哲学史21-5 分析哲学 <数学者ペアノ/統語論>
<数学者ペアノ> ペアノの表記法とか公理と呼ばれるものを、ながめすかしつしたけど。 結局なんのことやら、いっさらわからなんだ。 オイラには、この手の、特に現代数学は、やっぱムリやった。 わからん、理解できんので、ペアノ終わり。 なので、以下は無知者学徒の語る、愚痴。 公理というのもいろんな意味でつかわれるが、要は、<自然数の全体を特徴づけようとしたもの>という表現をされてたが。 5つの公理で自然数全体を表記し、特徴づけて・・・、集合的に扱いたいだけやろ? 囲い込み運動なのか? 現代数学者なる人たちが、そこをハッキリ言わんのである。 数学と現代数学は、明らかに違う分野のものになってるのだ。 現代数学において、標準的な数学の対象はすべて「集合」として、分母を隠して実現させられているように思える。 仮想の対象全体を認識把握したいわけだが。 (分母のないまま)自然数のすべてを、その現実をつかみたい、(という虚無主義な)わけだが。 掴みたい理由の、最終目的を言わんのでわからん。 何のためにそんなことやるのか。 演繹できん。 数の概念化というか、具体的なモノ化というか。 より正確に言うなら、「知識化」、「情報化」がなされているんやけど。 より早い話が、<数学の論理学化>が起きているんやけど。 それらを隠そうとする雰囲気すらある。 虚無主義という名のブラックホールがうごめいて、世界のマトリクス化は、ひそかに進められているわけだ。 理論として図式化される、それだけでなく。 集合として対象の全体を掌握し。 今やアルゴリズムで、ほぼ操れるようにもなってきている。 人間奴隷の共有操作が目的なんやろ?。 現代数学を始めたのは、1862年生まれのヒルベルトといった斬新な思想の人たちだ。 これって数学思想なんぞじゃない。 何か別の思想、つまり論理学を数学のやりかたに持ち込んだようなもんだ。 哲学に形而上学や修辞学を持ち込んだみたいに。 彼らは何をしようとしているのか。 これは本来数学者が考えるべきことなんやろうけど、数学はことごとく一派に取り込まれたようなので。 数学者自身が現在起きていることを見極めることすらできてないんでは?。 ウソの哲学も絡でくるので、泥沼ばかりでもあるし。 この泥沼の部分は、オイラずっとはまってたんやけど。 最近、哲学やないと、かなりはっきりわかってきた。 知識学や、あるいは政治的な修辞学、信仰的な形而上学や、あるいは・・・主義という名の魔術思想なんや、要するに有象無象なんやと。 オイラ哲学擁護の目的で、これまでも言ってきたわけだが。 泥沼被った被害は哲学だけやないこともわかってきた。 数学も、自然学もヤラレている。 数学を、「人の知識」ではなく、現実を計算できる「神の力を操れる知識」にしたい連中がいる。 しかも言語のように自動機械に使わせて、形容や力関係をコッソリ操作できる図式にしたいというわけだ。 そんな連中がいっぱい、世間に、うごめいている。 オイラと違ってみんな超賢い。 そのくせ倫理観はおかしいし、まっともな道徳すら持ってない。 言語は、知識や思想、感情や勘定を伝達するが、数学は、もっと違う分野の厳密なことがいろいろできた。 量を量ったり、長さを延長したり、時を遡ったりだけじゃない? 日食を予告したり、地球の円周を計算したり、太陽の位置を予測したりだけでなく。 ありとあらゆる実務的なことに、間接的に、しかも客観的につながることができた。 暦をも計算できていた。 暦操作を、歴史操作だと勘違いしてる宗教連中も多いんやが。 時空に学んで(真似しして)、仮想の時空を形成できる能力を、数学は持っていたのだ。 但し身体を扱うので、享有時空を、みんなの共有品に見なしてしまうへんな特徴がある。 享有数学なんてのは、ないのだ。 しかし共有にして享有も扱える。 だから数理哲学みたいなことを言い出す輩も出る。 最後に手を出したのが、現実というものの時空操作というわけか。 sfチックに言えば、タイムマシン制作。 立ちふさがろうとする哲学を絞め殺し、自然学の分野に手を伸ばし、風を量ったり、気象を操ったり、周波数を測定どころか改変したり。 そのための原理探求。 公準要求したその意味が、演繹重視の哲学とは、その根本から違うのである。 哲学は、自己享有の無知を悟るための反省的認識なので、佇む。 変な泥沼を回避したいだけで。 宗教家が誤って形而上学に手を出したりはしてたが。 形而上学には先験的誤謬があることが、わかっていた。 その後、修辞学の関与ものでない、人倫のカテゴリーと無縁なヘーゲル論理学が生まれ。 これがやがて世間を支配して、哲学を絞め殺して、虚無世界に君臨し。 そこから数学や言語学にも手を下しかかっていたわけだ。 今や死に体の哲学は、狭い倫理・道徳領域に押し込まれた感すらある。 無関係な場所なんやけど。 倫理・道徳というこれも、宗教は関係あるし、社会生活営む上では大事なことなんやが。 哲学とは何の直接関係もない分野なのに、不用品として一緒くたに押し込まれた。 哲学は、享有の無知の知なので。 公理によって泥沼を整地し、公共の広場を掃き清める、ことができる。 無駄な親しい者との対話に時間費やすだけでなく、審神者、さにわ、の役割も持つ。 公理は確かに人倫に属するものだが。 唯一神にのみひれ伏す彼らは、そうは考えないし。 彼らにとって、いずれ神の原理を操る、そのための基準点にすぎない。 彼らはヘーゲルが端緒を開いた論理を使って、<現実を操作する事業>に取り掛かっているのだと、そうも思えてくる。 「軽薄な倫理観」や「悪魔的な道徳心」のままで、アジェンダがやってる。 分母のわからない、この彼らは、いろんな組織員であるようだ。 行きつく果てが、セルンなんやと思う。 できてもうてる。 気象も地球の営みも、なんか最近ガタガタ。 太陽からしておかしいんだが、セルン絡みという説もある。 そもそも、どっからカネ出てるんやろ? はっきりせん。 セルンは、ブラックホールの製造や、究極の素粒子の組成を変えることまで、手が届きかけている、という。 宇宙自体を、いじりにかかっている。 できもせん時間旅行を言う人もある。 できかけてる、という人もいれば、単に未知の諸現象を引き起こしているだけ、という人もいる。 目に見える異変が写真に撮られたことも数回ある。 特に実験開始日時に連動しての、明確な地震が何回かあり、怖かった。 もちろん、そういった報道などは、あえて皆無。 口止め料が出てるのだ。 従事している現代物理や現代数学のエリートたちは、半ば未知の機関に大金もらって働いていて。 形而上学、存在論、心身の諸問題を、ことごとく一意の信仰に重ねているという特徴を持つ。 どうやらシヴァ神信仰が中心らしいんやけど。 仮想で計量可能にしておいて。 今度は軽量の垣根を越えさせて、メタバシスやって。 形而上学、存在論、心身の諸問題を、その諸問題の演繹できる人の身体的感性ではなく。 虚無に代入する。 また逆に仮想に仕立てた現実数学のほうから操作するので、オイラに見えてない目的があるんやとも思えてくる。 数学、言語学、技術工学、物理学、心理学、すべてが<人の現実から>ではなく。 人の現実を仮想に操作する<予定事業>から、論理だてられて、いるようだ。 なので、その虚無のマトリクスに囚われてみない限り、外部からは、彼らのやっていることがわからない。 この端的な例が二進法の微積であり、現代数学の諸々なんだと思う。 オイラに欠けている、どうしても<わからん>部分。 要は、彼らはカルトなんで、現代数学というカルトに入らんと理解できんということ。 広義的に言うと、現代科学技術という名の論理学を使ったカルトなんで、カルト入信しないとわからんじゃろう、ということ。 しかしカルト化されたら、今度は他の世界が見えんなるの、まちがいなしだ。 へーゲル論理学が導いた、神のいないマトリクス世界が控えちょるので。 ハイデガー先生は、自分の享有し信仰するナチス(積極的キリスト教徒)という立場から日常へとへりくだり。 見え始めている「世界像の時代」を、そのゲシュテルの危機を警告していた。 それが「虚無主義」と深く絡んでいることの恐怖を、何度も語っていたが。 それらの背景が、21世紀の今はもっと具体的に、<現代として>、オイラたちにも見えてきているわけだ。 反面、この虚無主義は完成し、マトリクスとなって何かを産もうとしてる。 一層見えにくくもなっている。 ゲシヒテ(存在論の歴史)に関わるゲシック(ぶり返す構造的病)は、論理が関わる組織を侵す病なのだ。 個々人、つまり享有者には見えてない。 どこが病かというと。 分母がない。 見えない構造が図式として指示命令する、行先のはっきりしない、という病。 結論も見えない。 どこへ向かっているのかすらも、わからない満員電車、闇夜の手漕ぎボート。 論理数学はテクノロジーを生み、サイバネチクスという未来を生み、発明という画期的なものをもたらしてきた。 だが、それが何を引き起こすか、モノができんことには、皆目、わからないのだ。 たいがいが核兵器に見られるような、<大規模殺戮用>として見えてるものだが、それだけじゃない。 すでに反物質爆弾も視野にある。 未知の彼らは病んだ組織のまま、宇宙の構造組成を変えにかかっちょるのだ。 原因は、これもはっきりしちょる。 哲学が死に体で、世間から無視されてるので、さぼって遊んでいるからである。 享有に閉じこもり、共有の広庭のお掃除してない。 ペアノの公理は、オイラには理解できないとわかった。 が、彼の原始命題と言われるものには辛うじて、解る部分もある。 「 1 は自然数である 任意の自然数 a に対して、a+ が自然数を与えるような右作用演算 + が存在する もし a, b を自然数とすると、 a+ = b+ ならば a = b である a+ = 1 を満たすような自然数 a は存在しない 集合s が二条件「(i) 1 は s に含まれる, (ii) 自然数 a が s に含まれるならば a+ も s に含まれる」を満たすならば、あらゆる自然数は s に含まれる。」 ペアノは、これらによって自然数を定義しよう、などとは考えてないのである。 ラッセルは、これと違う、オイラにわからないペアノの表記法のほうを、「一般的な統語論へ発展させた」という。 彼が公理にした、と言いたいようだ。 ホンマかね? 統語論というのは訳がよくない。 むしろ「配列」・図式じゃろうて。 語源はギリシャ語。 どうやって話者の頭の中で語や句が配列されて、文法的な文が作り出されてきているのか、を言う。 極めて数学的、かつ論理学的なデジタル図式論議となるような言葉。 その配列図式を論理学で集合論化し、現実を操作できるような仮想の時空建てをもくろんでいたのだ。 一時は、現代数学積極推進派だったわけだ。 統辞、構文論、シンタックス、という言葉もある。 論理で言語を・・・単に共有者のみならず、自己認識する享有者の頭の中に指示して、いじろう、という論理数学。 これを数学哲学の名で統語論としてもくろんでいたのかも?。 しかしムーアやシジウィックという、全く別の、哲学勢力の影響も大きかったということか?。 単に、分析哲学者がそろっていただけだろ。 ラッセルは、もともと哲学でない論理学的数学を哲学と呼ぶことはしなかった。 哲学の立場から考えてる。 ラッセルは論理学的数学も、論理的統語論も、哲学と融合させるなんて発想は、もとより、ないのである。 <統語論>とは。 「ヒト・人間の言語において文が構成される仕組み、または、それ以外の形式言語なども含む言語学の対象である言語一般において文が構成される仕組み、及びそれを扱う言語学の一分野である。統辞論、構文論ともいう。統語論は文法[音韻論、形態論などを含む、言語の構造を成り立たせている諸原理]の一部である。ウィキペディア」 というこれの後半は、またしてもウソである。 ラッセルが統語論を研究したのは間違いない。 人間の言語において文が構成される仕組み、を知りたいとは思っていただろう。 しかし<言語一般において文が構成される仕組み>がある、かどうかは、不明だし。 結局、言語学の分野からも、ラッセルは遠ざかるのである。 「文法[音韻論、形態論などを含む、言語の構造を成り立たせている諸原理]の一部である」というのは真っ赤なウソ。 言語は文法だけで成り立っているのではないし。 言語の構造だけで言語があるのではないし。 言語集合全体を推し量れる原理があるかどうかも不明。 ましてや、その一部、なんてのは、全体抜きで論議を確定させる虚無主義者の言い方だ。 次回はヴィトゲンシュタインを見ていきたい。