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カテゴリ:医療
このブログは未明にアップすると前日の日付になってしまう。今はすでに25日。今日は大淀病院で起きた、妊婦が脳内出血で亡くなった事例の民事裁判が開始される日だ。確かに亡くなった患者はお気の毒だし、ご遺族も無念であろうことは理解できる。だからといって、罪のない当事者、場合によっては感謝しなければならない当事者に当たることは容認できない。亡くなったのは、あくまで脳内出血という病気のせいであり、医師のせいではないのだ。 大淀病院の事例とは、こんな事例。(記事内容はあくまで遺族側の視点) 「異常見過ごし死亡」 遺族、大淀町と医師を提訴 1)すべての患者を助けられるわけではない。 2)後から考えても完璧な行動を常にとることは不可能。 上記に反対する人はいるだろうか。反対する人は、病院に行ってはいけない。あなたに必要なのは神であり、医師ではない。医師をやっていれば、患者が亡くなることは避けられない。あのとき「ああしていれば」、それとも「こうしていれば」と言う後悔は常にある。患者が亡くなれば、医師だって自分を責めているのだ。周りから見れば無理もないという状況でも、自分を責めているのだ。そうした意識が、ほんの少しずつでも医療を向上させる。 結果が悪かったからミスだったのに違いない。あのとき違う対応だったら助かったに違いない。どちらも言いがかりだ。結果から見て違う対応の方が良かったとしても、そのときの状況では、実際に行われた対応の方が確率的に良かったのなら、問責されるいわれはないのだ。まじめな医師に対する言いがかりは、一瞬で医療を崩壊させた。 この事例ではCTを撮る必要があったのかが争点になるのだろう。確率的には子癇である可能性が高く、子癇であれば安静が第一選択となる。CTを撮らなかったからと言ってミスとは言えない。結果的には脳内出血であったのだから、CTを撮れば診断は付いた。診断は付いても治療は別だ。結局は何処も引き受けてくれなかったのだから、助かった可能性はほとんど無い。後出しじゃんけんの結果論でも助かる可能性は低かったのだ。 結局は避けられない死だったのだが、それでも医療体制の不備は責められるべきだろう。その責任はもちろん行政にある。それなのに、遺族だけでなく、メディアがこぞって医師の個人的責任に矮小化しているのは何故なのか。 ミラーサイト お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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