哲学史36-11 アリストテレス <トピカ>2
<文明> トピカ解説の途中で、脱線中。 アリストテレス先生とは直接関係なくなるかもしれんが。 先生の哲学の用語解釈の間違いが引き起こしかけてる大問題がある。 人類が絶滅前夜に追い込まれてる、という問題だ。 その大問題を引き起こした元凶が、<文明という優生学的な考え方>。 なので、これを解説したい。 優生学ではダメだ、このままではみんな共に死んじまうんだ、と言いたい。 心身合一のアリストテレス哲学を、本気で探すべき時なんだと。 シヴィライゼーションというのは、「文明」と訳されているその原語のことだが。 ゲームなどとは一切関係おまへん。 文明は「高度な文化」だと、「優生学的な意味でのカルチャーだ」、とするが。 これも勝ち組の言う、ドウソ。 カルチャー奴隷の「文化」という考え方とも、「シビライゼーション」は全く関係なくて。 後者は選ばれし人(だけ)の、内輪の方の話。 その人たちだけでの<市民化への仕組み的啓蒙魔術>ということだが、これが独り歩きした。 シナゴーグを使った魔術が効果的すぎて。 それがシビライゼーション(文明)という一般的な言葉っとなった。 日本語で文明と訳されている、その言葉にある隠れた本来の意味はしかし、選ばれし人だけの啓蒙魔術だと思う。 仕組み啓蒙の成り立つ本質は、その感性図式の<共有化>狙いにあるのだ。 これが魔術部分。 文明は、カルト的な一神教による宗教教義の言葉なのである。 だから支配階級だけが、この<市民化への仕組み的啓蒙>を持てるし、感受もできるというわけ。 シヴィライゼーションは、文明と言う翻訳漢字言葉とは、ほんの僅かに違ってる。 だが、ほぼ似ているので、同じと思っても差し支えない程度。 文明だと、市民化というより最初からもっと優生学的な雰囲気ではあるんだが。 つまり中華思想的なんだが、選ばれし市民だけへの中華思想、というべきか。 市民というのは普通は、都市に囲い込まれたヒエラルキー(階層社会)共有の奴隷のことである。 欧米では、牧師に率いられた小羊たちを指す。 シヴィライゼーションが相手するのは、しかし絶対に彼ら奴隷や小羊が相手ではないのである。 庶民奴隷は逆に、一切、まるで、無関係である。 野蛮な文化(カルチャー農奴)を支配する、選ばれた特権階層だけが相手。 彼らへの、啓蒙の図式指示的な言葉なのだ。 指導者層である、王族相手となる啓蒙の言葉。 すべてが宗教的な啓蒙企画なのだから、である。 文章でもって、将来企画的に指導者層を指導。 これが目的の投企的用語。 そのことを、シヴィライゼーション(文明)と言うのである。 文でもって、明るく啓蒙。 つまりこれは、ローマ帝国という牧畜社会で現実に起こった過去の出来事をもとにしている。 そこから帰納的に生まれた用語なのである。 背後には事実が、過去に啓蒙成功した出来事という真実がある。 文明の本質部分は、繰り返すが、庶民奴隷はまったくもって、関係なし。 「市民」と言う言葉使いにもウソがあるのだ。 世の99.9%以上の人々は無関係の市民。 あくまで王侯貴族側の、支配する指導者層だけでの、内部啓蒙問題。 文が読める者だけが文明に預かれる、からだ。 文が読めないモンには関係ない。 今日ではデジタル化推進がきまってしまった。 今後、2進法文字が読めない人間は、指導者層からも追放、と、もうきまってしまっている。 人では全員、読めんはずだから、いずれ全員追放となる予定。 一方、日本では昔から事情が違ってたのである。 太古から、庶民が文字持ってた証拠が、いっぱいある。 末端の一兵卒が、官用品に落書きしてたり。 なので、もとから文明といった用語使いとは、全くの無関係となるんである。 だからオイラは、近代の優生学的用語である文明と言う言葉使いが、昔から嫌いだ。 これは文明開化以降に使われ始めた一神教徒だけの使う特殊啓蒙用語だからである。 ヘラス征服後の次の世代に、西洋ローマの支配階級は、文盲を脱した。 そして支配下に置いたヘラス人の哲学に出会って、みんな目を見張ることとなった。 それをなんとか仲間内に理解できるトピック的にまとめようとして。 自分たちの修辞学を発展させ。 苦労して、やっとのことで<古代ギリシャ文の体系>を翻訳し終えた。 それがトピカという古典の体系だった。 その画期的な(王族での内輪の)成果の事を、<文明化>と言うのである。 ヘラス語は、古代ギリシャ語というローマ帝国の古典となり。 シビライゼーション化されたんや、と。 つまり文明化され、新知識は明るく啓蒙された。 敵対者の文化の一部をもぎ取って、彼らは自分たちの将来文明の成果としたのである。 文化というのは、もともと薄暗いもの。 なので、それを科で切り分けて明るくした、といった意味相もある。 まさに、科学で解明する、といったような意味が文明ということなのだ。 殺して料理して、理解した。 科の知識となった光を当てて、物事を文で照らしだして、明るくする。 実は、自分の内なる優生学的な悪魔の光で照らした、本当はそれだけだが。 ヘラス文化に出会う前のローマ人は、すでにエトルリア人という近隣の恩人種族の文化を食い尽くしていた。 彼らは他人の不幸を楽しむ悪魔的種族だった。 文字も言語の一部も簒奪したが。 文化はまったくの別物となってしまっていて、エトルリア文化は消えていた。 彼らはエトルリア文字は十分に学ばなかったのである。 王族すら、未だに文盲も同然だった。 支配地は広がり、以後も文化収集には励んだが。 古い本や文書なども、もはや久しく現地にいない異民族アラム語で書かれたものばかり手に入る。 ローマ人には、ごく一部の好事研究家にしか読めないもので、文化も馴染めないものだった。 ローマは軍事的栄光の光に包まれてはいたが、文化的には超暗かったのだ。 そこへ、ヘラス(ヘタラス)の征服騒動が起きた。 本物の哲学者たちを大勢拉致できて、奴隷とした。 彼らの多くを、王族の子弟の家庭教師に仕立てることもできた。 ローマ人の王族たちは、それでもってあっさりと、次の代には文盲から脱してた。 古代ギリシャ語の読める王族になったのだ。 それが、トピカ編纂を可能にし。 市民化シビライゼーションという、王族仲間内での<文明共有化啓蒙運動>を起こしたのである。 ローマでの市民化運動は、大きな文明開化運動だったわけだ。 但し参加者は必ず、市民権のある人に限られる。 つまり、すでに文盲でない王族だけだ。 ローマでは、一たび市民権が与えられたら、それは王族と同等の、国家的共有事業参加を意味した。 選ばれし者となりえた。 王族は奴隷種族ではないし、パンを恵んでもらう(貧民には配給されてたらしい)ような極貧であっても、肌の黒い混血者であっても、待遇は同じとされた。 ローマ法の優れた点は、この「市民平等」や、「ローマ人はいついかなる時であっても自由にオナラしていい」といった、極度に合理的な点にある。 彼らはしかも同時に、文明化することで、ここで最初の科学をものにしていった。 つまり市民化啓蒙運動によって、(ローマ王族は)文明人となったのである。 彼ら王族は、自分たちを啓蒙してくれるトピカを(自分たちの力で)得たのだ。 同時にそれが、(自分たちで)科学技術を生む原動力ともなった。 ヘラス出のトピカが科学を生んだんじゃなくて。 ローマ人の持つ宗教カルトが、トピカを生んで古代ギリシャ古典の学問を成立させ。 同時に、そのとき形而上学も生まれて。 それを踏みつけて土台にして、堅固な基礎とする科学もローマで生まれた、ということ。 修辞学を、自分たちの文明の基礎に得て、まず共有の知識学の基礎にできた。 それでもって、<古典ギリシャ文化>が生まれた、といえるのだ。 これは薄暗いヘラス文化とは、まったくの別物である。 文明の物なのである。 オリエント史にはウソがあるのだ。 古代ギリシャの曙、というウソ。 古典となった、古代ギリシャ文化というのは、ローマ人の文化なのだ。 人工の修辞学や科学が生み出したローマ特有の、優生学的な文化、つまり<文明>。 外面の表象を、彼らは共有の表に堂々と出した。 それを「優れた文化だ」と優生学にして、文明の定義にもしてる、わけだ。 ヘラス文化の中心は哲学(無知の知)なのであるが。 ローマ文明の中心は、修辞学と科学だと言える。 市場の雑踏の列柱の間に隠れた世捨て人しか、ローマに哲学者はいなかった。 しかし修辞学は大繁盛し、科学も、大いにもてはやされた。 この動きはローマが滅びても、ルネッサンスとして続くのである、 特に科学の成立には、ローマ風の、そのギリシャ古典の基礎で形而上学という学問が形成された。 これが大いに役立った。 科学の基礎は、テクネーではなく、技術となったのである。 技術の学問とされたことで、体系化や原理への演繹が可能となり、経験則への帰納的理論化も可能となった。 形而上学的な、先験的誤謬への問いの体系化が、極度に大きかったということ。 (アリストテレスの主著は、ローマ風のタ・メタフィシカではなく、もとはヘラスのタ・メタタフィシカだった。 それが形而上学となった。) そのローマ風メタフィシカ(形而上学)の上に、科学が生まれた。 哲学者はロクにいなかったが、修辞学者は溢れ、科学者もいっぱいいた。 技術的修辞学が、そこで(表象や、技術や、カテゴリーの非倫理化で)立ち得たからなのだ。 形而上学というのは、カント先生によれば、心理学、宇宙論、神学のことである。 先験的な誤謬を含む、全体とか絶対を気にする宗教的な信仰的問いが立たないと、これらの学問は成り立たない。 なので、心身統一のアリストテレス先生の哲学ではムリだ。 新たにできた身科分離のローマ文明が、それを可能にした。 ヘラス文化は形而上学とは無関係だと、わかるはず。 心理学、宇宙論、神学はローマのものだが、ヘラス哲学にはもともと、そないなもんなかったのだ。 タ・メタ・フィシカ(超越・自然学)は、後世のローマ帝国での、タメタタフィシカの読み間違いである。 ラテン語の図書などができるのは、さらにずっと先の時代のものだが。 トピカの作られた時代、ここでローマ人は、<古典的ギリシャ文明という基礎を、自ら生んだ>わけである。 滅ぼしたヘラス人の血によって織り上げた基礎織物なので、堅固そのもの。 聖書も、この時代の、磔モノだ。 信仰が社会の中心に据えられたのだが、それが拠り所とする聖書も、古典ギリシャ語と形而上学的科学の産物だと思うが。 もっと基礎的なモノだろう。 この聖書編纂を可能にした基礎も、二つあるのである。 一つは、トピカをはじめとするアリストテレス・プラトンの哲学。 (という名の、修辞学の学問理念体系)。 今一つが、<科学技術>(という知識学ノート集)。 つまり、時空を将来への啓蒙と捉える、指示書集、なんである。 両者とも、過去にはどこにもなかった。 これらがいわゆる、<ギリシャ古典>となるものの中心理念、文明のものなのだ。 科学という技術がローマで生まれるためにも、修辞学は確かに利用されたが。 じつは、もともとローマ人が誤解してたギリシャ語がモトになって出来ている。 それらがたとえば。 ファンタシア(表象)であり。 テクネー(技術)であり。 カテゴリー(範疇)なのである。 此処ではあえて、間違った用語使いを、そのまま挙げている。 オイラが、ヘラス文化と古代ギリシャ文化を、お互いまったくの別物とみなす理由だ。 ローマで生まれ今日の西洋の基礎となったこれら。 「古代ギリシャ」の古典もの。 じつはローマ人王族たちの創り上げたもの。 創作ファンタジー、かつテクニカルな、メタバシスものなのだ。 つまり文明による、誤啓蒙、誤古典モノなのである。 誤りを最初から基礎に持つそれが、文明。 武力や軍隊組織などは、ローマはもともと、伝統を持ってた。 科学を学んで強くなった、んじゃない。 彼らはもともと、信仰心厚く、謹厳、実直、陰険で、合理的思考に優れ、賢かった。 特に軍事のような共同作業には、超強かった。 それでもって着実に勢力を伸ばしてきたが。 ヘラスの文化とは似ているようで、全くの異質なものだったのだ。 それは多神教の頃の神々を比べてみればわかると思う。 ヘラスは心身統一的な思考。 ローマは心身科分離的な思考。 やがてそのローマ勢力はヘラスを圧倒し、世界征服に出ていかなかったヘラス人は皆殺しとなって。 本国や小アジアのヘラス文化は、消えた。 ローマンカルチャーだけが、以後西洋にグローバルな世界のものとなっていき。 古典ギリシャ文化として、文明の曙として残されていったのである。 <トピカ理解>と<科学技術の確保>で。 ローマはさらに堅固な、文明の大帝国となっていく。 これをシビライゼーション化した、と、後世の、その文化を受け継いだ世間が言うのである。 実はローマの持つ二つの要素のどちらも、借り物利用なんかではない。 目配せを得て、ローマ人が、自分たちの力で基礎から生み出したものなのである。 トピカは、ヘラスから奪った哲学をモトに、独自に誤解釈して得られた修辞学。 では、科学は、どこから生まれた? この疑問がわくはず。 その部分はなぜか隠ぺいされていて、自然には、あからさまには見せてないのだ。 キリスト教支配権確立の、ローマ帝国簒奪劇などが、たぶん関わっているのだろう。 こちらもまた学問と同じく、バビロニアやアッシリアの英知というモトがあるはずなのだが。 それは元ネタの古文書類(ミシュナーというらしい)が全部破棄された。 だから隠れたのである。 つまり聖書編纂が、この隠ぺい劇にモロに絡んでいるのだ。 歴史解釈や形而上学的な共有信仰の諸々と、科学技術の基礎は、切り離せない。 科学技術は、技術と言う名の<形而上学的信仰が基礎になって>はじめて出来ている。 実体はノート群なのである。 指示書や論文といった、権威の集合体。 これらと、聖書の指示や権威の出処は、同じだと言う事だ。 ローマは、バビロンやアッシリア各地にあった膨大な諸文化、文書類を積極的に収集した。 オリエント文化の集大成者であった、とも言える。 それらをもとに、彼ら独自に「表象」し、「技術」にし、カテゴリー無視して「範疇」化した。 一神教的な文明の創造を、ローマ人はここで、執り行ったのである。 文明を生んだのはヘラスではなく、ローマ人なのだ。 メタバシス的な文化改変作業が、ここでも大いに関係していると思う。 メタバシスもオッカムが出てはじめて起こった事ではなくて。 もともとローマ文化事業的に起こったことだと。 それを、のちの時代のオッカムが、学術的に整理した、ということだろう。 カテゴリーの意味も、その時、替えられてしまっている。 (享有)実在の証であった、そのはずのものが、いつしか範疇化して。 企画品を作るまったくの別物となっていた。 具体的には、たとえば。 ユダヤ人レビ族という、新契約の種族がローマ帝国で創り出されたこと。 そのことなども大いに関係してると思う。 彼らユダヤ人レビ族が、科学技術を創設した、その担い手だからである。 キリスト教の、聖書の創造にも彼ら異教徒は関与したはず。 彼らが、文明に向けての、帝国内での最初の担い手となったからだ。 今日でも、実は科学技術は、彼らの独占物である。 ノーベル賞と言う、仲間内の褒章制度もある。 彼らはローマで、異教徒と呼ばれた、極少数者だった。 もともとアラム文字も読めた学者もいただろう。 だが、この連中は異教徒とは呼ばれるが、異人種異民族なんぞではないので、間違わんように。 そうではなくて、(帝国に)「選ばれし者」だったということ。 スカウト者。 最初のユダヤ人レビ族たちは、いわゆる古代イスラエル12氏族には含まれない。 それもそのはずで。 彼らは、ローマ帝国の下級の王族達からの、スカウト集団なのである。 これが選ばれし者ということの、本当の意味だ。 もとはローマ帝国の王族。 つまり文盲でないローマ市民からスカウトされた、超優秀な技術者や学者者たち。 スカウト者といえば、聖アウグスチヌスあたりが最も高名である。 但し彼は異教徒を選ばずキリスト教の方を選んだ被スカウト者なので、ユダヤ人ではないわけだ。 (父親は異教徒だったらしいが、やはりユダヤ人とは呼ばない)。 科学の生まれは、バビロンでもエルサレムの話でもない。 ローマの中心的都市の一つ、アレクサンドリアでのこと。 そこのアカデメイアにおいて、最初の科学技術は生まれた。 一人の優れた女学頭の、断末魔の悲鳴とともに、だ。 キリスト教徒と対立し、貝殻で全身の皮剥かれて殺されたという話ができている。 西洋文明の曙は、ヘラスから起こったのではないのである。 ヘルダーリンなどの詩を読んでも、架空の古代ギリシャという文明の曙への賛歌が真剣に、しかも切実に語られる。 しかしそれは、虚偽の文化なのだ。 基礎認識が誤っていることに気が付けば、取り組みが真剣であればあるほど、破滅がある。 文明の基礎はヘラスではない。 ここローマ帝国の諸都市で起こったこと、なのである。 トピカと科学が起こしたものごと。 最初期に担ったのは、その全員がローマ人の王族なのだ。 庶民は、まったくの無関係でっせ。 だいいち、トピカも聖書も読めん大衆では、どちらも無意味無関係になるしかない。 ましてや奴隷がキリスト教を担ったなんて、ウソ八百の。 後世できたプロパガンダなんである。 きっかけは確かにヘラス征服、アッシリア征伐の、たぶんヘラス奴隷、アッシリア奴隷などを得たことではあるが。 創り出したのは、ぜんぶローマ人。 オイラここで、はっきり言いたい。 古代ギリシャ古典を築いたのは、ローマ文明なんだと。 彼らの、陰険な伝統的陰謀の知的な力なのだ。 ローマの種族の起こりは古い。 隠されてて、もともと、はっきりしてない。 キリスト教徒の背後に、ローマ市民(王族)の背後に、見えてない悪魔勢力が感じられるのである。 ローマは民主主義であったなどとも言われるが、ローマ市民は、その全員が王族出身という、何のことはない陰謀事を宣伝してるにすぎんのである。 古典ギリシャ語の読めない市民なんてのは、いるはずもないからだ。 必ず文盲者の庶民は、市民などではないからだ。 未だラテン語は誰も読めん。 しかしローマ市民は全員、古典ギリシャ語で書かれた法律文書が読めた。 そのころ、修辞学者たちは政治家となって修道院を役所にしており。 法律のかわりに、新旧の契約書を立ててキリスト教聖書となしていた。 宗教教団が国を乗っ取っていたのである。 もともと宗教家であっても、キリスト教徒にならなかった者は異教徒と呼ばれ。 シナゴーグを根城にする彼らが、科学者や、学者、技術者などとなった。 彼ら異教徒がユダヤ教を立てたのである。 異教徒と言っても多神教徒じゃなくて、一神教徒。 オイラだから、ユダヤ教はキリスト教より新しいかもしれんとも思う。 異教徒のこっちも暗くて、おまけに聖書非公開で、ロクに見えてない。 彼らは特に、もともと文語体しかないヘブライ語を復活させた。 口語体がないということは、普通の市井での会話がないということで。 人民がいなかった証拠。 異教徒というのは、政治以外のローマ帝国実務を担う者。 帝国の高級官吏たちであって、彼らがアカデメイアや文化的な諸事業を、ことごとく支配していた。 ローマ帝国での、教育や実務は彼らとともにあった。 ヘブライ語の古典も、ギリシャ語古典と同じとみなせる。 生粋のローマ人王族が手掛けて、古典づくりやったことなのであると思う。 ただ、キリスト教の修道院のほうが必ず上級者に置かれた。 異教徒の科学技術者は、下級王族からのスカウトだったという。 そういういきさつがあって。 これが後々まで相互に確執となって尾を引いてるようだ。 キリスト教の教義上や修道院で出来んこと、つまり特に金融、奴隷売買、敵地との商取引などを、下級の王族が一手に請け負っていた。 そのためだけの公会議をも持ち、特権的な法律も作られてた。 修辞学を学んだ上級の指導者層と、実務を担う下級のエリート層の帝国なのだが。 この上下関係は常に、なぜか庶民からは隠されてきたのだ。 オイラは特に、ローマ帝国で生まれたユダヤ教やレビ族と、古い太古のユダ族との直接の関係を、疑うどころか一切認めん。 まあキリスト教の旧約聖書を、この地域の正史だとは認めんから、そうなるんだが。 実際に、へんな流行の黄表紙本がエルサレム界隈のプロパガンダを担ってた。 異教徒の人気は、ローマ王族の間では、なかなかのものだったようだ。 聖書の史観なども、そういった黄表紙本がモトになっていそうである。 ユダヤ本は、ディアスポラの歴史を作った。 作者はヘブライ人だという触れ込みだが。 もし本当なら、紀元後のこの時代には、未だアラム語で書かれていたはずである。 この時代以前のユダ族の文書類は、もともとぜんぶアラム語だからだ。 ずっと後の新時代のものにヘブライ語ものが混ざる。 だから古い時代の死海文書にヘブライ語文書が含まれること自体が若干怪しい。 聖書編纂時代のこのころの文書類は、古代ギリシャ語で書かれているものばかり。 で、ユダヤ文書も当然、古代ギリシャ文字で書かれた。 だからぜんぶ、ローマ人王族の手による偽装ものなのだ。 古代のヘブライ人とレビ族の血のつながりも、この時代には未だ皆無だったとオイラ思っている。 ヘブライ人で世に知られているのは、当時はすでに、ユダとベニヤミンだけである。 太古に、騎馬の軍ビバイナの手でアッシリアから解放された十氏族は、郷里のカナン地方にサマリア人諸族が満ちているのを知り。 戦費調達のため国土をメディアに売り渡したビバイナとともに、オリエントから逃げ去ってすでにいない。 ローマ帝国の紀元前後の時代になると、このころのユダ・ベニヤミン族は、もっぱらアラビアの砂漠に溶け込んでしまう。 彼らローマ人が、そんな本物のユダたちと接触するようになるのは、ずっと後の時代なのである。 ヒスパニアでアラブ人と戦争し、地中海交易でアラブ人と覇権を争った、その後だと思う。 間接的には、古代ユダ文化とローマ帝国でのレビ族文化も、何らかの繋がりはあるのだろうが。 そもそも血のつながりが皆無だし、しかも意図して隠されているときている。 旧約の聖書には、むしろ堂々と連続性があるように描いてあるのだが。 あれはエジプトでの古い話などからも、真っ赤な大ウソなのであるとわかるようになってる。 なのでオイラの史観は、聖書をうのみにする世間と違った、こういう独特のものとなっている。 ローマ勢力による、古代ヘラス征服が紀元前146年頃。 アリストテレスより100年以上も後の時代のヘラス滅亡だ。 用済の危険なヘラス人が一掃されたのが、46年頃だとも言われている。 聖書は200年ごろの成立であって、やはり古典ギリシャ語で書かれてた。 (一説には1600年頃の物という説すらあるのである) バビロンから得た、膨大な古い図書群(ミシュナーという)がモトになっていると、これはわかっているのだが。 利用したらしい古いミシュナー物は全部、聖書編纂のそのとき、意図的に積極破壊、抹消された。 じつは、いろんな聖書類があって、その差異なんぞでわかるらしい。 古代の、ユダヤ人ゆかりの地とされるエルサレム界隈には、サマリア人などはいたが。 ローマの傀儡王であるヘロデ王以外のユダヤ人は、キリスト話の頃には一人もいなかった。 と言う説を、オイラ採っている。 居残ったユダやベニヤミンは、ヘロデ王に全員殺されたからだ。 ローマ第10軍団で鎮圧したマサダ要塞なども、現地人の反乱玉砕は間違いないがユダ族はいなかったようだ。 古典ギリシャ語で書かれたユダヤ戦記に、ウソ書いてあるのである。 世間の歴史は、最初期のユダヤ人教導種族であるレビ族の役割を誤魔化したし。 シナゴーグの役割をも隠ぺいしてきた。 同時に、一神教キリスト教の生きながらえた経緯をごまかし、これをわからなくさせた。 こっちはホンマに、まったくわからん。 しかもキリスト教聖書の権威を、ローマ帝国の中心に立てることをやったのに。 というより、もともとローマ帝国の中心に居た連中が、自分たちの文明的世界観や信仰を自画自賛したわけだ。 なので、本当の歴史は、世間的にもまったく見えてないのである。 そのころまでにローマに入り込んだであろうアッシリアの皮ハギ師タンナー勢力も、見えていないだけでなく、こっちは文字通り痕跡が消えている。 アッシリアを諸国の憎悪で解体させた、宇宙人のような張本人たちなのだが。 キリスト教がローマを支配していったその経緯も、じつはまったくもって、わからないというのが実情。 ここはオイラの不勉強というのもあるかもしれんが。 陰謀家のキリスト教徒たちが、事あるごとに隠すので、わからん。 ただ、初期に仲介したのがマニ教。 これはわかっているし、世間も認めている。 ゾロアスター教というのは、古代ギリシャ古典並みのウソだ。 ニーチェも、これに、「砂漠のラクダ、ザリウシュトラに」ひっかかっていたが。 ゾロアスター教は、一神教徒たちが過去の隠ぺいのために持ち出した古い撲滅済の多神教文化であって。 一神教化の運動によって、組織の内部から殺されていったことがわかっている。 重要なのはマニ教のほう、なのだが。 こっちは現在も生きている宗教なのに、ほとんど見えてこない。 マニのキリスト説話は、キリスト教に採り込まれている。 これが絡んで、穏やかな今のキリスト教説話が出来たんだ、とは、わかるが。 血なまぐさい部分がきれいに消えて、見えなくされた。 その経緯も、もとの姿も、わからん。 カトリック儀式で、なんでキリストの肉を喰らい血を飲むのかも、わからんのである。 聖餐の秘儀、ミステリーという名のサクラメントだ。 カトリック屋台骨作った聖アウグスチヌスなども、もとはマニ教徒の修辞学者である。 王族相手に書かれたユダヤプロパガンダ書の、<ユダヤ戦記>が、この時代に活躍したのは確実。 なんだが、これも意図的に無視されて来たのでほとんどの人が知らん。 偽装だらけで、実情はほとんどわからんなってるのだが。 これは当時の王侯貴族に大人気の、ローマの大衆小説だったらしい。 (大衆と言うのはローマ市民、支配階級王族のこと。 これを間違うと全部間違う)。 歴史学的にも、文献学的にも、イエス・キリストが居た証拠などは皆無。 なのに。 まったく裏すら取れてないのに、教科書に載る。 エルサレム界隈にユダヤ人なんているはずがないのに、聖書だけが描く。 ただ確実な、過去の事実がある。 いつの時代でも、滅びの種を撒くのは一神教徒たちであったこと。 これは間違いない。 支配確立の時期には解放者として振る舞い、文明人を主張することなども、その特徴的なのだ。 ウソつき。 もともと多神教徒であったローマ市民(王族)に、一神教の勢力は背乗りして国を乗っ取った。 クーデターで政権を奪取したのだが。 その乗っ取った帝国の力を使ってグローバル勢力となって、更なる世界支配を企んだ。 そういった<グローバル指示指向な啓蒙的支配化思想を、文明化という>のである。 それは未だ続いている、ということ。 一神教は遠い過去に、ミトラあるいはミスラ教となってミタンニを蝕み、滅ぼした。 エジプトを蝕み、ここではアトン教を名乗ったが、追い出された。 ハッチを毒牙にかけたのも彼らではないか、とオイラは疑う。 アッシリアを蝕んで、彼らを世界帝国化させて、その内部から滅ぼし。 盗賊の巣窟バビロンをも蝕み、ゾロアスター教を一神教化させて宗教団体ごと滅ぼし。 やがて温和なマニ教となって、それは滅びゆくバビロンから世界各地に広がり。 原始キリスト教にマニ教やミトラ教が合体してキリスト教として生まれ変わって。 これがローマ帝国をも蝕むこととなった。 蝕まれて即座に滅ぶのではなく。 より巨大化して強力になるという、文明教の特徴もある。 必ずグローバル化して、世界文明を名乗るのである。 やがてローマも、同じ病歴を辿った。 これは滅んだどこでも、同じことなのだ。 ローマ帝国が滅んだあとは、それ(一神教)は二次感染して、西洋や中東に広く広く広がった。 まさにメッセンジャーRNAが予防接種で被害者を広めていく手口。 修辞学レトリカと、科学による知識学は引き継がれる。 その滅ぼす力の基礎となった、文明のものなのだ。 修道士の持つ文明企画の修辞学的<トリック>と。 ユダヤ人エリートの持つ、科学技術風の<魔術>なのだ。 トリッキーな政治<詐欺>と、自動機械の見せる<魔法>と、いってもいい。 オイラはこれが、哲学と言う名の知識学と。 科学という名の形而上学的(心理学、宇宙論的)魔術なんだと思っている。 背後に、基礎としてあるのがギリシャ古典の文明論。 キリスト教徒とユダヤ教徒の両者は、相携えて、ローマ帝国を支えていた。 だがやがて帝国は、血筋修辞の扱いの失敗で、滅ぶこととなる。 階級の争いは、この血筋の跡目相続争いとなってしまい。 それが今日に至っても、互いの役割隠ぺいともども、続いているわけだ。 一神教が、エリートを中枢に招いて、ローマの古い血筋をことごとく滅ぼし。 文明市民化の行為が、この種族自体を、やがて辺境に追いやったのである。 しかし一神教のグローバルな力の拡大は、とどまるところを知らない。 今や世界が、それで滅びかかっている、といって過言ではないと思う。 ただそれは隠されているため、普通は、認識されてない。 力をもってるのが、指導者層の「修道士」と、エリート「科学者」なのだからだ。 つまり、宗教政治と科学技術の未来企画展。 これが、文明と言う滅亡電車の経営者なのだ。 それを支えてるのは「表象」、「技術」、「範疇」などの、ヘラス古典の誤訳。 古代ギリシャ古典。 これが西洋の古典文化と呼ばれるものなのである。 ヘルダーリンを破滅させた古典文明、といっていい。 これらをまとめているのが、文明という優生学を持つ間違ったカルチャー思想なのである。 いわば文明のグローバルな力は、種族の持つ優生<特権>で出来ている。 決して長い者ではなく、単に優生学概念にすぎないのだが。 わが国でも、栄達に目がくらんで、これに巻かれることにした人は多いようだ。 勝ち組に、点取り虫になりたがる。 文明は、文化をカルチャーだとみなして見下すのである。 だからダメなのだし、さらに自分を選ばれた特別文化だと見るので、さらにダメ。 王族の特権として自己認識するのだから。 そのことで、特権は優生学的思想となり。 人の知力を、<選ばれしもの>として、瞳着させる力となる。 信仰のカルチャーならぬ、信仰的カルトとなってしまうのだ。 カルチャーは耕作から来ているというのはウソだが。 案外カルト・チャージから来ているのかも(冗談)。 つまり文明は、このカルチャーのカルト(宗教教義)の光で明るい、というわけだ。 この文化という言葉は、決して”カルチャー”ではない。 そのことはずっと先に述べてたつもりだが。 オイラは文明を排除し、文化のみを重視するので。 文明を信奉する世間とは、まったく異なった認識となる。 一神教的世界観は、その支配する国の文化を常に滅ぼしてきた、と見るので。 つまり一元化が、多用な芽を摘むと考えるので。 選ばれし文明となり、その文明がグローバルとなると。 それは一元化が世界を滅ぼすという、恐ろしい意味につながるのである。 それを避けるためには、まず。 誤ったギリシャ古典を放棄しなければならない。 そのためには、ヘラスのアリストテレス先生の言語解釈に立ち戻り、オルガノンに立ち戻ることなのである。 心身分離科学の世界観ではなく。 心身合一した、正しいオルガノン解釈に立ち戻る必要がある。 それによりトピカを見直し、哲学と正しく向き合うこととなり。 科学技術の基礎である形而上学的誤謬を質すことにもつながるだろう。 そういった動きは多々あった。 だが、大抵は宗教的だった。 それも一神教的な推進の動きの一環だったのだ。 だから無意味で、逆に滅亡への積極推進役になってきた。 ナチスがいい例だ。 斬新な思想には目を見張らさせられるが、結果的に、酷い搾取となった。 オイラたちは、享有認識としての自分こそが。 生きている生命だ、と言うことを忘れている。 個体は死ぬが、生きているのもその個体。 まず「永遠の命」だの、「生まれ変わり」だのといった優生学的な諸々を、先に追放すべきなのだ。 自分が、限りある<有限な命>で、しかも<無知だ>、ということを知るべきである。 自分で考え、自分で知れば、オイラみたいなアホであっても、誤り追放は可能なこと。 完璧には程遠いが。 生命活動は、まさにバランスのもととなる波でできている、といった考え方あたりにも、問題がありそうなのだ。 変異を続けるのも、享有の有限さゆえ、なんだが。 人は、デジタルなバランスでできてんじゃないよ。 波のヘルツ数は、ホンマはアナログにしか認識できない感触だ。 連続があるもの、だからだ。 計測できるように導入した数学で、分数数値にして科学にしてるだけ。 対象を絞りたくて、科分離してデジタルにして、それで一層泥沼になってる、だけだ。 そういった、自分のありさまをしみじみと見直す余裕は、もう、ないのかも。 本物の<トピカ>のモトとなった講義録に出会える余裕は、という意味だ。 オルガノンが見直されるべき時代が、今やっと来てるんだが。 じっさいは、オイラ以外、古代ギリシャ古典の誤謬なんて、誰も気にしとらんのじゃないか、と思うときが多い。 古代ギリシャ古典は間違いである。 ヘラス古典にせにゃ、と思うんやけど。 おいらが多言弄してギャーギャー言ってるだけ。 誰も気にしてない。 おいらの愚痴を欠かさず読んでくれてる人たった2人で、これはたぶん敵の自動ロボット。 たまに来てくれてる人が10人程度、だからだ。 あとは文字数に嫌気さして、一回きりだろう。 でも、お客様は神様です。 増えない神様。 ところで、おいら土佐人である。 客宴会やりたいけど、家内はその特殊文化持ってないので常に反対されて、権力最近無いので、一切でけんなった。 ”土佐人”と”客宴会”で検索すると、高知特有のおきゃく文化、がわかるはず。 アリストテレス先生の種族も、さらには古いゲルマン種族すらも、おきゃく文化は持ってたようだ。 しかし陰険なローマ人は、目的の明確な貴族宴会しか持たなかった。 薄暗い文化は、見えてない目的もカバーできるが。 明るい文明では、不明瞭な目的などは、切り捨てられるのである。 ヘラスの、うす暗いお客文化は、ローマ帝国の短剣の前に滅亡した。 その、「謹厳、実直、陰険なローマ人」も、なぜか今やローマには住んでなくて。 東欧の片隅でブラド候の伝統と過去の栄光を守っているにすぎない。 ともあれ、弱肉強食と言うこれがウーシアの定めの一つであって、オイラたちの地上が宗教の言う煉獄であるのもまた事実?。 いいや、むしろここは文化の地獄じゃんか。 煉獄つう、カトリックの教理だけの問題ではない。 科学が、知恵に対する楽天的なライプニッツ風データーベースであるのもまた事実なんだが。 問題は、その西洋的知恵が<人間向きではない>、ということにこそある。 科学はもともと、殺しや滅亡の相手でしかない、という問題がある。 人間が何であるのか、自分でも、自分たちでも、薄暗くてわかっとらんのだが。 向き、不向きのほうは、倫理があるから、カテゴリーがあるから、これまでうっすらとわかってたのだ。 同時に人が、知恵と言う光の奴隷ではない、そのこともわかってた。 しかし今や、文明の光の中で、すべてわからんなってきたようだ? <汝自身を知れ>、という、ソクラテスへのデルポイ神殿の神託は、未だ果たされてないことも、わからん? オルガノンという、アリストテレス哲学の、このことが理解されれば、わかるはず。