哲学史21-6-1 分析哲学 <ヴィトゲンシュタイン前半>
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン1889-1951 オーストリア出身の論理学者、工学、建築設計者。 ケンブリッジ大学教授となってイギリス人となった。 哲学者やおまへん。 論理学者。 天才にありがちな重度の吃音症で4歳になるまで言葉を話すことができず、小学校へも行ってない。 祖父の代に、アシュケナージのユダヤ教からルター派に改宗。 父の代からは超裕福な、隠れマラーノ階級者ともいえる者で、母の影響でカトリックにも出入りがあったらしい。 母方もユダヤ系からの改宗者である。 彼らは差別のない英国を目指した少数派だが、超賢い血の濃い種族。 リンツの高等実科学校(レアルシューレ)で3年間。 このとき、同じ学校の生徒にヒトラーがいたという。 この学校在中に(カトリック)信仰に疑問を抱いたというが。 ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」を読んでたらしいので、そこらへんか。 彼は、自分がなじめる虚無宗教家のこれを哲学書だと思ってたようである。 ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)で機械工学を学び、 卒業後にはマンチェスターで行われていた研究に参加。 その後、工学の博士号を取得するために、マンチェスター大学工学部へ入学。 それが専門となったのである。 ラッセルの「数学原理」などから数学基礎論に興味を持ち。 数理論理学の祖といわれるゴットロープ・フレーゲのもとで短期間学んでのち。 フレーゲの勧めで、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで教鞭を取るラッセルやムーアを訪ねたそうだ。 「頑固でひねくれているが、馬鹿ではない」という、ラッセルの評価。 超賢い学生前にして、うろたえてたんじゃないの? ケインズと知り合ったのもこの頃。 大金持ちのニーチェ同様、彼もノルウエイなどの田舎が好きで、大学のラッセル先生には原稿見てもらってたようだが万事が自分ペース。 まあ、この年代の人は大概が、そうである。 オイラが時間ないので訳注一切はしょったように、めんどくさい訳注などは一切無視の論文書いて、それで大学に学位認めさせようとしてムーアと、もめて。 結局学位も何もかも棒に振ったという。 まあ、カネあるんやから、それでもええわい。 1914年、第一次世界大戦勃発。 オーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵となる。 トルストイによる福音書の解説書を購入して兵役期間中むさぼり読み、信仰に目覚めて精神的な危機を脱したというが。 ロシア正教?いいや、ユダヤ教じゃろう?、気になるので後で調べたい。。 「写像理論」?がこのころできたんだという。 財政支援をしていた詩人ゲオルク・トラークルの死に目には出会えず。 ニーチェの選集なども読んでたらしい。 伍長昇進、さらに少尉任官、帝国軍は負け戦だったが、ザルツブルクの叔父の家でついに「論考」脱稿。 出版社からは拒否され。 兵役も、こののちイタリア軍の捕虜となり。 原稿はラッセルのもとに届いて、おざなりの序文まで書いてもらったというが。 出版にも手を貸したラッセルには理解できてなかったらしい、とも書いてある。 原稿が、ラッセルの路線じゃないことは確かである。 どうしてそうなったのか、理由わかる。 哲学書でも数学書でもない、そもそも演繹できないものだからだ。 天才的作品だとはわかるけど、演繹できんラッセル先生、扱いに困ってたと思う。 Logisch-philosophische Abhandlung。 この初期の著作で本人のほうは、<ラッセルに学んだ哲学はもう完成だよ~ん>といってたらしい。 哲学に完成なんてあるんかね? 訳すれば「論理的哲学的論考」、というもの。 自分のアジェンダで、知識整理した、だけだろ?。 ショーペンハウエル風の、哲学とは無縁な信仰で。 その後オーストリアで資格取って、自分が行きもしてない小学校教師となるが。 生徒虐待したとかで辞職に追い込まれた。 今日風に言うなら、社会になじめないダメ先生なのである。 トリニティ・カレッジに復学して、ふたたび哲学を学びなおしたというが。 ケンブリッジ大学の教授にむかえられ、コミュニケーション行為に重点をずらして、みずからの哲学の再構築に挑んだというけど? 「業績として、航空工学分野でのチップジェット(プロペラ推進方式の一種)の発明、モダニズム建築(ストーンボロー邸)の設計が挙げられる」という。 実績見る限り、哲学とは無縁なのである。 数学や工学、論理学の高度な専門家。 名士たちとのつきあいも多かったので社会には顔が利いた。 ヨーゼフ・ホフマン、オーギュスト・ロダン、ハインリヒ・ハイネなどがいる。 グスタフ・クリムト、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム、フェリックス・メンデルスゾーンといった面々も。 ラヴェルやリヒャルト・シュトラウス、セルゲイ・プロコフィエフなどもいたらしい。 音楽関係が多い。 さて、初期思想と言われる「論考」の中身に取り掛かる前に。 影響受けたらしいトルストイを先に見ておきたい。 哲学とは一切無関係でっせ。 こちらは宗教。 <トルストイの思想> トルストイの宗教はキリスト教ではないようだ。 教会に属さないのだから、共有のキリスト教と言った類の既存宗教ではない。 「三位一体の秘密や神の子の誕生は理解できない」 「神の存在は証明できない、・・・そのような概念は必要でないように思われる。 と、トルストイは自分の日記に書いているらしい。 しかしトルストイの信仰する神は「一神教のレリジョン」なのである。 自分だけの享有宗教なのだが。 決して哲学ではない、享有宗教。 自分の無知を一切見ようとしてはいない、から哲学ではないのだ。 知識の方ばかりを見ようとしている。 しかもポシティブばかりで、ネガチブなものがなんにもない。 「個々の人間の理性は、すべての存在の一部である。」 と彼は書いている。 「不可知のすばらしい秩序をもった世界全体の、永遠なる存在」 とも。 「自分の理性が、人間社会のような部分的なものと合致するのではなく、全体をなす、すべての<根源と合致するようにせよ>」。 と、かなり具体的であり。 「すべての根源」と「魂の不死」という、演繹不能な命題に拘っている様子が伺える。 だから形而上学にはならず、ましてや形而上学が少しは関係する哲学とは無縁。 倫理観には、かなり個人的にさいなまれていたようである。 こだわってる物事が、ナニカあったのだが、隠してる。 トルストイ研究者なら掴んでいるだろうが、そっちには興味ないので。 「人生の目的は、存在するすべてのものの総合的発展を可能な限り助けることである」 といったような日記もある。 「不死の魂は、発展して、ふさわしい、より高い存在へと自然に移行する」と、思い込んでいた。 演繹できんのに。 類似の現実カルト者といえば、ユダヤ人が思い浮かぶが。 しかし彼らユダヤはシナゴーグという教会所属の者。 歴史もある、堅固なカルト集団である。 ユダヤ人は、現代では世界の支配者階級。 トルストイは個人なので違う。 例外的単独者哲学者であったキルケゴールにも似てはいるが、キリスト教ではないし。 むしろユダヤ人の例外的単独のように見えんことはない。 しかし誰に似ているかというと、パスカルだという人もいる。 ショーペンハウエルも候補にあがる。 彼は”私”という共有現実に囚われた、典型的な唯一神<信仰者>なのである。 宗教家というより信仰者。 彼も私、世界も私、みんな私。 天上天下唯我独尊。 唯一不滅の「すべての根源」と「魂の不死」、が、彼の生きるテーマなのだ。 およそ<多様な根源>だとか、<魂の雲散霧消>なんて、一度も考えたこともないのである。 多様な根源があるから誓約(うけい)が必要なのだし。 誓約がないと、戦争が起きて勝者が支配するだけ。 魂の雲散霧消は単に、個体の死、という事実上の人のファクターなんだが。 お隣の国なのに、日本人とは極端に遠い個人カルト思想の持主。 論理的現実に拘って、虚無の唯一神信仰に囚われ、シナゴーグに集まるのが組織行動のユダヤ人だが。 トルストイは、その<例外的単独者>と言えるのかも。 彼を導くのは言葉や言霊ではなく、神が目配せる「言葉の図式」なのである。 オイラじつはトルストイの小説、過去にいっぱい読んでるけど面白いと思ったことは一度もないない。 シュトルムやヘルマンヘッセは面白くて、結構凝ってたが。 トルストイの小説はユダヤ人のそれに似ている。 なんでトルストイ読んでも面白くないかといえば。 彼が描いている巧妙な図式があることはわかるが。 ほとんどといっていいほど、オイラに読みとれてないからである。 マースロワとカーチェンカ、カチューシャという、同一人物の関係図式が読めない。 コロコロ変わる人名の、図式的意図も読めてない。 これは数学の公準となりうるものが読めてないということであり。 時間図式が、その時空を仮想化させるものだろうとは思うんやが。 トルストイがもし数学者となっていたら、小説以上のすごい業績を上げたと思う。 <論考> さてヴットゲンシュタインの<論考>に戻って。 表題を見ていこう。 Die Welt ist alles, was der Fall ist. 「世界とはすべての、出来事のあるナニカ全体のこと」。 どの世界が?やねん?。 何をもとに、何を対象に、だれが考えるのだ、ということを、この人も一切言わないのである。 世界というのは共有のことなのだろうが。 演繹できんものは哲学とは無縁仏になる。 ヴットゲンシュタインには、あらかじめ予定されているがごとくに、世界が決まっているようだ。 オイラの向き合ってる世界を言いたいのか、オイラがこころに共有してると思い込んでる世界のことか、第三者が書いている世界のことか、みんながワイワイやってる世界のことか。 いっさら、わからん。 身体がモトであるなら感性論から始めるべきで、神から始めるつもりなら、人の形而上学的問いからの論議が建つはず。 知性の論議であることは、見りゃわかるが。 哲学へと導く糸がない。 哲学的対話が必要と見なす、「演繹可能な対話的論議部分」がないのだ。 唐突に命題立てて、そこから始めている。 必要だとみてない。 おいらは、世界ってのは。 自分という有限な感性がつなぎとめてる身体、その延長である日常的時空の「こころの表現だ(図式ではない中味の実質)」と思っているので。 まず日常の世界があって、知の世界もあって、いずれ無知の世界に至るその世界がまず定義されていかなならん、と思ってしまう。 出来事とは、なかなか、つながらんのである。 ややこしいもんだという思いがある。 しかもそんなこと哲学論議の親しい対話の前程であって。 人の日常感性と無関係な言語や数学理念持ち出されても、親しい者でないと・・・と思っているので。 表題読んでも、唐突にこれでは、あほくさく感じた。 中身のありえない、<純粋数学構想みたいなもん>、だと。 案外、本人もそのつもりだったのかもしれんのである。 無知に無縁な、彼のトルストイ主義やパスカル主義では純粋数学構想可能?。 オイラにゃ見えん図式が駆使されている、その事だけは、アホな、時間の読めんオイラにも、なんとかわかる。 Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten. 「起きている事のナニカ、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである。(事態+成立=>事実)」 起きている事が「事実」であって。 ファクトウムのファクターとなる要因は、「事態」+「成立」だ、というのだ。 起きている事が、ぜんぶちゃんと見えてたら、の世界の話だが。 つまり集合論議にしちょるわけだが。 それは図式化されているにすぎん、というだけの意味なのだ。 成り立つ感性の自分をも掌握できてたらの話だが。 彼は、みんなにも見えてると思い込んでいる図式のつもりなので、そんなこと気にしちょらんのである。 事実はたいがい小説より奇なりなもので、しかも、つかんだ事態をぜんぶ足しても現実は成り立たんというのが世間でも普通。 泥沼という意味じゃなくて、事態を認識するオイラたちの感性が、結構いい加減なんだし、という意味。 成立は、おいらの属する「時空次第」なので、時空提供なしにこれもつかみがたいし。 「事態」+「成立」と「事実」の関係も、公式などには成り立たんじゃろうと思う。 言語の有意味な諸命題の全体、その「各々」足した門ではないのだ。 別門。 そんなすべてのもん司る<唯一神はいない>し、事態も成立の様態も、刻々と変化する。 とオイラは考える。 自然学風に言うと、どっちかというと、パルメニデス派じゃなくてヘラクレイトス派。 この人の考えてるのは自然学風でもない。 特定のモデル事実やモデルの、経験抜きの「純粋な論理的事態」であるようだ。 しかもすべてが共有の、知識上のみの物事。 自然学や倫理道徳も、一切関係なし。 つまり知識としての図式形式(時間形式)なのだ。 典型的な、<ユダヤ人の現実認識でできた、数学的論理学構想世界の提示>だと思う。 絶対に哲学なんぞじゃない、のである。 そのつもりで見たら間違うんで要注意。 むしろ論理学的数学。 数学構想利用で、しかもどんな思想を騙りたいのか・・・。 Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke. 「事実の論理像が、(与えられる)思想」。 思惟されているもの、思考対象、思想内容)をそれで、論理像で語りたいのである。(事実/思想がパラレル。事態と思想ではない)」、と解説者によって注釈されてた。 アホじゃなく天才であることは、理解に注釈が要るこの言葉でわかるが。 知性の論理作用に偏った、それも論理像に瞳着してしまってる言葉なんやと思う。 学生時代に、オイラが自分勝手にはまり込んでいた「瞳着の概念」という命題を思い出す。 これはワカラン西田先生の読みすぎだった。 普通は撞着と書くのだろうが、手じゃなくてメが絡むので、オイラ瞳着と書いてた。 純粋知性みたいな宿命もんの感性能力だと想定した<マズイ>方を、そんな図式で考えていた。 片恋みたいなもんだと。 ヴィットゲンシュタインは、そんなアホではなくて天才なので。 思想は、「事実」というモノの「論理像なんだ」、といっているのだ。 インスタンスもん、なんやと。 像化(造化)された知識だけで、図示作用そのもんだけを考えようとしちょる、のだ。 この共有の思想はしかし。 あんただけの思想は、だろ?。 「現実」と「実務」を一致させるために、ユダヤ人は普通、そう考えるんじゃろう。 しかし人の思想は、そんな知性だけでできた単純なものではない。 感性が深く絡み、繰り返し聞かされた、ことわざや道徳や、諸文化の伝承が大きく影響しているし。 およそ非論理的なものとなって、しかも座右の銘に納まっているのが普通だ。 論理的に首尾一貫してる人間なんて、かえって不気味な機械。 哲学理論なんつうものは、現実には通用せんが。 その「通用せん理論」と、「非論理的な感性」でできている、のが人の社会だし、個人個人だ。 だから理想があるし、道徳がある。 しかも共有の前に、個人個人の享有存在があるので倫理も絡む。 しかしユダヤ人にはたぶん、個人思想なんてのは、ないのだろうと思える。 およそ有がつけば必ず、信仰にある唯一の神がすべて取り仕切ってしまうからである。 「事実/思想がパラレルだ」、と編者がいうのは。 <事実>の論理像が、思想、のはずなのに、彼の数学では<事態>が事実より大きくて、成立が加わってパラレル化、整然と並列化していってることを言ってんだろうが。 現実にはこれが、図式化されて純粋数学を装ってる・・・図式となってる。 オイラに、ほとんど見えてない図式。 時間・空間的なものが導入されている、ということ。 図式が、ヴットゲンシュタインの論理、となって、読むものに指示命令しているわけだ。 <論理学の本質は、図式を使う未知の、ナニカ目的なのである>と、これでわかるようになっている。 現実ではこれが、ファクト有無+成立、と彼が考えたみたいに数学的にモデル化するんじゃなしに。 逆転する。 哲学的に事実から反省したら、ヴァーチャリターに、<ねじれる>ことになるわけなのだ。 これは論理学とは無縁な、ドゥンス・スコトウス先生の哲学的知識である。 ヴットゲンシュタインの論理はそれとちがって、成立が後から来る数学解を持つ。 アジェンダ狙いの命題、つまり思想となるわけだ。 Der Gedanke ist der sinnvolle Satz. 「思想は、有意義な命題」 罪に満たされた命題、とも訳せる。 カトリックだとそうなるんだろうが、そうとらずに、単に思想を持ち上げているんだと思う。 命題は無意味な言葉の羅列としての意味があるが、そうではなくて。 ナニカ有意義で満たされたものだ、と<図示して>言ってるわけだ。 これって、かなりへんなのである。 思想はそもそも、有意義だから思想になる、というわけじゃない。 有意義な思想もあれば、無意味で、ばかばかしい思想もある。 単に無意味な言葉の羅列だって、命題に立っていいわけだ。 ヴィットゲンシュタインが見てる思想というのは、そういった常識的な思想じゃないのである。 哲学とは無関係な(目的の隠された予定企画の、唯一の)「思想」。 ここに示されてあるのは思想でも命題でもなくて、見えてない図式定義へのいざない。 彼自身のアジェンダ的命題への、図式。 Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsatze.(Der Elementarsatz ist eine Wahrheitsfunktion seiner selbst.) 命題は要素命題の真理関数である。(要素は、自分自身の真理関数である。) ここで図式の理由が見えてくる。 命題が、入れ子状態(の図式)だ、というのだ。 彼は図式と言わず、真理関数という言い方をしている。 真理関数という自分を、そうやって構造的に図式化しちょるんだと。 何度もはっきり申し上げてるが。 これは哲学ではなく<魔術の種明かし>なのである。 命題というものは、哲学では<拘ってはならないもの>としてアリストテレス先生が論議をしてるものだ。 哲学は、バーチャリターの支点を見るのだから。 無知の知なので、その命題に囚われることなく対話を進めるにあたっての特異点だったはず。 命題に拘ると、論議者の視点が現実で逆転し、あるいは論議対象の時空がウロボロスなものとなってしまう。 ディアレクチークが、親しみある対話ではなく、魔術的扇動者と化してしまう。 ヴィットゲンシュタインの言う図式同様の、極めて危険な、自分自身へ指図する真理関数となってしまうのだ。 だから、彼は真実を述べたが、暴露したんではない。 危険なアジェンダを、虚無主義の悪魔を<世に放とう>としていたのだ。 彼は知識を図式で操る魔術に堕ちていた、といっていい。 これにムーアが大きく反発したのは、当然のことだと、いまさらながらわかる。 訳注の話なんてのは、だれかのウソかもしれんということ。 そんなことどうでもいい類の、倫理観への操作意図が伺えるのだ。 だが疑問もわく。 なぜラッセルは異議を唱えなかったのだろう。 魔術の種明かしであると評価したのだろうか? いや、彼は数学者でもあるので、普通の人が読み取れない図式も全部読みといていたはずだと思うんだが?。 それとも論理図式が全然読めないので、これを単に数学命題、数学の純粋数学化の試みとみなし、わからんままに評価してみようとしたのだろうか? ようわからんが、ラッセルは無責任な男じゃないはず。 Die allgemeine Wahrheitsfunktion ist: [ p  ̄ , ξ  ̄ , N ( ξ  ̄ ) ] [{\bar p},{\bar \xi },N({\bar \xi })]. Die ist die allgemeine Form des Satzes. 真理関数一般は、 [ p  ̄ , ξ  ̄ , N ( ξ  ̄ ) ] [{\bar p},{\bar \xi },N({\bar \xi })]と書ける。これは命題の一般形式である。 ここはオイラには、全くなんのことかわからん部分なのである。 純粋に図式化された、現代数学命題風のアジェンダが提示されてあるだけだからだ。 魔術書の心臓部分である。 命題が、<真理関数一般だ>という<図式>なのだ、と。 魔術の時代の始まり宣言、なのである。 Wovon man nicht sprechen kann, daruber muss man schweigen. 語れんことについては、だまっちょけって、さ。 図式のアジェンダに従え、ということ。 この本の評価についても、未だに百花繚乱だ。 この本を「哲学にケリをつけるためのもの」という意見や、「ラッセルに言語学へ向かわせるきっかけを与えた」だの、「思考の探求」だの、いやここで哲学が、問題解決ではなく論理により解消へと向けられてる、だのといった無数の意見がある。 みんな、哲学でない知識学相手の修辞学やるならまだしも。 論理的哲学風の集合数学がわからんので、ウロタエてるだけなんやろ? あれは記号論理学やる、カルト魔術のもんしかわからん。 特に現代数学の部分は、オイラいっさら、わからん。 ラッセルが論理学と距離を置くようになっていくきっかけかもしれんのやが、そう考える人はしかし、ほとんどいないようだ。 ともあれ、<哲学と無縁なこの本は>、ヴィットゲンシュタインが天才であることは明確に示した。 そして魔術の時代は始まり。 彼は再び英国の大学に迎えられるのである。 この本がなければ、そうはならなかっただろうが。 オイラは不審だが、魔術の理解者が大勢いたのだ。 「論理形式」と「写像」の哲学によってではなく。 英国の時代が、何かを彼の知性に要求していたのだろう。 次回は後半見ていきたい。