学として論じる価値なし、と思う。 西田先生? オイラの先生の先生だが。 時間・空間を無視するので、メタバシスな求道家は扱いようがない。 現実の時空がない、からだ。 それに、哲学史は必ず「西洋哲学史」なのである。 審神者の術や、神々の誓約の術も、今は現実に居場所がない。 それらは東洋哲学でもない日本固有のものだからだ。