哲学史36-21 オルガノン再度(心身一体の哲学)4
<図式=心のオルガノン的構造ならぬ時空構造> 人の心は独特の<時空でできている>。 この構造は、いわゆる構造ではないのだ。 神が、個々人の心を操っている、とまで想定されているそれは。 享有者の、個人だけの心構えにすぎんのである。 つまり個人享有の内なる形式の、反省したものにすぎん。 享有であり、同時に共有でもあるものはあるはずだが。 それは理解できん。 (特に共有部分が哲学では解りようもない。) (科学は享有部分がいっさら無関係。) 心身一体で、ファンタシアの出来事が表現するオルガノンなのだ。 これが、再現指示できる共有の(科分離の)時間・空間の、図式的メタバシスを見せているので、「個々人の心を操って」、とまで言われるのだが。 それが天の、「メタバースを表象している」んだとよ。 ばかばかしい。 つまりこれは、構想が図式とならず優生学でズレてしまってる、悪魔的思惟の証拠の方を見てるわけで。 そのことを露わに表象している、とも言える。 構想力が人造のアルゴリズムと化して、そこに指図だけが魔法陣と化して生きているのである。 めくばせばっかり、形式化しちょる、というか・・・。 ここに、つまり図式にも、<他者の光>という優生学悪魔の介入があった、わけだろう。 というか、図式は享有の享有たる<感性のオルガノン>なので。 優生学の悪魔は、その路線と違う間違いのほうしか表現できない。 図式を、反省的感性ではなく魔法陣として隠して利用するのが優生学なのである。 享有者個人を破綻させるのが目的となる。 実は、最初から共有の悪魔人格の意図的介入、光る他者、破壊者なので。 光る他者は、最初からオルガノン的には破綻している。 当然、倫理観など一切持ってないからだ。 だからメタバースに表象でき、うすっぺらく認識できるのである。 メタバースは悪魔的俯瞰図にすぎず、誤った図式認識ということがわかるだろう。 これを表象するのは間違い。 図式はもともとから、一体のモノとして享有者が持っている。 人格の一部というより、人格そのものなのだ。 現代の心理学風表現でいうと、優生学の悪魔はソシオパスにあたるだろうと思う。 人格形成の一部が欠けている、と考えられる。 (オクケンにすぎんが。) これまでサイコパスと言われてきたが。 心理学用語はじつに便利で、アクマチックである。 だが超危険な優生学なのであることの認識なしに使ってはならない。 享有に対してしか、自分に対してしか有効でない表現なのだ。 倫理とポジネガが逆の働きしてて。 他者に対し、ポシティブに使うと、悪魔になる。 カテゴリーも当然科学用語みたいなものなので、これらの用語使いでは感性的反省は無視される。 絶対に無視できんで存在する、図式と一体のモノなのに。 心理学用語が意味を持てるここは、本当は図式がからんでいるからなのだが。 対象が英知の光そのものであることで、つまりサイコパスでありソシオパスであることで、倫理の牢獄に取っ捕まらずに表象可能となっているのだ。 だから科学者には心理学が信奉される。 哲学方向には誰も見向きもしないまま。 世は扇動され、これに突き動かされて破滅へと突き進むわけだ。 メタバースというのは、人倫に許されざる<メタバシスの現代版>のこと。 これは<(邪悪な=ポシティブな)図式的俯瞰図>のことでもある。 本来俯瞰できんものを、優生学を持って表象、表現している、っつうこと。 見えん図式を無理に悪魔的にずらせて、知的に<俯瞰した>とするものだ。 瞳着で人を動かす陰謀の目的が、そこに隠されてある。 その目的に併せて、この図式も人工化された。 そういった代物なのだ。 あるいは今後俯瞰予定するアジェンダ的要素もある、のかも。 これらは哲学的反省と、一見似させて表明されることが多いが。 図式(シェーマ)は、オルガノン同様、実際的人工の「構想」物である。 物になりきれてないモノというか。 構想力(という、うふぉ)。 しかも実態は、ある特定の目的を持たされた<仮想時空間>でもあって。 必ず、時間をも空間をも伴う、もののはずだ。 カント先生は、「図式は構想力であり時間だ」としていた。 しかし現実には、人には経験的にバーチャリターがある。 つまり現実に認識のよじれはあるが。 そのため人には、自分の経験は認識できても。 その経験の対象がまったく掌握できないものとなって。 メタバースなどといった、超越世界のモノにおいては特に、現実でありえなくなる。 つまり仮想現実となる。 (うふぉ、ではなく仮置きした偽物の現実となる。) (たいがい、サーバーとかいう騙し機関が絡むんやが。) インターネットも、一つの心身統一体の<現実>ではあるから、だが。 仮想の時空、としか言いようがなくなる事態が起こる。 悪魔化された表象が絡んでいるため、そうなってしまうのだ。 仮想の、共有時空のように見えるんだろうが。 それはもともと、<ウソの人工時空>だっつうこと。 うふぉ、ではなくて「ウソのファンタジー」。 現実での認識は、ねじれた一意に収束するが。 それゆえに「オイラはある」、と言えるんだが。 享有現実の時空間とまったく別の、ズラされた時空間なんて、ホンマは、ないからだ。 全部<享有という現実>。 つまりオイラという感性の成果にすぎん。 (なんか観念論者に似て来たか?な。) (形而上学やってんじゃないんで、間違わんように。) メタバシスに倫理的抵抗のない半悪魔人が。 インターネット上に、知的なソシオパスの空間を想定しているのだろう。 だが。 それは本人の享有時空間がズラされてて、享有的にへんな時空に見える、というだけで。 そういう時空間が作られているんでは、ないわけだ。 科分離して空間だけ考えてみても。 現実のオルガノン空間は必ず時間を伴うし。 知的な認識は、必ず感性的な認識を伴う。 一体のものなのだ。 共有は、必ず同時に享有、なのである。 科分離して解ってくるようなもんではない。 ネガチブな反省をも、必ず伴う。 しかしあくまで、共有もその現実は<享有>がモト、<感覚>がモト。 それで、・・・である、とはじめて言えるからだ。 共有では、中性的にして表象するしかなくなるからだ。 そしてこれがワカラン人、多そうだが。 <時間は必ず同時に空間でもあるはず>。 これは命題ではなく、現実である、ヴァーチャリターなのである。 おいらが一意に自己享有掌握できる。 現実、ということだ。 何万人もの他人を平然と焼き殺した超賢い悪魔にも、これはよくわかってたようだ。 数学の上でやる物理世界であっても、それはある種の現実。 現実が絡む限り「時空連続体」があるのみ、つうこと。 これを超越したり、俯瞰したり、ズラしたりはできない。 時間・空間は、数学的に分かった理解がなされることが多いが。 これこそ心身一体のオルガノン的命題で、仮想のもんだ、っつうこと。 科分離して、別の対象に仮に置いて、仮に論議できるように思ってしまうらしいが、時空は本来、そのようなもんではないのだ。 だから病気の人も、どうしても出てしまう。 最近、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が提供したデータで、一気に宇宙論の論議が進んだ。 ビッグバンという、これまでの宇宙論創成の神話が、泡となってくだけて消えた。 既存の理論を飛び越えた、古い時空の銀河が直に観測されてしまったためだ。 宇宙では、オイラたちは過去を公然と見られるのだからウソつけない。 過去は<あったこと>なので、間違いなく見られる。 その知的な対象に瞳着できる。 未来は<ないこと>なので、一切見られない。 アジェンダ企画や予測にしか、ならない。 (だから確定予言と言うのは、宗教が使う詐欺なのである。) 科学もウソの<想定>を平然とやる。 大概が外れて、想定外だなどと言って責任も取らずに胡麻化す。 (1県を破滅させた東電の責任を問わなかったことで、日本は滅ぶ。) 宇宙には、始まりも終わりも見えんなった?。 いや、視野の周波数が以前よりほんの少し広がっただけで、なんにもワカランのは同じ。 宇宙的規模の未知の現象が、次々と見つかっている。 ダイソン天体すら見える? オイラの兄は大昔、天文台では楕円天体(ufoのこと)が特定の人だけに見える、っつうてたが。 残念ながら、すべてsfファンタジーの世界の話になっちまうのである。 形而上学的な整理すら、世間で、まともにされていない、からだ。 数学的正確さは求められても、享有現実の厳密さは、求められたことがない。 現象学など厳密志向の(誤った)学問志向のもんでも、中性の(うふぉ)もんしか相手にせんのだから。 科学の電磁波利用で、人の可視光線の幅が拡張された。 宇宙線の観測などで仮説領域が広まったことも宇宙論の躍進には大きいのだろうが。 形而上学の(宇宙論の)枠すら、まともに構想されたためしもない、っつうこと。 デカルトやハイデガー先生などが試みたが、破綻しているのである。 形而上学的主題において、オルガノンは成功しない。 というか、先験的誤謬があるので無理なのは、もともとわかってるのだ。 (誤謬の)形而上学すら見えていない人が増えたのも、そこいらが根本原因? (未知の)オルガノンすらモノにできてない人間に、宇宙論(形而上学)なんて、完遂できるわけないのだ。 神にでもなったつもりにならないことには。 つまり、メシアにでもならんことには、宇宙論など、できん。 そのつもりの、悪魔の人、しかし最近多すぎ。 オイラが危惧するのは、こういったファンタジーに囚われて、人々が祖先の神々との諸関係を見失ってしまう事である。 そこも実は一体に時空、一体の共有・享有である。 宇宙論(形而上学)とも切り離せないのに。 むしろそこでの隠ぺい作業が、現状把握にヒント与えてくれる。 宇宙論は、カント先生の言う通り形而上学である。 これは哲学ではありえない。 形而上に(有利をではなく無理を)見ようとしている信仰である。 優生学ではないが破綻を創り出そうとしている。 しかし厳密志向の対象認識論議を、つまり破綻したオルガノンはそれを、破綻なしに持っているのだ。 病気の例外を除いて。 宇宙論は形而上に、知的に宇宙の真相を見ようとしている学問なんで(そんなことが可能かどうかは別にして)、宇宙望遠鏡が大いにモノを言うのである。 しかし神はいなくても、これは<唯一神への信仰>がもたらしたことなのである、とわかるはず。 つまり先験的誤謬の賜物、なのだが。 信仰なかったら、対象がアジェンダされない。 予定理論が企画できない。 いまは、<従事者にその認識がないこと>が本当の問題なのだ。 モノ言う優生学には、そこ(場所でもあり、底でもあり、時間・空間でもある)有利、つまり有理なのだが。 これが全く見えてない。 理由は、哲学が死に体だからである。 宇宙という対象は時間であり、空間でもある、つまるところ自分である、その単純なことが見えてない。 時間空間は、宇宙をいじれる数学の概念だ、と思い込んじょる。 時間旅行の対象だと思い込んでいる。 <そこ>、という場所を示す共有表示と、<底>という限界を示すカテゴリー用語が実はおなじものなのだが、それすらも見えてないのだ。 カント先生の哲学の成果(科学技術の基礎にある形而上学の先験的誤謬)を忘れて、今日の宇宙論は、へんな方角にズラされて発展中なのである。 悪魔の優生学と化していっている。 そのため起こっている事柄なのだ。 形而上学は必ず、<先験的誤謬>に落ち込むのである。 ワカラン人は、カント先生の項目から見直してください。 そのカント先生当時の深遠な形而上学どころか、今はチャチなsf時空の世界なのに。 その命題に囚われるのは、当時と同じ、誤った信仰や信念。 なぜかというと。 個々人の意識の変容によって影響を受けるのは、<享有のみの時空での話>だからである。 タ・メタモルフォーゼ神話は、享有時空だけの変身物語なのである。 共有社会には、一切関係ないのに?。 共有認識操作が<目的>の、誤った論議なのに?。 共有社会でモノ言うのは、なんといっても<優生学>だからだ。 弱肉強食、力の強い奴が生き残るという、これは図式テーマである。 奴隷労働制度や資本契約を利用しての、<力関係とその形容>契約なのだ。 力関係とその形容は、図式に示されている。 指図された、優生学テーマなのである。 しかしこれらはすべて、「人造の時空間」の<おとぎ話>だ、といっていい。 現実との、直の関係が見えてない。 時間・空間が、感性のモトがまったく、見えちょらんのである。 <図式に操られちょる>、だけ。 (感性のネガ部分無視するんで、一方的に操られる。) この「人造の時空間」というもの、じつは図式の力の表象なのである。 人の構想力のこといってんだ。 力関係と形容で表象・再現した、ありえへん、<モノ自体>の論議なのだ。 モノ自体は、ない。 これはカント先生も、ヘーゲルもちゃんと述べている。 特にカント先生は「モノ自体はない」というこれを明確に示し、図式に囚われぬよう、図式論もちゃんとあえて示した。 人の享有感性のもつ、優勢的力関係のもの。 図式に基づく、再現(時空意図)。 人の享有感性で形容した、先験的対象物があるんや、といってもいい。 誤謬が必ず先に、見えているモトに、あるのだ。 しかし図式は共有感性ではなく。 これらについては、享有のみの<うふぉ>時空での話。 カント先生がやってたのは、ア・プリオリな先験的論議のはず。 それがズラされて共有利用されちまってるから、おかしいのだ。 他者同士で一つの意識をつくっていく、コックリさん効果みたいなものはあるし、一神教の布教には、享有のみの時空での話なのに。 なぜか共有に、大いなる影響がある。 もともと全部が、<誤った共有のモノ>だからだ。 日本を立て直ししたいメシアたちには、この図式を利用して、支配権を固めるという目先の目的がある。 彼らは、オルガノンと倫理と図式の時空を読み間違っている。 もっぱらそれのみ、図式に頼ってのみの目的利用のようだが。 本当は、一神教の布教やって稼ぎたい下心が隠れてある。 実は、そっちだけだろ。 突き詰めれば輪廻転生したいだけやろ。 接点、そこ(信仰)にしか、現実は、バーチャリターは、本当はない。 物理的モノとの関係や意識命題関係には、コックリさん効果は大いに影響がある。 スピリットや精神で、直に共有社会は絶対に変えられないが。 無意識の享有が集まると、図式共有は未来を変えるようにすら見える。 (これをコックリさん効果と呼ぶ。) つまり暗殺を逃れてのガッツポーズにはインパクトがあるのだ。 そこに繰り返しの優生学図式が形成され、それが人の心構えを動かすからだ。 特に悪魔をそのままにしていては、共有社会は変わらんのだが。 そして人に「予知能力」などなく、「超常能力」も一切ないのだが。 ぜんぶもともとあって、図式共有で時空そのものを変えられるもんなんだ、と思い込んじょる。 変えられるのは、門の形くらいじゃろうが。 本当にあるのは、心身一体のオルガノン的認識のみだろう。 これは享有に対してのみ働く、形容と力関係なのだが。 知識や英知も、この享有・共有一体の優生学的ナニカに対しては、無効となる。 そんなナニカなど、共有的にはモトモトまったく<ない>、からだ。 なのに図式共有で、変えられると考えてしまうようだ。 <ある>、といえるのはオイラの<享有>認識のみだから。 其れ退けてない、といえるのに、だ。 当然、優生学も、享有に対してのみ有効なのである。 何度も述べて来たこれ、大事。 優生学は、<享有に対してのみ有効な命題>。 共有社会では無意味。 だから勝ち負けなど、享有を除いて、ない。 しかも更に、個人に見えてるのはポシティブのみの部分であり、本当はネガも含んで、そういった隠れた図式となっている。 つまりこれこそ悪魔図式(魔法陣)なのである。 ほとんどの人が、これ間違えて認識してる。 見えん悪魔図式に、その共有扱いに、捕まっているのだ。 他者より共有社会で優れているから、勝ち組だから生き残る、と感じてるようだが。 それ間違い。 享有する悪魔図式があるだけ。 図式は魔法陣として共有立てられるが、有効なのは享有のみなので、悪魔図式が働くのは優生学の享有範囲のみ。 これは、享有認識で成り立ってる経験認識上に、<帰納的概念>が出来たにすぎんのである。 弁証法の背後には、享有の弁証論があるにすぎん、みたいな、もんだ。 つまり主観で魔法陣に頼って成り立って、自分に対し、そう思い込んでる、だけの話。 ほんとうはすべて、<享有の時空のみで有効のはず>なのに。 共有は、もともと一切、関係ない享有時空での思い込みばかり。 つまり優生学は、<共有学問にはなりえない俗説>なのである。 学問にもならんが、悪魔のもんなんで個々人の病気の原因とはなる、わけだ。 これをきっちり認識の必要がある。 優生学は、つまり進化論などは、学問ではない。 ハッキリ言う。 似非科学で病気の原因。 ウイルスはこの世に存在しないとわかったので、破壊活動やる細菌のようなもんだと言っておこう。 図式はプログラムではない、という話をしたいと、最初に思った。 科分離する対象認識科学は、図式と同じものであるはずの電磁波も光も放射線も個別に扱うが。 これらはすべてオルガノン的には、おなじものである。 現代科学においても、周波数が違うだけになってきちょるが、その機能も同じ。 コマンド的にもステートメント的にも、パラメータも同じ。 一律にデジタルで利用できる、周波数の違う振動だ、なんてこと言ってんじゃない。 デジ・アナなんて都合視台の科分離認識は、そんなこと、どうでもいい。 もっと根源の話してる。 プログラムで、一意にモノを図式化して扱いたいんだろうが。 図式はもともと(神の)プログラムなんぞではない。 人の(享有・共有の)有限な感性にすぎない。 その証拠に、人の病気がある、のだ。 <脅迫神経症> 感性と知性の不一致が引き起こす、脅迫症という病気があるらしい。 おいら脅迫神経症というのは聞いた事あるが、今は神経を除外する?ようだ。 しかし神経も肉体も一体の人の病気なんで、分母や呼び方変えて病気の命題が変わるわけではない。 どうやら、脅迫神経症は、時間・空間的関係を読み違えてしまう病気のようだ。 感性と知性の不一致という理論が語られる。 だが、それは科分離認識であって。 実際にはコレ「図式認知上の病」だとオイラ思う。 だから時間・空間的関係を読み違えてしまう病気、といってるのだ。 これは図式が<人の側の感性もの>なんで。 神の経験の無いことも、その関係の証拠。 人と言う、オルガンの出来損ないが起こす頭脳の一部位の病気なんぞじゃ、ない。 優生学は関係ない。 つまり病人享有者に、病気への責任などはない。 だからといって共有社会への責任は、まったくなくならない。 神は病人作った責任があるので負うべきだ。 人の人格も存在も尊厳も、すべて関わってしまうのだが。 一部位の不具合それは優生学的解釈だし、感性抜きで知性に拘るのもへんな優生学なのだ。 そうではなくて。 生命機構の図式認知の仕組み(そんなもんあればだが)誤認が引き起こす、図式読み取り能力が引き起こしている、享有・共有の病気なのだ。 一見、<優生学的判断力の誤認>みたいなもん、が働いてるのだ。 それが病気となる、ように見せている。 これも優生学的判断である。 実際には、時間と空間の関係誤認というより、享有と共有の<領域誤認>が起きていそうである。 つまり図式権能適用の誤りが、病気を引き起こしているのだ。 (図式権能なんて、ないが。) おいらが見たビデオでは、紙に書かれた内容を何度確かめても確証得られない不安が押し寄せる、という切実なテーマだった。 おいらにもその傾向だけだが、若干あるようなので。 時空が絡んでいる、とわかる。 違う例になるが。 たとえば、玄関のカギ閉めたはずなのに、閉めたのに、閉まってないのではと不安になる。 時空認識手順の「ご破算にねがいまして」が、いくらでも起こってしまうようだ。 これは処理済の図式が、そのつどご破算になってしまうから起こるんだろう。 共有領域のカギ処理して、享有に戻ってしまっても、処理図式が残っておれば知的に再確認安心できるのだが。 それが消えるのでは、大変だ。 図式認知ができていない、ご破算になることになるからである。 図式認知ができないと、物事の判断基準がなくなるわけで。 まともに判断ができなくなる。 (つまり判断のモトは図式。) 電磁波に方向探知判断能力を奪われた、鳥とかクジラみたいなもんだ。 電磁波に操られるままに道路上に落下する鳥の群れを見たことがある。 図式が普通は見えないものなので、これが起こす病気などは測りがたい。 科学分離思惟は特に、この図式を一切無視するのでわからなくなる。 共有社会の物理や化学や生体へは、薬物のみが関与すると思い込んじょるので、この危険さが見えるだろうか。 見えん電磁波も、見えん図式も、あるんや、とは最近少しだけわかってきてるが。 人の感性のものやとは認識しとらんので厄介なのだ。 厄災の原因となる。 科学に見えん図式が、共有の厄災の原因となっている。 現実に魔法陣が仕立てられ、それが人々を破滅に導いている。 次回は魔法陣について騙りたい。