哲学史33ー2 <ニック・ランド>2
ニックランドは現在、加速主義者にも見放され各方面から締め出されつつある。 いい動きなのか、彼がはみだしを暴露させた思想の隠ぺい工作が目的なのかは、わからない。 「暗黒啓蒙の思想は、オルタナ右翼に哲学的基盤を与えている」というが、これは明確にウソである。 加速主義を装う論理主義者が言っているようだ。 ニックランドは現代詩の詩人なのだが。 自ら辞任して態度で示したように、哲学者などではないからだ。 「ランドは1987年から1998年に辞職するまで、ウォーリック大学の講師として大陸哲学を教えていた」という。 大陸哲学なるものものをダークイメージ付けてダークフォース勢力だとして、葬りたい意見のように思える。 しかし辞任してその後は、自由に独自に稼ぎまくってて。 セイディー・プラントと共同でサイバネティック文化研究ユニットを設立したり、1992年に「絶滅の渇望・・・ジョルジュ・バタイユと有毒性ニヒリズム」を書いたり。 2011年には論文集「有牙ヌーメナ―論文集1987-2007年」がある。 上海に編集者として勤務していたこともあって、中国に関する著書も多いという。 そのテクノクラート風の姿勢で、<中華未来主義>とも呼ばれるものらしいが。 <レイ・ブラシエ>には、<反動主義者>だと批判されてるという。 哲学ではなく、その政治思想が批判されてるわけだ。 ネットで出てきた人物や流行語概念を、以下で簡単に検討していってみたい。 特にccruが、おもしろそうだが人の紹介先やりたいので次節になると思う。 中国には残念ながら明日はなく、その資本も解体中である。 実に危険な状態。 実務的に明日があるらしいのは(インド)バーラタのほうである。 日本?今はとっくに亡国の類。 小泉のガキがダメにしやがった。 庶民の暮らしを支えてきた郵便制度も、健康保険制度も、学校組織ですらぶっ壊された。 ピーター・ティール、カーティス・ヤーヴィン、レイ・ブラシエ、ジョン・マクダウェルといった人物。 そして加速主義、オルタナチブ、サイバネティック文化(ユニット)ccru、有毒性ニヒリズム、有牙ヌーメナ―論、テクノクラートといった用語を、この節と次の節で見ていく。 ヌーメナは、ヌーメノンの複数形、人智対象の仮想の諸々。 <ピーター・アンドレアス・ティール> 元Facebook取締役、ペイパル(コンフィニティ)マフィア。 「影の米大統領の異名を持つドナルド・トランプ元政策顧問」だったことがある。 保守系動画サイトRumble支援者、ビルダーバーグ会議運営委員メンバー。 Palantir取締役で、イーロン・マスクのお仲間。 自由至上主義者だと言うけど???、要するに加速主義者の資金源の一つだろ?。 「2023年4月28日、トランプに不満があるとして共和党への支援は撤回した」らしい。 いくつかの土地に、地下シェルターを建設中。 日本政府(防衛、金融庁)をも操る、未来志向で過去を振り返ってる様子なんかないのに哲学学士号を持つドンだ。 彼によると科学,技術革新は停滞と見ており、「イノベーションが見られない。私たちは終わっている」、と発言。 「世界には陰謀説が溢れているが、古風な陰謀などはほとんど存在しない」意見。 <オレたちの斬新な陰謀以外には>少ないんだとよ。 しかしオイラ、このイノベーションの意味が、未だにまったく理解できん。 価値観、新機軸、どちらも若干違うアジェンダ用語なので。 宇宙人用語に聞こえる。 「人々はAGI(汎用人工知能)よりも監視用AIについて心配すべきである」と言い。 「多元宇宙論からシミュレーション仮説への移行は、コンピューター科学者と物理学者の現実の本質に関しての認識対立の結果」と発言もしたそうだ。 こんなへんな加速主義者が、今日の日米の実務の(表の)支配者の一角なのである。 世の中はカネと狂気が支配している。 <カーティス・ヤーヴィン> メンシウス・モールドバグというペンネームも持つ資産家、ブロガーだそうで。 反平等主義、反民主主義的な運動の暗黒啓蒙、新反動主義とも呼ばれる思想の旗振り役。 「民主主義は失敗した実験なんで、責任明快な君主制に戻るべき」と主張。 リベラリズムは、マトリクス様の全体主義的システムだ、と批判。 父方の祖父はユダヤ系アメリカ人であり共産主義者だったそうで。 母はウェストチェスター出身のプロテスタントだが、本人は無宗教らしい。 無宗教なのに、どこへ加速すんのかね? シリコンバレーの、<リバタリアンテック文化>に感化された、と書いてあった。 この文化は、サイバー・リバタリアニズムとも定義される修辞思想。 つまりキックバックで巨額の税金ちょろまかすセンセエの政治思想文化。 能力主義的な階級制度を支持する、つまり世のエリート貴族支配を認める人だ。 賢いヤツは多人数は要らん、という考え方。 リバタリアニズムが、「権威主義の包摂が無くては、失敗する運命にある計画である」と確信したという。 ヤーヴィンは、現在彼の政治的見解をSubstackのGray Mirrorというページで公開しているんだそうだ。 テクノ・リバタリアニズムの「原則」も書いてあった。 「常に自由権を考慮すべきである。 政府の過度な規制に反対すべきである。 合理的な自由市場のインセンティブを提供することが最も良い選択である」。 何のことか?わからんが、アメとむちの、アメのことらしい。 <レイ・ブラシエ> フランス系スコットランド人の血を引くイギリス人だそうで、姓の「Brassier」はフランス語らしい。 レバノンにあるベイルート・アメリカン大学の哲学科教員だという。 アラン・バディウ、や、クァンタン・メイヤスー、の英語圏での翻訳者。 このお二人はまた別の機会に。 「思弁的実在論」を奉ずる代表的な哲学者という論評されてたんやが。 (共有化)運動は本人が自分で否定しているので、ウソなのである。 ほんまに、ネット情報はウソ多いので要注意。 「<思弁的実在論運動>なるものは、私が全く共感を抱かないアジェンダを掲げるブログ執筆者たちが抱く妄想の中にしか存在しません。汎心論的な形而上学とプロセス哲学を少々まぶしたアクターネットワーク理論を支持するブログ執筆者たちのことです」 と本人が言ってる。 「ネット上で愚かさの乱交を生み出したことが最大の達成であるような<運動>に、哲学的な利点はほとんど見出すことはできません」、とも。 wiki評論者は「ジョン・マクダウェルのような主流の哲学者は、世界を「再呪術化」しようとしているのに対して、ブラシエの仕事は「ニヒリズムを究極の帰結にまで推し進めようとするものである」。 と書いてたが???、ぜんぜん怪しい意見なのだ。 この人は反実在論運動家でもないのだ。 どうも、この<グーグルのネット評論自体が怪しい>んである。 サーバーの編集者が怪しい。 ブラシエ自体は、いっさら怪しくない。 「世界の脱呪術化は、知的発見の爽快なベクトルなのである」。 「啓蒙で<存在の大いなる連鎖>が粉砕され、<世界という書物>が摩損するというプロセスの帰結である、と理解」。 「哲学は、存在の意味、人生の目的、あるいは人と自然の失われた調和を回復する必要があるなどという指令を出すのは、もうやめた方がよい」。 と、ブラシエの言は実に明快だからだ。 「知的発見の爽快なベクトル」、だとか。 「ニヒリズムは実存的な窮地などではなく、思弁的な好機なのである」 といった言葉に、評論扇動者は騙されたんだろうが。 これは加速主義なんぞの運動には属さない、享有見てる哲学者の意見であると思える。 自分の思想を、他者に扇動的に押し付けるつもりはないのだ。 これは政治的態度を伴わない哲学的態度の特徴といっていい。 「哲学は、人間の自尊心に生じる哀れな苦痛に投与される鼻薬以上の何かであろうと努力すべきだ」。 とはいう。 享有認識は、呪術を出て共有対話を試みるべきだ、と言っとるんである。 この人は、加速主義者なんて真っ赤なウソだった。 本物の哲学者のようだ。 「ジョン・マクダウェルのような主流の哲学者は、世界を”再呪術化”しようとしているのに対して、ブラシエの仕事は”ニヒリズムを究極の帰結にまで推し進め”ようとするものである」。 という加速主義者の評論のほうが、ウソ八百なんだろうと思う。 ジョン・マクダウェルなんて知らなかったので調べたら、こっちはピッツバーグ大学の教授らしい。 但し「理由の空間」「メタ法価値論」といったことを騙る、一見怪しげな人物だった。 このセンセエの騙る問題は哲学ではなく。 修辞学上の法解釈や信仰に基づく人生論の問題なんだが。 論理が絡むと泥沼作る、その原因ともなるものだ。 なので、ついでに軽く引っかかって見ておきたい。 <ジョン・マクダウェル> 1942年ー ジンバブエ大学で学士号を得たのち、ローズ奨学金でオックスフォード大学に入学。 プラトンの「テアイテトス」の翻訳・注釈、「真理と意味」という論文集などがあるらしい。 意味の理論把握には。 1:<真理条件となる(共有論理)把握が先立つ>というマクダウエル側の意見と。 2:言語理解に(共有の)真理などはありえない。むしろ命題が立つことへの<可能性条件の把握こそが、伴わねばならない>、というマイケル・ダメットに代表される論者がある。 この1,2の間で、対立が起きたらしい。 マクダウエルの見解は。 意味の理論に関するウィトゲンシュタイン的な基準(論理基準)を満たさないから、ダメット側の論議はダメ、というご意見なのだ。 「他者の発話における心的表現の根拠となるものと、表現された思考の間には非対称性があるという疑わしい議論にもとづいているので、ダメだ」、と。 要するに、よじれてて論理的でない。 それを<疑わしい議論>だ、とみなすわけだ。 現実が見えてないんじゃ? 「ダメットは、行き過ぎた説明をしようとしており、言語活動を「外的」観点から理解しようとするクワインと同じ轍を踏んでしまっている」と言う。 享有(共有)は、(論理的に必ず)享有(共有)理解されねばならん、というわけだ。 外的観点ヌキに直に客観理解できると? ばかばかしい。 まあオイラは、この問題を。 この世に意味という<絶対的真理があるのかどうか>、ということじゃろうと、事を簡単化させて考えたので、ばかばかしく感じたわけだ。 哲学者は、自分が無知蒙昧であることを知っているので。 なので、アルケー前提上の理論は可能でも、基準にできる絶対的真理などは、ない、と明確に言うはず。 親しい<対話の条件把握を目指す>、のみのはずだ。 英知優先の論理学信奉者は、論理的<真理がある>と考える。 なので、虚無に支点をおいて時空を数学論理的にのみ考えてしまうのやろ、と思う。 無知の産物である哲学を見下してしまう、というわけだ。 物事の意味はしかし数学のような、時空に対し純粋なもの、ばかりで成り立つのではない。 カテゴリーを伴う倫理的なものや、実務的な損得(尊徳)感情(勘定)を伴うものが多いので。 人生論になる。 どうしても認識の論理が、よじれる。 ヴァーチャリターになるのである。 つまり仮想論議が現実化する、といってよい。 ヴットゲンシュタインのような数学論理的な原則なんぞには、絶対に、はまらない。 伝わる意味が、発語者と受け手の間で、すでに、ねじれてしまってるのだから。 現実抜きにゲームを想定して考えたって、同じだ。 論理は現実には、絶対に、はまらない。 だから世間では政治解釈が必要となるんだし、修辞学がそれでできたのだし。 形而上学的な先験的認識論の誤謬やメタ論理の誤謬なども、そのいざこざから、できたのである。 先験的誤謬に気が付かねば、あっさりと泥沼なのだ。 マクダウエルのような論理学的な立場だと。 過去の時空という経験論議抜きで、論理の真理原則や原理だけ適用で、<空虚に>実在論を擁護せねばならなくなる。 客観性を求めることに対する<限界の強調>が、どうしても必要となる。 それがなければ、実務では詐欺になっちまうのだ。 「意味も心も、言表行為において直接示されうる」という考えでは、知覚経験の享有「選言主義」みたいなものに至る、しかないわけだ。 <幻覚>も<知覚>も、同一の享有者には、まったく同じものである。 あるもの、なんだが。 享有者が、それらを同一であるとみなしていても、そのみなしを受け入れず。 あえて共有認識側から客観的に分けて。 感覚的状態を、「幻覚」と「知覚」に区別、分類させる。 享有部分であるものを、共有からの選言というより、宣言で、わけようとするわけだ。 これが<選言主義>、というらしいんやが。 享有宣言をさせるわけだが。 実にばかばかしい論議だと思わんかね。 そんなことできりゃ、哲学対話など、いらんよ。 幻覚も知覚も、享有者には、おんなじもんである。 外的に、より分けてるだけだ。 そして享有も共有も、実は、おんなじもんだ。 ただ、人の認識が、その現実において常にヴァーチャリターである。 見るものと見られる者、経験者と先験者に、ねじれてるがゆえに。 論理を言い始めたら、それが、つまり選言が、必要となっちまう。 しかしそれで解決など、つくはずもない。 共有側から<何かの実務的都合で>、人の享有を奴隷化操作し、ムリに論理区分しただけだからだ。 「主体が同じ種類の感覚的状態になければならないとは限らない」ので。 他者の心的表現の根拠となるものと、本人の表現された思考の間には、非対称性ができるのは当たり前。 疑わしい議論にもとづいて、その区分が導入されてるんじゃなく、ムリに一致させたい論理規則に基づいて(政治的に、実務的に)疑わしい議論を裁断したい、だけの話。 オイラは完璧に、ダメットやクワイン側の意見となる。 ジョン・マクダウェルは論理学的思考者なので、哲学者ではないと、ここでわかるわけだ。 泥沼の清掃どころか、泥沼作りの犯人だと思う。 クリスピン・ライトという、ダメット側の人もいるらしいので、ダメットのあとで見ておきたい。 <マイケル・ダメット>1925年 - 2011 オックスフォード・オール・ソールズ・カレッジのフェロー(特待校友というものらしい) 1979年より同大学記号論理学教授で、1992年に退職 1999年にはナイト、貴族猊下。 猊下つけたのは敬意を表してるんじゃないよ、バカにしただけ。 <直観主義>を背景に、<反実在論>や、<分子論的言語観>など、独特の立場という。 フレーゲの研究によって名を挙げた人だとウィキは言うが、半面教師になっただけだろ?。 ハイデガーの先生ナトルプやフッサールみたいに。 記号論理学は19-20世紀には、哲学の花形だと一部の知恵者にみなされてた。 が、ラッセルの分析努力やヒルベルト、ゲーデルなどによって、ほころびが表に出。 数学基礎論、公理的集合論、超(メタ)数学の問題、などに至って。 だんだんと、論理学に基づく<数学的集合論の一分野にすぎない>ことがわかってきたわけだ。 倫理学や論理学、心理学や社会学、道徳論や文化人類学、文献学、言語学、そして現代では機械工学や情報工学が、哲学とは別門の人文諸科学として独自の地位を築いてきている。 学問の百花繚乱状態のなか。 過去には、信仰に基づく形而上学が、修辞の泥沼よりわけの作業を必要としたので。 そのため、形而上学が哲学の一部と誤解された時期もあったように。 あるいは別の目的から、科学哲学だの、社会哲学だの、言語哲学だの、哲学を捻じ曲げようとするいろんな策略がなされてきたため。 かえって馬脚が各方面からにょきにょき出てきて。 形而上学が、哲学に目的をもって着せた不要な信仰であった、そのことが判明してきて。 これら諸学も、哲学とは別門の、目的追及の人文諸学だと、修辞学だったんだと、オイラにもわかってきた。 そして非実務の、工学利用できない文科系諸学は今や。 科学と名がつかなければ、不用品として捨てられかかっている事態。 科学は何度も言ってるが、合目的対象化認識の技術(工学)。 テクノロジーは、また別の、出ー来が絡む、なにか。 こういった問題については、論議の規模がでかくなるので別途章を設けて扱いたいが。 要するに、カネ稼ぎに無関係の非実務系の諸学は、数学論理導入によって、その実務で引っかからねば切り捨てられていったわけだ。 合目的な自然物に関する工学利用や、同じく合目的な論理に関する工学利用できない諸学などは、今や追放の前夜だ。 現代テクノロジーで、最も要らないものの総代表が、哲学なのである。 論理学があえりさえすれば、知識のデーターベースと検索機能がありさえすればそれでいいので。 哲学は要らない。 アジェンダ信仰には、無知なやつらも役に立つと思い込んでいる人も中にはいるが。 優生学的心理学や記号論理学が独立した今、破滅への加速に役立つほかは、ほとんど不用品とみなされているわけだ。 ダメットでネットにでてきた、反実在論だとか、分子論的言語観を先に見てみたい。 <反実在論> 「分析哲学において反実在論(英: anti-realism)とは、言明の意味論として二値原理を採用しない場合における実在論の様な立場を言う。 イギリスの分析哲学者マイケル・ダメットによって提唱された」。 という、グーグルのトップにあるコレが、やはりウソくさかった。 ダメットをダメにしたいグループのピエロ意見のようだ。 反実在論というものがあるんではなくて。 ダメットが、論理学上の<意味論として二値原理を採用しない>というだけのこと。 論理学上にはとても採用できやしない、というのが、ダメットの立場だったのだろう。 科学的実在論というものを、これに対比させたいようだが、そんな哲学なんぞは、ない。 二値原理というのは。 「真または偽という二つの値のどちらかを必ず取るという<前提>を、二値原理」というらしくて。 「すべての命題は真または偽のいずれかの真理値を持つ」と、ポシティヴのみを見る指示のようだ。 論理学上の前提、なのである。 論理学用語で使う前提であって、下賤な哲学なんぞとは無縁なものだ。 過去には、形而上学の世界でも排中律という理論が修辞学者によって唱えられたが。 これも数学的な論理命題であって、哲学原理などでは、なかった。 論理学者によると、「任意の命題 P に対し「P であるか、または P でない」が成り立つという原理」が俳中律らしいが。 これまた数学上でしか通用しないのに、すべての命題に当てはまるかのような言い方をする。 「中間の命題は排除されて存在しない」「法則」、というのが(日本語として)正しい。 原理などではなく、数学上の取り決めに、内輪の約束事にすぎない。 現実には、いくらでも成り立たない事例が出てくる。 ついでに<科学的実在論> 「科学的実在論とは、科学において措定される観察不可能な事物が存在するという考え方であり、しばしば「成熟した科学で受け入れられている科学理論は近似的に真(approximately true)である」という形で定式化される」。 とあった。 あほらし。 「観察不可能な事物が存在する」、んだってよ。 うふぉ、措定を現実化する。 これをダークサイトと言わずして何というか。 存在する、っつうのは、人の感性で観察可能なんやから存在するといっちょるわけで。 観察出来て、そこではじめて存在してるんである。 幻覚と 知覚の区別も、条件別の観察出来て、はじめて存在。 そういう仮想の<観察不可能な事物>は、事物でもなければ存在もしないのである。 クラスでインスタンス可能なもんも、感性のクラスがあるから可能になる。 ブラックホールなどでも、<なにがしかの情報がモレて出ているので>存在する、と言ってるわけだ。 <直観主義> 直覚主義ともいうらしい。 論理学、数学、ともに微妙に違ってくるが。 数学でいうなら、「数学の基礎を数学者の直観におく立場のことを指す」ようだ。 だから、直観主義なんてのは、(空虚な)論理学上は、なにもない、わけである。 コトバンクの国語大辞典にこうあった。 「数学を一定の規則に基づく記号操作の体系とみなす形式主義に対して、数学は内容のあるものであり、純粋な直観に基づいて展開されるべきものであると主張する立場。この立場に立つ人々は実際に構成しうるものしか認めず、その結果として排中律を拒否する」。 デジタル大辞泉 の1の「哲学で、概念的思惟よりも直観に優位を認める立場」といった意見のほうは、ヨタ話である。 哲学は実務の主義主張ではないから、この哲学で、というのは変なのである。 2には、「数学の基礎理論の立場の一。ラッセルの論理主義やヒルベルトの形式主義に対立し、数学は直観に導かれて成立するものであるとする立場。ブラウアーに始まる」。 とあった。 ラッセルは論理主義ではないが、初期には類似の態度であったことは事実。 ブラウアーは、排中律を深く考えた人のようである。 いずれにせよ、論理学では相手できないねじれ領域が「直観」なのである。 人の身体が、時間・空間という感性が絡むのが直観。 だからこれは数学の領域といっていいかも。 この直観をもとに実在といった概念が出てくるのであって、論理を優位に立ててしまったら、実在も直観も、まな板から見事に消えて虚無になってしまう。 <分子論的言語観> これはダメットの意見かどうかも怪しいと思った。 彼の意見を封じ込めるための、泥沼策略のほうだと感じたので、ふみこまない。 敗退しておく。 要は、真でも偽でもなく泥沼だと言いたいわけだ。 泥沼論議は、レクチャーの主が明晰判明でないから起こること。 おいらの頭も、すでにどろぬまだああ~。 中途半端だが、次いく。 <クリスピン・ライト>1942- クリスピン・ジェームズ・ガース・ライトという英国人。 「2008年秋にニューヨーク大学哲学教授となり、ミシガン大学、オックスフォード大学、コロンビア大学、プリンストン大学でも教えている」、という。 道徳の科学(Moral Sciences)で学士号を取得した人だと。 道徳に科学なんてあるんやー。 イカガワシー。 「著書に数学についての新フレーゲ主義(新論理主義)の哲学や、後期ウィトゲンシュタイン哲学に関するもの、また真理、実在論、認知主義、懐疑論、知識(認識論)、客観性に関係するものなどがある」そうだ。 新論理主義というものを主張したらしい、と、やっと掴んだ。 が、消されている項目ばかりで、はっきりしない。 世の中から抹殺されかかってる?「フレーゲの二階論理とヒュームの原理から、外延や集合を参照せずに算術を導けることを論証しようとした」そうだが。 本人のテキストへ行きつけない。 どうやら加速主義者などの画策があり、ネット上で、この人の大規模な情報封鎖が行われているように感じた。 政治(修辞)思想に絡んで、本来無関係の哲学の領域にも規制が入っている感がある。 「新フレーゲ主義」、選択で、なんと「新自由主義」が出てくる。 コトのオオモトは、フレーゲの画策した陰謀にある、ような気もする。 数学的な論理学で、哲学を支配にかかったことが事を修辞問題化した。 フレーゲ的なメタ理論・意味論は、やがて図式使ったメタ言語となり、「統語論」すら生まれた。 彼らは哲学の領域にも悪魔チックな手を伸ばし 哲学史の修辞学、政治的な古典文献学から徹底的に書き換えしていった。 その証拠に「抽象主義プラトニズム」だとか「アリストテレスの実在主義数学哲学」、といった言葉すら、できているのだ。 こないなもん、あるわけないやろ。 中身は数理修辞学(政治学プロジェクト)なのである。 最近流行のアジェンダ・コマーシャルだ。 哲学でないものが哲学を名乗り。 哲学史のほとんどのページを、今や独占してしまっているのである。 おいらは、数理哲学も科学哲学も言語哲学も、認めない。 数学や、諸科学や、言語学があるのみと考える。 記号論理学は数学論理学の一分野であり、その数学的論理学自体が、数学を従えた論理ではなくて。 単に数学というその中の<実務>分野の一分野だと思っている。 実用数学、あるいはアジェンダ実践数学やと。 哲学は、単に数学派生の無知ゆえの、<知への愛好>を意味する立ち止まりにすぎない。 エポケーやるだけだ。 実務力が皆無の、<無知の知>なので、数学のような広大な領域は持たず。 享有者が、その享有を確認した上で論議する、親しい者どおしの共有対話だと。 役立たん泥沼の掃除屋にすぎん。 ソクラテス御大は産婆術だと言っておった。 しかし神々の神殿への道を掃き清める、あらゆる学問の門をも守る、極めて大切な分野だと思っている。 審神者(さにわ)役なんだと。 陰謀でこれを消し去るなど、もってのほかである。 論理学者などの秘密結社組織員や、ユダヤ人の構造主義者、加速主義者などがよってたかって、これやってる。 次節でも用語を見ていく。