哲学史19ー3-1 プラグマチズム <可謬主義と功利主義>
さて、プラグマチズムという宗教教義の中身。 この思想の本質は、知性の「可謬主義」と、ポイエシスを見守る感性の「功利主義」勘定にあると思う。 知識というものに対しての認識が、もともと英国と大陸では、かなり違ってた。 英国ではもっぱら可謬主義が盛んで。 経験で得た知識はいずれ修正するもんだ、という意見が優勢だった。 かびゅう主義というのは、「人間やから誤って当然だば、今通用してる知識も、いずれ代わっていくんじゃろう」、という極めて経験論的な見解。 一方大陸では、「誤りなしに基礎づけられた論理体系こそが知識なんだ」、という意見だった。 誤ってる知識なんか不要、と。 ともに知識論であって無知論ではないので、哲学的思惟ではないのだ。 しかしこういった、<知識や知恵についての愛好論述が哲学だ>、と思われているのが世間では普通のようである。 これは絵にかいた餅食うような誤りです。 無知の知は、自分の無知を絶対的に享有時空の中に自分自身で知ることであって、誤りの知識なんか持つことじゃない。 ましてや共有で踏みつけにした知識が基礎というのはわかるが、他人の感性を土台にしといて、何が個人の哲学じゃい。 哲学の共有は親しい者どおしの対話(ディアレクチーク)のみ。 新大陸では貴族は少なく、庶民の成り上がりものが多かった米国では、そういった一般的庶民知識が世に出られる風潮もあったのか。 プラグマチズムが立つのも、可謬主義の土台の上でだったと言えるかも。 これは無知の知論議ではないのだが、経験論なんで。 哲学とは若干だけ近しい、ともいえる立場。 但し共有認識なので宗教に特化するため、違うんだが。 これは彼らの宗教的へりくだり態度が、そういう傾向を見させるようだ。 数学者で宗教家の、パースに関わることがどうしても多い。 これは、彼がプラグマチズムの中身を語ってくれているからである。 彼にとってプラグマティシズムは、「実践効果」でもある。 宗教なので、信仰目的の思惟・思想であり。 デカルト的形而上学でも、また哲学思惟でもないのだが。 万事にリアル優先の、功利優先思惟の、効果狙いだけのコマーシャルを見せてくれるから相手しやすいのだ。 デューイなどは、古典的自由主義の個人主義に反論したことで知られているが。 「社会制度は個人のために何かを得る手段ではなく、個人を創出する手段」だとまで言っている事実もある。 哲学的個人を、全く認めてないのである。 信仰「目的の先立ち」、があり、それが哲学的思考を邪魔するからとっつけない。 個人の哲学的思惟はないし、対話目的でもない。 では共有思考で小売優先? 量販店つくりたいだけだろ、と思う。 プラグマチシズムは、「スコラ哲学のリアリズムの持つ真理へ至ろうとする、精力的な主張だ」、とパースはいう。 リアリズムが、まったく個人のものではないというのに。 スコラ学(哲学)ではなく、スコラ哲学という名の、ウソの形而上学も出てくる。 過去にも述べたが、スコラ学は哲学だが、スコラ哲学は、単に宗教である。 形而上学への態度も、だから。 「冷やかすもんではなく、本質を引き出すもん」だと、用途まで明確にして出してくる。 明確に出してくるこれらは、決してウソではないのである。 オイラは、形而上学つうもんは、部外者がひやかすためにあるもんだと思っているので意見ちがう。 功利があり、売れる本質を引き出してくれんかったら、こんなもん利用する意味がない、と。 バースは有益なコマーシャル的利用価値をのみ、表明してるわけだ。 実務目的が先に立たねば、特に形而上学問いの先導だけでは、彼らにとっては不足なのである。 だからこれは到底哲学ではない。 自分で考えさせる、そのことも一切やらない、からだ。 見えてない先導者、扇動者がいるのである。 実務力はないので、見えてない哲学的感性とは全く違う<魔もの>がいる、というべきか。 それが、タ・プラグマータだと、「道具的感性だ」と、おいらには思える。 チェーンソーの首切り男を用具建して、ミイラとりをミイラにしてしまう「魔物」だと。 しかし彼らは、その魔物を隠したまま、虚偽の民主主義社会へと大衆を誘導する。 パースは、真理の基準を研究者集団の意見の一致に求めたようだ。 が、こんなんどだいムリな話。 政治力がいる。 道具志向、モノ志向が先導するプラグマチズムのほうでは。 しかしいつも、実務への有効性は極めて高く、価値があるので、人々に人気高い。 「真の科学は(実験によるのではなく功利目的の)観察という方法に拠る」(ほうが有効)という、 社会の人々の方も、もっと効率よくもしてくれる功利理論に期待。 「注意を怠らない銭ゲバじゃないと、あかんえ」、と教えて言って、それに大衆も応えているのだ。 科学が彼の本職だと言われている。 だが、成果を上げたのは数学である。 実態は金勘定得意な、大金持ちのコマーシャリストだったんだろう。 今日では別名ジャーナリズムともいう、ピエロ稼業だ。 我が国では、すでに消えたチンドン屋。 庶民の人気を集め、資産家に取入って稼ぐ宣伝屋なのだ。 発明も志したようだが、これはまるでだめだったようだ。 既存科学の実験は、未だあいまいな仮説の実証証明のためにやるのが通例だが。 そういった仮説建ててのー実験実証の科学を、彼は全否定する。 ひたに観察ー観察をば、ご推奨。 多動性の自分では、できなんだ?。 つまり<見守る、心構えのほうこそが大事だ>と、大衆相手に、大いに強調するのだ。 そう、プラグマチシズムの本質は可謬主義と功利主義なのだが、これはまた民主主義でもあるのだ。