哲学史36-27 オルガノン再度10 <用語の再整理>
哲学史は結局のところ、オルガノン反省構想の歴史であると思う。 俯瞰や企画じゃなくて、反省して絵にかいた餅、その反省。 哲学は必ずネガチブな領域への反省である。 オルガノン、つまり生命の「法則」は、生命という「共有」世界が命だ。 その共通の法則であるはずのものだから。 だからだから、前節に従えば、<ネガチブな図式に動かされる>共有ものでもあるのだ。 それの反省。 しかし、享有の有として生きてなきゃ話にならん。 感性を持つ、人の側のものなので。 これ(生命)は必ず、法則として享有者があると反省があって初めて確認できる。 しかも<ネガチブ>な、<共有図式>の産物となる。 現実の生き死にというものがポシティブには相手できない、その理由なのだ。 人の手には、人の生殺権などない。 図式にはポシティブなものも「ある」ように思ってしまうが。 ポシティブものは<享有の専売特許>であって、享有でもって「有る」ことを相手する。 共有者は、これを一切、あてにできんのである。 目当てにもできんので、メド立たない。 この「あてにできん」部分の図式にあたるものを、予定構想目的で再現企画したものが、優生学なのだ。 別名を<進化論>とも言う。 みえんネガチブ部分を、想定で補って胡麻化してあるのだ。 つまり時空間をズラしているわけ。 あてにできんので明確に示せず、アジェンダとなってしまっちょる、というわけである。 未来志向の情けない顛末。 反省のできない科学の思惟では、これらの事実を、そもそも全く認識できないことは何度も述べて来た。 なので、主観的享有に、その感性に頼るしかない。 感性的にそれらを規定して、命が取り持っている。 それが、ロゴスのカタログ。 カテゴリーとして見えている制約の牢獄なのである。 カテゴリーは倫理の、言葉による、図式の諸形式なのだ。 純粋悟性概念、ということの意味である。 そのカテゴリーを有らしめてるのが「主観」なので。 優生学なんつーものは、所詮学問にはならん、というわけだ。 そのことが、あなたにもわかるだろう。 科学では、そもそも優生学はその「優生」部分を認識できず。 共有の客観が立たないので学問にはならない、ということ。 これはまた、構想力の創り出した、<人工物の魔術>を見ているだけになっちまってるのだ、ということ。 優生学がしかし現実に働いているように見える。 それは、人の魔術の詐偽実践の、その結果なのである。 みんなヤラレてんだよ。 これまでやってきた詐欺実績が絡んでいるのだ。 優生学的主題そのものが、享有に対しポシティブに「ある」ことなどは、絶対に「ない」。 時空をずらして、<ネガチブ>な<共有の図式>を企画する悪魔もいるが。 その悪魔ちっくな人工の試みは、正しく魔法と呼ばれるんだが。 魔法は絶対に成功しえない時空ズラシの無駄な努力だ。 ネガチブなことには、客観的に言って「死」が待ち構える。 つまり主観に予測される「無」が、必ずつきまとう。 だからである。 世の基本が、もし共有のみであるのなら、すべては。 ネガチブな図式が支配することになる。 そしてすべてが構想力に帰してしまう、わけだろうが。 しかしそうは、なってないし、なりえない。 (AI人工世界の出来事を除いては、なんだが。) この世の基本は、人の<個々人の享有>、人の主観的認識だから、である。 共有認識には、これらはない。 しかも客観のみでは、構想しても、それが「ありえ」、ん。 ネガチブな図式を期待する、魔法利用の「他者の共有悪魔」は、消え去るしかないのだ。 すべてをデジタルな構想に帰してしまう予定だとしても、だ。 外人中心で、へんな政府企画であるムーンショットが、それをやろうとしている。 日本人も加わっているが、大概は一神教徒みたいだ(憶測)。 論理学で神を見失った超賢い人々は、しかし外人に結構多いのである。 科学技術で人工の遺伝子を作り上げたり、宇宙をも壊せるハドロン機械を仕立てようとしたり。 さらには宇宙の構造に関わる宇宙論的電磁理論を見出そうとしたりして。 その結果、生体にも手を出し始めた。 実は19世紀からずっとやってる、という話もあるが。 連中の持つ「優生学判断済」が、種の存続を脅かしかねないほど結構ヤバイのである。 その事には、大勢の人がすでに気が付いている。 医者に掛かって予防接種すればするほど病気が増える、そのへんな事情に、あなたも気が付いているはず。 数字観なくても知人動向聞くだけで、わかるはず。 しかし誰も、この出来事の本質とはなにか、ナニがどうなっておるのか、基礎からはあんまり気にしないのだ。 享有する自分が生きる、のが、何より優先だからだ。 つまり修辞学は無知の知より優先、という命題がある。 この命題は正しい。 それは西洋が古典ギリシャ哲学という過去を選んだ時に、すでに決まっていた「修辞学」の成果なのだが。 これは同時に、優生学という、滅びへの道筋も、その基礎にもってしまっているのだが。 「優生学判断済」は、多くの人がそれのヤバイ点を指摘して来たのだが。 優生学のヤバさ加減も無視され続けて。 世界はもう、何度目かの滅亡へと向かって突っ走っているかのようである。 その根本原因は、「宗教」や「科学」が理由ではない。 無知の知の忘却、つまり「哲学の滅亡」に理由があるのだ。 それが解っているのに。 必死で哲学の核心を示そうとすると、読者2人(ロボット)に堕ちる。 まったくもって意欲消沈する。 人々は文字を読み解くより、聞き流すのが好きだ。 おいらも実はそうだ。 自分で考える、そのことが失われているために、そうなるのだ。 自分で考えないと、おいらの文章は全く読めないはずである。 でもええんよ、哲学は、享有者がフィリアちゃんにスリスリする事なんやから。 読者おらんでも結構楽しいんである。 無知な(おいらみたいな)人は、とにかくなんでも「知りたがる」。 自分で自分の無知を知って、自己満足で、いきていられる。 この間ずっと、<居る・カノン>の基本を訪ねてきていたのだが。 死や無といったネガチブな共有態ではなく。 自己満足な自己反省で、ポシティブな生への<有ルケ?>を訪ねているこれをもっとやるべきだが。 プロテスタントみたいな、享有を認めん連中が増えて。 ネガチブな共有図式に身を任せる小羊奴隷やメシア的宇宙人ばかりになってきた。 読者の見込めんおいらの卒論書き直しも、たぶん紙の本にはできずに消え去るだろう。 超重要な命題もいくつか見つけたので、ぜひ「知識のコピー」を後世にのこしたいものだが。 命題には、拘らん方がいい。 コピー情報も、共有読者のコピー作業次第。 自分用、営利を伴わないコピー利用は、一切自由勝手です。 <用語の再整理> これまでの自分勝手な哲学史論議で、もう2年経過か?とも思う。 正面の敵優生学の立ち位置も、ほぼわかってきた。 が、最近は耄碌がすすんで、記憶も、ずいぶんと曖昧。 なので何度もやって来た用語の整理から、もう一度やりたくなったんだが。 どうやら「ムリなオルガノン構想」は、結果的に哲学概論の構想へと発展するかもしれんことが見えてきた。 手始めに。 まずヘラス哲学と古典ギリシャ哲学の違いを説き。 自然学、科学、修辞学、数学、形而上学、論理、科学技術などについての、その基本となる基礎知識を、ざっと見まわしたい。 哲学史を書き始めた頃とは少し、考え方も違ってきているはずである。 メタバースに俯瞰して神の立場で見るんではなく、オルガノンの、心身一体の有限者の立場で書きたい。 (ヘラス哲学) ヘラス哲学と古典ギリシャ哲学とは、お互い別物である。 どこが違うのかと言うと。 ヘラス哲学は「無知の知」一本やりである。 心身一体でのオルガノン的傾向を持つ、自己思惟の<反省を軸>とした思惟のもの。 「享有の感性」に対し、アルケー?と問いかけ。 演繹を目指し、命題を採り上げての、共有の「親しい対話」を特徴とする。 空しいネガチブな言い訳(弁証論)をやるんではないのだ。 論駁も、それが目的ではない。 「自分の無知に至る」という明確な目的が明白にもともとある。 なので、よその目的には囚われようがないのだ。 自然(フュシス)体であろうと願う、ということ。 またその目的が、自分が知恵・知識を何にも持たないこと、なので。 優生学にも、捕まる筋合いが、まるでなくなる。 哲学は、ソクラテス由来の共有品である。 彼が創始者である、のだが。 但し、享有者が1人居さえすれば、どこででも関与できる。 命あるかぎり、つまり人が絶滅さえしなければ滅びようがない学問なのである。 知識ではない、<無知の知>。 (古典ギリシャ哲学) 古典ギリシャ哲学は、ヘラスの哲学とはぜんぜん違って。 「知恵の学識体系法則」を探し、そこにあるカノンを持とうとするものだ。 見えてない共有図式の探求というか、特権探し。 上昇志向の問いを含んだ、知恵・知識優先、つまり「優生学の学問」でもある。 オイラの信奉する、ヘラス哲学とは全く異質な物だが。 現代世界にはこれがドデーンと、大きな顔で居座っちょる。 生きることと稼ぐことを取り違えちょるのだ。 古典ギリシャ哲学なるものは、アリストテレスの知見をもとにして、後の時代にローマ帝国で修辞学者によってできた。 古いプラトンの理想を実現せんとしたり、といった、へんなこともやるのだ。 (未知の)<イデア追及>の<学識体系>、ある種の共有企画推進事業なのである。 未知のネガチブな図式が予想されるが、もっぱら西洋で、形而上学中心に発達したのは、これであった。 (「形而上学は、心理学・宇宙論・神学、など」のこと。) (これは後で述べたい。) 哲学を名乗っているが、オイラはこれを全く哲学とは見なさない。 <修辞学の一部>だとみる、のだ。 事実、その初期には、ちゃんと修辞学と呼ばれていたという、いきさつや経過もある。 これのおかげで、はっきりせんなった哲学が、西洋世界の宗教とも一体化したように見えるのは。 優れた修辞学者だった聖アウグスチヌスが、同時に哲学者でも、宗教家でもあったため、である。 彼はキリスト教と言うローマ帝国の中枢に巣くった宗教に捕まり、修道院で政治を執り行った。 宗教的理念と一体化して、ローマ帝国の滅亡に手を貸した。 共有宗教と彼の享有信仰は一体のものとして修辞学でまとめられ、日常生活が即政治の論駁の日々だった。 家族は投げ捨てて。 彼は、宗教家でありながら、神を騙して悪人までやってたのだ。 宗教家で同時にしかも享有哲学者でもあったという、超奇怪な人物。 修辞学と哲学は同時に可能だが、宗教家の享有信仰と哲学は同居できない。 彼が、のちのカトリックに引き継いだのは、やはり哲学ではなく修辞学(これも後に述べる)のほうなのである。 優生学も一緒に構想して、世に受け渡した。 これらはカトリックを通じて、修道院のスコラ哲学へ、西洋の形而上学へ、そして科学や論理学へと発展していく。 聖アウグスチヌスの哲学部分は、どうなったのか。 これを受け継いだのは、同じ修道院でもスコラ哲学とは異なる筋の英国人だった。 時代を飛び越えて出たように見えるのは、マイナーな世界にいるためである。 スコラ学の、ドゥンス・スコトゥス博士がそのマイナー人。 超重要で巨大な先生なんだが、資料はすくない。 享有現実のヴァーチャリターな様を述べた。 (自然学) 自然学は、世の隠れ無き様(フィシス=自然{形容詞})と<形容できる事態>を、主観・客観的に対象認識しようとする、ある種の「学び」。 由緒ある学問、つまりこれは「問い」でもあるわけだ。 学びであるとともに、当然、多くの問いも立ったということ。 だからその一部が、「科学的態度と重なる」ことにもなった。 哲学や修辞学とも重なってくるのだが。 しかし現代の、<科学技術>や<テクノロジー>とは、まったくの別物であるので注意されたい。 自然学は科学ではないし、科学技術でもない。 科学や科学技術といった、そういった優生学判断を<含まない>。 (論理学の影響を受けたこれについては、後に述べる。) 科学は、認識の対象を科に「切り分けて」可能となる、「学び」。 理解することには直結している。 科学技術は、細分化して理解し、全体を再現構想企画する学問であり。 学識、つまり細分化し「切り分けた知識や知恵」が、極めて重要となる。 こっちは哲学なんぞよりずっと古いんである。 物事の「理解」、「認識」、「再現」に深く関わる。 そのため知性優先に陥りやすく、捕まりやすい。 悟性の持つ瞳着機能に負うことが多いため、カテゴリーが無視されたりもする。 とにかく享有観察がおろそかになり、見えなくなるのだ。 瞳着なんか特に、主観判断抜きで、図式のまま見るだけ、表象するだけ、だ。 現代では、もっぱらカテゴリー無視の共有理解オンリーなのである。 感性面がまるでネガチブになってて、まったく見えていない。 極めて歪(いびつ)なものとなっている。 (修辞学) 人が生きる目的で諸々の技を修め社会生活を営んでいくための、とっかかりをなす、超重要な「学び」である。 辞(ことば)を学び修めるそのための学なので、修辞というのは実に適切な訳といえる。 哲学を含め、<すべての学の源>でもある。 ただし「学」のみならず、「学問」の源なのか、というと。 辞を学び修める態度があだとなって、知的な問いへも、感性への問いも、中途半端になるしかない、という運命を持つ。 何事にも、生きるのが先、となってしまうのである。 学も問いも、おろそかとなる。 だからすべてが「政治的に優生学判断後のもの」となってしまうのも必然のなりゆき。 生き延びるために政治理論を立て、理不尽な、まちごうた優生学には気がつくふりもせん、つうことになる。 修辞学的態度をよく政治判断とみなし、政治哲学と読んだりする、その理由であるが。 政治判断が政治家個人享有のもので、その他大勢様には絶対に頼りにならん理由も、この「優生学判断済」にあるわけだ。 政治家センセエの金権哲学、という、あれ。 自分が享有的に判断済。 つうことは、自分が自分のためにのみ有効、なんで。 共有するお客様神様の有権者には、無関係になんのだが。 金権哲学を有難がる人は、なぜか多い。 すでに「命題となったものを学ぶ」ので、無意味なものも相手する特徴がある。 命題つうのは「無意味なお題目」なので、それに囚われてはならない。 これを述べてたのはオイラではなくて、アリストテレス先生である。 (数学) 数が宇宙を支配してる、という意見がある。 ばかこくでねえだ!。 これ(数学)も修辞学同様、<人の>生きていく上での、「知恵」や「知識」の源の一つ。 人体分割、分数がモト、と言う説がある。 数が宇宙を支配してるんじゃねえ。 「人体」が「数学」を支配しているんやで。 自分の享有領域を守ってるつもりになってるだけなんやで。 数は、数学を支配してるオルガノンの、ネガチブ図式のカノン(法則)なんだ。 図式で支配されてるのは、道具的に利用されたオイラたち。 だから人工の図式がやってる、といっていい。 方程式の方が、もっぱら目立つのだが。 魔法陣立て済の目論見という仕様書の方が、時空ズラサせて、ネガチブに、じつは、あらかじめヤラレてんだよ。 人は、必ず身体を持つからだ。 その身体があってはじめて数学が成り立ってんだから。 人の数分割利用図式が、数学の支配者といえる。 ネガチブ領域のものなんで一切見えんが。 身体に伴い、数学の不得意な人も、だからなにがしかの数学を必ず持つ、のである。 その数学道具的利用の意味だと、数学は人を支配してもいるんやが。 主観的操作も、客観的認識も、数学的に可能には見えるんだが。 数学の共有利用は出来ても、その共有は<人工に立てられた図式上で>有効なだけだ。 宇宙も、地上の自然な物事も、人と関係しなくなったら数学とは関係ねえ。 共有は、ネガチブに関わる。 そのことを忘れては、ならねえ。 数学が方程式立てて利用されるので、科学や特に科学技術の占有ものだ、と思い込んでいる人が多いが。 違いまっせ。 そこで悪魔が、自前の「用具に」数学を、つこうちょるだけ。 数学は、人の(享有の)日常生活のためのもの。 その意味で、オルガノンの一部なんだが。 「理解」や「認識」、「手順」や「表象」を、あくまで、<数えていくためのもの>だ。 数得ていく、図式を辿る、のが数学の使命。 個人が自分個人に享有的に利用したように思うちょるが。 図式を介して共有関与できるだけ、と知るべき。 共有の、数学利用してのアジェンダ実践は、数学とは別物のエンターテイメントである。 オートメーションなんか、もう完璧に魔術である。 日常の取引延長のために、メタバシスやって企画したもんだが。 方程式の立て方など、数学と言うより魔術が、そこに見えてるジャロが。 優生学実践だとか、オートメーションといった、「魔法陣建て」のものだとかは同類。 学としての数学は、オル・カノンの、カノン部分だけ切り取って見せてる、と考えていい。 オル、そのことを一切無視しちょるのである。 だから科分離利用、修辞学利用といえる。 しかし数学はもともと、高度な「科分離切り分け技術」とか心的カルト作り、などとは無関係で。 人の日常生活のための客観ものとして、身体を据えて判断して置いたのである。 だから優生学判断済、にはなる。 その分割理解や、応用がモトだ。 だから科学的認識との相性は抜群なのである。 だといっても身体は生きたものだから、死霊になっては利用できん。 「普通の日常」時空と一体のものだ。 判断済の時空定義から出たら、数学は生きていけんなるのである。 アカデメイアなどでは、数学をすでに学んでいること、が入校の条件だったし。 リュケイオンでは、「哲学を学ぶための基礎知識」として教えてもいたようだ。 哲学などより、ずっと基本的、基礎的な学問なのである。 実用数学、実践数学なるものは、全く別のもの。 後の世の企画ものだ。 ましてや純粋数学など、「ない」のである。 記号論理など虚無のお遊びだ。 数学はすべて、<経験が学び取る学>なのだからだ。 宇宙の学なんぞじゃ、ない。 論理の虚無に採り込まれて、目先が見えんなってる人が多いようだ。 メタバシスされ、客観にのみ偏った現代数学は、歪(いびつ)である。 そして哲学に主観の主観がありえない(無知のみがある)ように、数学にも客観の客観などは、ない。 絶対にない。 純粋哲学なんてのは純粋経験並みの論理的妄想だが。 純粋数学なんてのは、経験則無視の妄想なんである。 記号論理は数学の一分野だが、その数学の数学図式じゃない。 つまり数学は、決して宇宙の法則なんかじゃないのだ。 その基礎認識を形成しうる、身体的な(感性の重要な)基礎分野。 つまりは時空論議の一部ではある。 この時空を無視し、カテゴリーの一部を消し、倫理を無視して。 知に偏って実践実用化された数学的知見やその応用を<メタバシス>という。 これの知的な、うすっぺらい反省応用が、現代特有のメタバースだ。 もとは神学者オッカムのやった暴挙だが。 それが、現代の数学や修辞学をはじめとする諸学が、知に偏ってしまっている理由となってしまっているのである。 おいらはこれらを一切認めん。 数学における「カテゴリーからの逸脱」など、絶対に認めようがないからだ。 そして心理学・宇宙論・神学に、数学をも加えんとする「論理絶対主義者の形而上学的意見も」認めない。 認めたら、<人が神になっちまう>からだ。 つまり神になったつもりの悪魔が、できる。 <宇宙が企画で出来る>ことになるからだ。 (形而上学) カント先生が、「心理学・宇宙論・神学」という枠を示してくれていたので、おいらもその範疇構想的に、これを考えてることが多くなった。 若いころはすべてが疑問で、特に卒論破綻した頃には今よりずっと頭よかったが、論議はメタメタだった。 超越(メタ)・超越(メタ)で対象化認識しようと謀ると、そうなっちまうのだ。 形而上学は、人のこころや宇宙の成り立ちや、神についての知見を集大成した形而ブツとして掲げられる西洋の学問。 いわば<この世の、見えてる全体像の学識企画>である。 彼は哲学者ではないが、ライプニッツがデーターベースとして構想したものを考えてもいいだろう。 アガステアの葉っぱに書き留められた全知識。 見えんものは相手にせんで、見える物だけ、形になって上げられるものだけを。 見えんものも見えるようにして相手にする。 だからどうしてもムリが出て、基礎破綻する。 破綻のない形而上学を最初に示したのはライプニッツとされているが。 彼の完璧なような理論の場合でも、楽観論の神が天上から見張っていて、「隠れカーネルがある」と、いつも指摘される。 共有図式のネガチブな様からは、いくら楽天家でも逃れられない。 辞書には、形而上学 = 哲学、なんぞと載っているのもあるが。 これは真っ赤な大嘘のコンコンチキ、なんである。 人のこころや、宇宙の成り立ちや、神についての全体的知見が必要なのは、宗教カルトたちであって。 普通のまっとうな人には、必要ない。 形而上学なんて、神についての全体的知見なんて、いらんのだ。 連中は安心立命仕切っていて迷わんし、「カルト共有組織員」であって。 そもそも享有する人ではない小羊なので、行く末に迷うばかりの哲学とは無縁となる。 形而上学は、もっぱらこの<宗教カルト>たちの、安心立命立てるためのもの。 カルト教義だと断言していっていい。 絶対に哲学ではないのである。 教義から見て現実はどうでもいい。 彼らの「究極の問いへの集大成」、その「全体的、宗教カルト・オルガノン構想」というべきだろう。 同じオルガノンなんだが、哲学の目指すそれとは紙一重で、違うわけだ。 こっちは現実が大事。 「無知に帰する知の探究」、連中のは「神として立つ知恵探し」。 オルガノンは<享有者のもの>だから、彼らとは主人も違うのである。 自分個人という享有者ではなく、神。 形而上学の主人は必ず、見張っているカーネル、つまり唯一神となるのである。 唯一神信仰では、享有者のオルガノン的主人にはなれない。 もしなったら、メシアが出来上がっちまうからなのだ。 オルガノンは「人の命」だから。 だからこの唯一神への究極の問いは、カント先生によって<先験的誤謬>であることが判明している。 大昔に、確定済みなのだ。 未だにベストセラーの一つである純粋理性批判の一節に、ちゃんと公表済になってる。 だから、そこで哲学おわったああ、なんていう宗教家が多いかというと。 彼らは全員がカルト亡者なので、形而上学が誤謬に終わり破綻する事なんぞ、見ようともせんのである。 だから世間へ、この事実を伝えたのは哲学者のみだった。 だからだから、十分には伝わらんかった。 そもそも形而上学は、彼ら宗教家が、へんな形で修辞学の世界に持ち込んだものだ。 その「へんな」とは。 アリストテレスの知見を、過去に遡らせ。 師のプラトンの採り上げたイデアに理論付けて出来た、へんな理論ものだ。 つまり<新プラトン主義>という、宗教思想のもの。 哲学とは何の関係もない、宗教思想。 これを、ちゃんと哲学と区切れる人は、いなかったのである。 ドゥンス・スコトゥス先生なんかも、命の危険があって逃げ回ってたし。 デカルトもやったが、やはり誤解され、無視され、逆にイルミナティ組織に利用された。 カント先生ももちろん、フリーメイソン組織に採り込まれて六階建てされ。 ナチス組織員のハイデガー先生が出るまで、西洋は、宗教カルトたちだけの天国だったのだ。 ハイデガー先生は、カント書(カント ウント ダス プロブレン デア メタフィジーク)において、カントの場合、形而上学は未だ「問題」であったことをちゃんと示した。 この「問題」の意味の読み違えで、未熟なオイラ泥滑に堕ちた。 が、先生方自身が、きっちりわかっていなかったと思う。 特にユダヤ人の先生方には、次々と騙された。 コーヘンにもフッサールにもやられたので理由を尋ねるうち、彼らの現実主義に気が付いた。 彼らは「現実と言う唯一神の奴隷」なので、無知の知には永遠に出会えないのである。 哲学者の周辺に群がって、哲学者を見張っている。 まるで悪魔のように。 ニーチェも、ハイデガー先生も、彼らの包囲化にあった。 すでに自らの主著、ザイン ウント ツアイト(存在と時間)で明晰判明に確認していたことを、ハイデガー先生は「カントと形而上学の問題」で再度、確認したわけだ。 ナトルプのそそのかしには応じず、カント先生との対話の道を歩んだ。 その前に書かれた主著の目論見とは、また少し違う立場で、カント書は書かれたようだ。 「存在と時間」のときは、宗教的問いが未だ生きていた、と思う。 しかし主著の、時間から存在を騙る事々は、ことごとく破綻しているのである。 二十世紀最高の高峰は、そのフンダメンタル オン ト ロギー(基礎的存在論)の基礎からして、大崩れ海岸のように、救い難く崩れ倒しているのである。 形而上学は必ず先験的誤謬に陥る。 なので、共有論議が不可能であることを、先生は身をもってディアレクチークで示したのである。 これはしかし積極的キリスト教徒(ナチス)である先生にとって、即、哲学の終焉を意味した。 しかし先生はもともと、ライプニッツの形而上学を討取ってひん剥く前から、気が付いていた様子でもある。 素朴な思惟は、いつも残っていたのだ。 それ(形而上学)が、メシアを騙る悪魔たちの構想する、マシーナリー・テクニークだとまでは気が付いてなかったのかもしれないが。 これも技術論を書いて、ゲシュテルのヤバイ仕組みを露わにしてくれていってる。 先生が(共有的に)ナチスであることと、(享有)哲学の成果は<無関係>なんである。 本質的にハイデガー先生は享有の哲学者で、聖マルチン教会の堂守という立場だ。 宗教家にはなりかけたが、職人となっての哲学を選んだ。 積極的キリスト教徒部分は、習慣が張ったその泥沼に捕まっているにすぎない。 哲学を基礎から学べば、宗教は当然、その根拠を見失ってしまうのである。 そうなっても、信仰を失っても、無知の知は終わりようがないんだと、知るべきである。 ハイデガー先生は、永久氷雪神話を信奉するモノホンのナチスである。 つまり宗教家なのだが。 宗教家である前に、享有者である、哲学者なのであるからだ。 要は、どっちが基本にあるか、の問題だけ。 「神」の共有にあるのか、「無知」の享有知にあるのか。 同時にはムリ。 共有では客観や理解は立っても「あり」、が認識されてない。 それは優生学判断に負うしかない。 享有では、主観や無知は立つが、「無が」、つまり図式の認識がない。 (つまり、無は、図式の認識、なのだ・・・。) あぶくのように出て来たこの命題、オルガノンの重要命題です。 西洋に、この<無知の享有知>を思い起こさせたのはデカルトだった。 彼がいなかったら、哲学も科学も、魔術の中に滅びていただろう。 デカルトの形而上学も、その内容は破綻していることで有名である。 だからあの時代、どっと、哲学への参入者が出て来たのだ。 (科学技術) アリストテレスの時代は、未だそれは技術ではなく、単に科学であった。 学ぼうという態度が、優生学という宗教的イデオロギーからではなく、哲学の「無知だから」に起因してたからだ。 その後、すでに新プラトン派により、哲学は知識学に堕ちてしまってはいた。 哲学と科学は併存できない。 無知の享有知か、知識利用の共有知か、だからである。 科学の科分離思惟は、じつは哲学なんぞよりはるかに古いものである。 オッカムのやったメタバシス行為により、初めて、数学的知識を量のカテゴリー抜きで利用できるようになる。 これは哲学のない人たちに大歓迎され。 ライプニッツなどの「楽観論的形而上学」を生み。 神のデーターベース世界からしての二進法デジタルと化して、将来へと企画投機された。 「心理学」・「宇宙論」・「神学」、という形而上学構想は、科学をその上部構造として立てることにより、技術という、まったく未知の新分野を生んだのだ。 ヘラスの「テクネー」という言葉が、「心構え」という本来の意味を失い。 ここで初めて「マシーナリー・テクニーク」と変貌したのだ。 今日の技術、という言葉は、心構えではなくマシーナリー・テクニークである。 心は科学が切り殺した。 ローマ帝国の宗教家たちが、それを発動させる科学技術の、生みの親である。。 キリスト教徒の騎士階級ではなく、小領主階級のユダヤ教徒が、それをやった。 やがてキリスト教徒も科学の持つ「優位性」に気が付き、ともに「優生学を推し進める」ことになる。 特にプロテスタント興隆により、顕著となる。 何度も言うが、<科学技術は優生学で出来ている>。 知識のデーターベースへのアジェンダ化、学的論理のアジェンダ化が生じ。 形而上学は、その破綻が見えてるのに。 科分離科学的思惟は、宗教カルトと一体で、それを基礎に心理学・宇宙論・神学のオルガノン構想を将来的に完成させたのだ。 形而上学構想が基礎となり。 知識学体系のアジェンダとして、論理学が、そこに関与した。 論理学には、破綻はないからだ。 そのかわりに虚無がある。 ヴァーチャリターな享有者の現実もない。 その論理がオルガノンとなって構想され、数学的な、メタバシスな理論化を可能としたのだ。 (論理) アリストテレス先生は、ヘラスですでに論理学を認めていた。 だが、これは「オルガノンにおける数学的論理」だった。 命のある、「生きた人の身体」をもとにした「数学理論」であって、カテゴリーのそれこそ範疇で働くべきもの、と考えていたようだ。 優生学抜きの、純粋論理などでは未だなかったのである。 アリストテレス先生のは、優生学判断の「後の」もの。 無知の知が、人の享有存在の「あり」だったから、それ無視の先立ちは不可能であるのだ。 これを、優生学的諸判断前に持ち込んで、論理学を先に立て。 論理絶対主義とも言える立場を作り上げてしまったのがヘーゲルだ。 神の視点に、イルミナティの立場に立とうとしたのである。 彼は最初は哲学者だった。 だが、後には論理絶対主義に乗り換えて、これを無知の知より上位に置いた。 だからへーゲルは、もはや哲学者ではない。 彼はイルミナティのグランドマスターだったから、その組織は哲学界をも支配するはずとなる。 但し人である限り。 論理はオルガノン論理か神の論理か、その優生学的立ち位置(時空)がなければ存在しないので。 キリスト教などと同様、その立ち位置を「将来の学問に置く」しかなかったようだ。 実在のありかを、「将来という、わけのわからんものに置く」しかないのだ。 ここで虚無が忍び込んでいるのが、わかるだろうか? 神の論理が、この世という時空(憂慮と延長)を統べる、という考えになるんだろうか。 (浅学なもんで、オイラにゃ、ようわからん世界ではある) おいらはもちろん「論理は数学論理にすぎん」とする立場。 「カテゴリー制約の倫理規制は有効」、と思っているので、彼の立場とは全く違う。 ともあれヘーゲル的な論理学の立場だと、「純粋経験」や「客観の客観」が可能となる。 これに毒され、騙されたた人も多いようだ。 時空の制約にあるオイラたち人間と違った、オイラたちからしたら虚無の彼方にある、神の判断が、可能となるのだ。 つまり人が神を殺したり、(メシア)神を主張したり、英知の論理学神の下っ端で生きることも可能だ。 イルミナティの理念が出来上がる。 但し、すべて<時空があいまいになる>のだが。 虚無に堕ちることすら連中は厭わん。 つまりこれらをひっくるめて<虚無主義>というのである。 へーゲルが、「虚無」をこの世に引きずり出した。 虚無の享有世界を騙ろうとしたニーチェではない。 (テクノロジー) これは科学技術とは全くの別物である。 心構えに論理的虚無主義を持ち込む、主に米で生まれた新大陸の魔術である。 テクネーはもともと、人の心を<構えさせるネガチブな図式の働き>。 それをロゴスつまり論理から引きずり出して、人造企画物にする。 極端な言い方するならポエムにする。 それが目的の魔法なのである。 科学技術の本質はハイデガー先生が見出したとおり、マシーナリーテクニーク(機械技術)の発動であって、狙いの企画モノを再現するのが目的。 ポエトリイにする企画だというこれもハイデガー先生の見立てだ。 ゲシュテルという独り立ちする怪物を、そのオートメーション企画で、欧米は実現してしまった。 あくまで、切り取った科分離ものの再現企画。 つまり、人造オルガン製造のための手段。 生体を相手にしたとて、フランケンシュタイン博士が出来上がるだけなんだが。 テクノロジーは、じつはぜんぜん別の狙いがあって、 その本質は<出来>、にある。 論理を使って、心構えのモノを出ー来させる。 テクネーを再現技術だと考えていたんでは、このネガチブな図式は見えてこない。 心理学をやって、ユダヤ人たちは気が付いたのだ。 人の心が構えて創り出す構想、そのネガチブな働きを、表象ではなくファンタシアに論理化すれば。 緻密な設計図がなくても、モノが出来ると。 実践者は、西洋、特に米国の多くの発明家である。 ポシティブに出来る、ことが先だし、狙いなので、ネガチブな図式は一切見えてないのである。 論理を時空なしに扱うので、虚無的時空世界なのだが、共有しか気にしないのでへんな時空であることにも気が付かん人たちばかり。 一部の反省できる人々が倫理観からカテゴリー適用の異議を唱えても。 メタバースの英知に酔った反省の出来ない人ばかり。 かくして世界は滅びかかっているわけだ。 フランス人の共有倫理観なんて明らかに異常。 倫理は享有への自己反省による牢獄であって、エチケット無関係なんだが。 テクネー・ロジックの、この論理が、人の心構えを表象して、形容や力関係の知的瞳着な優生学判定済みへと持ち込んでしまうのだ。 オイラずっと撞着ではなく瞳着と言い続けて来た。 知恵の本質であり、純粋悟性概念のその純粋悟性部分の仕組みだ。 それは構想ということ。 ロジックが虚無主義を仕立てて優生学判断を虚無へと追放し、知的な瞳着へと表象させてしまうのだ。 次回はここらあたりから攻めたい。