哲学史36-7 アリストテレス <オルガノン>
哲学(無知の知)がほぼ無視された現代世界では。 アリストテレス先生の<心身合一の哲学>は、解体されたも同然となった。 切り分けられて個々の科学理論で、論理的に料理されてしまっている。 しかしこれは明確な間違い、なのだ。 科学というものの本質は技術(学術実践)であって、哲学といった学問ではないし 論理といった虚無使って切り分けられる、特異点認識のようなものでもないからだ。 そもそも、なんで論理が仕切ろうとするのか。 連中が組織でつるんで目的隠すので、わからない。 ほんまは<享有倫理>が取り仕切って、心身合一の哲学で得た知識が、棟梁のもとに共有的に<心構える>べきなのだが。 棟梁がいくら建築物を組み立てようとしても、仕切りが間違っているのでは、個々の資材は、はまりようがない。 <自然学のメ(形而上学とされてしまった)>、が先生の最重要著作であるのはもちろんだが。 <オルガノン>、<カテゴリー論>、<命題論>、<分析論>、そして<トピカ>などもたしかに、先生の第一哲学とはなるんだろうが。 これらはしかし、絶対に論理学ではない、のだ。 なので、決してウイキみたいなアホな間違いはせんように。 哲学風の論理学を仕立てたのは、近代のヘーゲルであって。 それも哲学とは別門のものだとちゃんと本人が宣言してた。 虚無主義信仰の、イルミナティ組織のものだった。 論理学はヘラス時代には数学の一部であって。 これは目的に奉仕する実用の物なので。 もともと哲学に属するものではないのだ。 アカデメイアでは、その数学を学んで一応マスターしてから哲学の門をたたくように言われていた。 人にとって数学が、哲学より基礎的かつ実用の学問だったからだ。 のちのリュケイオンではたぶん、同時に数学も教えてはいた。 但しこれの学習、習得が、必ず哲学より先立っていたはずなのだ。 これは哲学の前提ともなるものだからだ。 修辞的な学問は哲学より上位に来る。 引っぱり出されて虚無主義によって踏みつけられ、基礎に押し込められたのは基礎数学だが。 これではなく。 もっと下位の生きた哲学でもって、これら第一哲学を大雑把に解説していってみたいものである。 <自然学のメ> これは、誤って「形而上学」と訳されているものである。 これまでも採り上げて来たし、そのしょっぱなのテクネー、ファンタシア、などについては36-4,36-5あたりで見て来た。 <オルガノン> これについても、過去に何度か採り上げて来た。 心身合一なのに、今日のオイラたちが論議するには、これを「オルガン」として見ないことには認識対象すら定まらない。 そういう問題が生じてしまっている。 それだけオイラたちの基本的な認識が、科学的な心身分離の方向にブレてしまっているということ。 オイラもかなり科学にヤラレていると言うか、認識間違いもしてるはず。 オルガノンとは何のことか、から、若干間違えて理解していたと今では思う。 オルガノンは、「生体の持つ諸機能の学問」ではない、し。 オルガンという目的ブツが、将来に表象されてあるわけでもない。 これは<学問>のことを言ってるのである。 いわば<先験的理念>のようなもの(カント先生を思い出してください)なのだから。 対象の定まった問いや原則ではないのだ。 絶対を志向し、自ら先験的誤謬に陥る形而上学のようなものでもない。 生きた享有がちゃんと、私のオルガンとして、あるからだ。 むしろ哲学によって身構えるべき、方途を示すもの。 大自然の生命が持つ諸法則、なんぞでは、もちろんない。 倫理的な自分への約束事などでもなく。 単なる人の、自然な感性合目的機能などでも、ない。 あえて言うなら、生命の有限さが持つ決まり事である原則や原理みたいなもんではあるんだが。 絶対の論理が仕切るものではない。 有限さが、その限りある命が仕切っているのだ。 <限りあるモノの、親愛スリスリの、ありか探り>。 アルケーに基づく有の探求。 つまり、これが哲学であり、学問の本質なのだ。 生きている命の探求。 オルガノンというこれは確かに、命を対象認識指向する。 但し、その対象認定の仕方が不完全なのだ。 なので、どうしても完璧な合目的知識体系には、なりえない運命を持つ。 科学は合目的知識体系を志向するが、これ(対象)を科分類して殺してしまうので話にならない。 解剖するために殺してしまう。 合理的に認識しようとすると、どうしても完全なものとはなりえず。 途中で自ら方途破綻するしかない、ということ。 いい例が、デカルトの形而上学みたいになる。 あれは偶然そうなったんではなく、ちゃんとわかっていて(破綻を)やっている。 心身分離で科学やっても、同じことになる。 完成科学にならないまま、必ず不完全科学になる。 その学問的事態と、その基礎に置かれた形而上学の運命は同じなのだ。 科学の基礎に、これ(形而上学=心理学、宇宙論、神学)が居座ってる証拠でもある。 一見科学的に理解されようとはするんやが。 行き着く果てに出てくるのは、信仰なのだ。 しかもヘーゲル論理でこれを見れば。 見る者も見られる者もそして対象物も、雲散霧消してしまうのだから、虚無主義に落ち込むんやが。 体系破綻を内部に持ち、基礎に持つ、ともいえる。 たいそう危険なものなのだ。 アリストテレス先生のオルガノンはちがう。 もともと心身一体の学問の理念である、ので。 分離されたら、その分離部分が生命機構の否定、オルガ・ノン、そのものとなっちまう、ということ。 居る・カ(生命)・ノン(否定)となる。 しかもこのカノンで、なんと<法則>だ、ということになるのだ。 しかしけっして、オルガノンは否定主義の学問なんぞではない、のである。 部品ではないので、科の知識が取り仕切ることなど起こりえない。 むしろ無知こそが、<ある>ことが<わかる>、理解できる、限られた命の学問というべき。 おいらたちは<有限な、限りある生き物なのである>からだ。 命が否定されるべき、科の生き物ではない。 命は尊重されるべき心身合一の生き物。 そのことを忘れてはいけない。 神の視点などには絶対に、永遠に、立てやしないし、オイラたちにそれを<仕立てる能力もない>だけの話、なのだ。 しかし一神教徒は、メシアという存在を仕組んで、自ら神に等しいものであろうとする。 これが権力の横暴に、直につながる。 彼らは宇宙自体を再創造にかかろうとさえするだろう。 しかし科学には(一神への信仰でもって、恩寵を得て)神の視点に立とうとする。 そういうへりくだる一面もある。 この恩寵がへりくだりではなく、やはり特権とみなされて、悪事を働くのだが。 カント先生のへりくだりは、へりくだりのみではなく、特権ともみなされているんだが。 科学が絶対に正しい、と、思い込みたい、信仰への意志。 彼らは横暴ともとれる、<信仰を持つんだ>と言える。 目標を将来に見据えて、そこに表象する偶像を立てて。 客観の客観原理を、永遠に据えようとする。 無理な相談だと思うが。 それを知的に可能にしたかのような呪文が。 これまでの節で述べてきた「技術」や「表象」、といった諸命題の言葉なのだ。 ロゴスが科に支えられて、単独で、鋳造されて強制で立てられてきた。 範疇された。 これは基礎からアルケーを拘って間違えてしまっている、拘ってはならない命題の言葉なのだ。 命題というのは「無意味な名詞」、なので、拘ってはならない。 「命題に拘ってはならない」、というのもアリストテレス先生がちゃんと戒めている。 やっとこの意味がオイラにもわかってきた。 正しいテクネーへの理解は、心構え(テクネー)、のことから理解できる。 ファンタシアは(イコン)とでもいうべき訳語であるべきもので、これで解る。 人の生きた生体やこころと、必ず不可分で一体のはずのもの。 これらが技術や表象と命題理解され、さらに命題に拘って、 その基礎措定がなされる。 科学積極推進をやる宗教の誤り。 これが、今日の世界の泥沼の原因なのである。 そのことも先に述べたとおりである。 オル・ガ・ノンは、此処と言う時空の中で、生きて居る。 ワレ否定の・法則(原理)、にも一見、見えるが。 しかもこの法則のうちには、<居ることの有限さ、その法則性が>必ず付いて回っている。 むしろワレという限りある享有なしには、時空は意味をなさなくなってしまう。 (オイラ、今では数学的時空での次元存在を認めません)。 時間旅行のできるというあれ(時間空間の数学的次元解釈)は、ファンタシアの解釈の誤りで起きたこと。 数学で身体を分割解釈した、架空のファンタジーなのである。 時間は、そんなものじゃない。 有限さの中にこそある、人の生きた感性形式の事だからだ。 過去にしかない。 ワレという、限りある享有の。 その有限さが手引きして(時空となって)、居る我を解体させ、無知へと戻そうとする。 そんな、なにかが、オルガノンにはあるのだ。 つまり感性的時空が、生きてある。 知る事への、親しみフェチへの時空がある、のだ。 アルケーがあり、時空と言う感性があり、無知の知が必ず<同時に同場所にある>のだ。 これは虚無の論理なんぞ、ではない。 AIによる、<真似し>、した瞳着機能や、答えの出ない形而上学の問いではないのだ。 否定の学問なんぞでもなく。 解体させ、理解へと導く。 そんな哲学的な、何かである。 その何かがまさに、時空で<あり>、感性で<あり>無知で<ある>のだが。 思惟主体を個別に論理的に考えると、数学的に見ても空虚に落ちる。 主体は、認識と同時に認識される<有限なもの>でもあるから、なのだ。 無限な表象になるんじゃなしに。 有限な認識物、魂の写し絵モノ、となる。 心身一体で考えないと無意味なのだ。 見る者は、同時に見られる者でもあるからなのだ。 これは、デカルト先生が見出した大成果だが、単にエゴだと誤解されてる。 <享有>の本質なんだが。 多くの人に、この享有が見えてないもんで。 テクネーは、時空の内で構えさせる心、なのだが。 そこで利用されるファンタシアは、光る硬いモノ(表象でも心象でもない)ではなくて。 むしろヤワで脆い、死すべき、生きた肉体なのだ。 魂に全宇宙を映し、絵のように映してみせるのだが。 今、という瞬間はすでに過去で、未来は未だ到来してない。 ハイデガー先生の言うとおりなのである。 オルガノンは、生体でいる時空の内に成り立つ。 ただのオルガンである。 瞬間とか永遠といった超越的空想には、立ち向いようがないのである。 生きた肉体で出来た、オルガン機能を持つ(これが若干怪しい考え方だが)<生き物>なのであるからだ。 アリストテレス先生が、生物を中心に自然学をやり、しかもそれが哲学である理由。 それが心身一体のオルガノンであるからだ。 先生の哲学は自然学で、生物学で、しかし絶対に科・学ではないのだ。 アリストテレス先生の哲学論議が、自然学、それも生物学に偏っていると言われる由縁なのであるが。 これを死んだモノとして扱うから、別門となって、なんにもわからんなるのだ。 ウイキによると、「オルガノンて、ツール(道具)なんだ」とさ。 あほくさ。 こんなあほくさな命題の上に立った文明など、滅んで当然じゃろが。 本当に滅びかかっている。 核ミサイルが飛び交えば、そうなる。 あるいは電磁波で地上が覆い尽くされても、そうなる。 AIが支配権確立して、人がムーンショットでデジタル化サイボーグ化しても、そうなる。 オルガは生きている事であり、感性的な何かであり、有限にあること、である。 死んだモノじゃないし。 感性を超越したもんじゃないし、無限などの空想にも、ないもんだ。 必ず具体的な享有の生命体にのみ、<ある>と言える自己認識。 道具というのは、およそオルガノンから遠く離れた思想。 死したオルガンのことだ。 その世界では例えば人も、人材といった死したものとして扱われる。 人は死なない限り、素材とはなりえないように。 道具として奴隷使役されることもできないのに。 それをやっちまう。 ツール思想が、そうさせているのだ。 奴隷とされたものにも享有認識が必ずあるので、反乱もいずれ必ず起こる。 道具思想そのものが、奴隷思想と一体のものなのだ。 これは一神教宗教思想特有の、滅ぶべき思想であることが、わかると思う。 オイラたちの常識を取り仕切る、米哲学なるものが腐っていて。 ほとんど死んだ無機物になっちまったので。 諸ツールも、その主体となる操作人がいなくなって。 もともとAIの世界に、なりきっちまっているのかもしれん。 十字架にかかり死した道具は、殺戮の未来技術とは馴染み。 悪魔や魔女の出てくる怪奇なファンタジーとも馴染むが。 生きているオルガノンのほうは、空想世界、おとぎ話などには馴染まない。 むしろ、心構えの過去世界やご先祖たちの作り上げて来た伝統と馴染むのである。 これはまた、仮想の言語ではなく、生きた言語とも馴染むのである。 つまり<カテゴリー>が意味をなしてくる。 カテゴリーは空想の、言語上の話ではない。 現実の生きた話。 ここにも解釈の間違いで生じた文化の死がある。 次回はカテゴリーを論じ、オルガノンとカテゴリー、倫理などの関係を整理する。