城砦に閉じこもるんではなく、世界中と通商活動を行い。
領域に暮らす諸民族が自ら兵士を出し、市民が兵士となって戦う軍事国家。
これがハッチの初期王国である。
領域を接する東のアッシリア王国は、まったく違っていた。
彼らは(人の)皮剥ぎ師タンナー貴族が支配する単一民族国家。
しかも女も兵士も市民も奴隷。
逆らえば生きたままカワハギ。
ここは副王のもと、共和制度の政治形態だったようだ。
共和制の持ち回り議長制度など制度整備は実にしっかりできていて。
立憲民主主義国家は、こちらアッシリアのことだったと思う。
ただ、唯一神が、国の主人としていつから居座ったのか、ハッキリしない。
ずっと後期であったように描かれているが、怪しい。
バビロンとは明らかに関係が深くて、もともと同一種族であった可能性もあるが。
ハッチとカッシート人による簒奪で、王族の血が分かれたようだ。
精強なアッシリア兵士は、山岳地域の女奴隷に生ませた混血だと、わかっている。
兵士も女も、生まれついて死ぬまで、タンナーたちの奴隷だった。
アッシリアを特徴づけるものは、この奴隷制度と、そして貴族による民主主義である。 より西にあったハッチにも、南のエジプトやシュメール地域も同様で、戦勝奴隷はいても奴隷階層はないのである。
中期になると、ハッチでも全体主義が怪しくなり、各地域の有力都市のエゴが見えて来る。
代々のラバルナ王は、過去の権威にすがるばかりで。
諸都市のパンクシュでの連携も希薄になり、軍事活動もなくなってくる。
各都市はバラバラになり、各地に有力者貴族みたいな連中ができて。
相対的に、神殿部隊を持つ王権や軍隊も弱小化していくわけだ。
全体主義の弱みである。
北隣の、技術的に遅れた蛮族ガシュガシュ族たちの冒険的侵略にすらも、手をこまねいていた。
敵の居ない間に、城壁の外の収穫を採りこむことばかり考えている、なさけない王がいる。
この弱い王は、トウドウハリヤシュという。
彼の英断が、しかしハッチを突然に、大帝国にした。
東隣新興新種族からの策謀があって、それに反応しただけなのだし。
トウドウハリヤシュの最後も怪しいのだが。
シリヤ方面には、ミタンニという強力な国家ができていた。
ハニガルバットとか、マルヤンニ(マリアンヌ)といった、新手の軍事種族が跳梁していた。
アッシリアも彼らに一度、敗北しているほどである。
それで民主制を導入したという意見もある。
ほとんどの説が、このときアッシリアが一神教を選んだのだとしている。
しかし、おいらはその説を採らない。
敗北して強固なカルトになったのは確かだろうが、アッシリアの唯一神の起源はもっと古そうだ。
新手の侵略者たちのその影響を、エジプト第18王朝同様、ハッチもモロに受けていたのは間違いない。
侵入者は少数で征服専門の連中みたいだ。、
いきさつは不明だが、トウドウハリヤシュ王は、新興フルリ人の養子を迎えて、難局を乗り切る。
ミタンニ側に押し付けられた亡国の後妻と、その連れ子養子、であったようだが。
末席の人物ではあっても、後妻はミタンニの王女の一人であったのだろう。
やがて過酷な生い立ちを持つ、その異民族の子が、ハッチ王国を受け継ぐことになる。 ここでハッチの王権の血は途絶え、別の種族に変わったのである。
ハッチは異民族に乗っ取られた、のだろうか?
実の子もいたようだが、そっちはどうやら、交換でミタンニ方面へ人質として出されていたらしい。
フルリ人の王が立ったことで、フルリ・ミタンニ勢力からの侵略はなくなった。
それだけではなく。
異種族の間に身を置く危険を経験に置き換えて。
養子の子は、ガタガタの多民族小王国を受け継いだのだが。
それだけでなく、この「清泉からの男」が、滅びかかったハッチ王国を次々とまとめていくのだ。
やがてハッチを、当時の世界最強の強国に仕立て上げるのである。
大王シュッピルリウマは過酷で、果敢でもあった。
それとともに、異民族に対し、実に寛大でもあったのだ。
ハッチでは特に国内においても、身の回りは異種族だらけなのである。
特にパラ人やその彼方の、いわゆるヘラス人達に属する人々の子女中心に、人質としてハットウシャの王宮に招かれていた人士は多かった。
彼らはハッチの首都の学校で多くのことを学び。
いずれ帰国し、その出身地域の王となって返り咲く。
というのが、当時は一般的だったようだ。
これはミタンニ国やフルリ人のやりかた。
周辺の諸王国もまた、ハッチで暮らした知り合いなので、行き来も盛んになって国も富む。
その数多い種族の中に、アマシアも、タルイシャもあった。
後の時代に、ホメロイタイが叙事詩で歌った、アマゾネスとトロヤである。
シュッピルリウマの息子、ム(武)・ル(人)・シリ(将軍)・シュの時代になると。
末子相続した彼が幼なかったこともあって、反逆者も出、一時は帝国分裂の危機がおとづれた。
だが、この内省的で神経質な「どもり」の王のものとで、ハッチ帝国の範図は逆に一気に拡大する。
特に西方では、戦争に負けて大王が捕虜になっているのに、無事に帰国できただけでなく、のちに国土が拡大?という異変?も起こる。
ようわからん事態なのである。
おいらは王家が、製鉄の秘密を命乞いの取引に使ったのだと思っている。
やがてハッチは、小アジア全域から、シリア、パレスチナをもうかがう、大帝国となり。
ミタンニへも、パレスチナへも手を出すのだ。
海の国ウガリトも、このときハッチの範図に加わり。
アラシア(キプロス島)には大鉱山すらできていたようである。
ガシュガシュ族も蛮族ではなくなり、王妃を出して大帝国の経営に参画するのである。
おいらたちのご先祖の一つ、アラム人(阿羅武)が出て来るのも、この頃のこと。
「周りに遅れちゃなんねえ」。
アラムは種族名ハイ、あるいはハイーク族ともいう。
遠い北東の田舎の山岳地域にいたシュメール系の蛮族だ。
後には、ウラルトゥという大帝国の主となった連中。
それが、ハッチの王室に手紙を出したのである。
まあ、バビロン攻撃の前からの、通商関係で行き来もあった。
もともと知り合いなんだろうが。
そんな田舎もんが突然手紙をよこして。
「うちの子に、ハッチ王室からの、よめさんほしい」、と。
「文化指導もしてほしいんやが」と。
これがなんと、大帝国側から即座に聞き届けられたのである。
遠いハイハヤかアッジハヤのアラム人の首長のもとに、ハッチ大帝国から王族の嫁さんが来て。
両者は正式に姻戚となる。
それだけでなく、王室からの文化指導もちゃんと、あったらしい。
ハッチ大王もまた、派遣されたキックリという馬術専門員から、騎馬民族の馬術指導を受けたという話がちゃんと残っているのだ。
ムルシリの子、ムワタリシュがエジプトと大戦争やった時、これら遠方のアッジハヤもハイハヤも、ハッチ側の一員として参戦している。
アラム人の彼らは、マンダの騎兵隊とともに大戦争に参加し、大いに活躍した。
ずっと後の時代の、「メディア」と「ウラルトゥ」は、同じ仲間であったことが、この出来事で、わかるのである。