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カテゴリ:医療
多忙のため、患者の観察がおろそかになることは確かにある。そのために亡くなったりすれば、責任を問いたくもなるだろう。でも、その患者にかかりきりになり、他の患者が亡くなれば、やはり責任を問うのではないか。濃厚な医療を望むのであれば、それが可能な体制を取らなければ無理だ。同時に多くの患者に対して濃厚な医療をするのが無理なことくらい、理解できるだろうと思うのだが、理解できない人が「有識者」の中にも多いことに驚かされる。 今回の記事は多忙な中で起こった事例を提示して議論した内容である。多忙が原因でミスがあったというわけではなく、多忙のために検査結果を全部は確認しなかったという事例である。確認しなかったことと死亡の因果関係は、実際にはないと思われる。報道からは詳細が分からないので、あくまで推測だが。 医療訴訟テーマに討論 医師、裁判官ら300人参加 さいたま 提示された事例の詳細が分からないので何とも言えないのだが、心エコーは入院当日に行ったとしよう。つまり、このときは胸痛はあるものの、それ程苦しがっては居なかったという想定だ。また、心エコーの報告も、右室がパンパンに腫れているといった肺動脈抵抗の急激な増大を疑う所見ではなかったものとしよう。そのような状況であれば、忙しければエコーのビデオを見るのは後でも良いであろう。報告者を信頼できるのであれば、自分で見る必要さえないかも知れない。激烈な症状を呈して死亡したのは翌日なのだから、おそらく、実際に、このときはたいした所見はなかったのであろう。 胸痛で入院してくれば、たいていは心筋梗塞や狭心症と言った冠動脈疾患を疑う。胸部大動脈瘤なども候補に挙がるかも知れない。胆石症などの消化器疾患だって否定は出来ない。当初はいろいろなことが考えられるのだから、肺塞栓症を疑えというのは無茶だ。「医療裁判は公平ではない。医師はいろんな可能性の中から治療法を探っていくしかない。原告は結果から犯人を探す」と言う意見はもっともだ。 呈示された症例で医師の責任を問えるとすれば、私は以下のような状況の時だけだと思う。 1)明らかに重症感があるのに診察もしないで放置した。 2)エコーの報告書が尋常ではない、明らかに異常な報告であった。 このような事実があるのであれば以下の発言は無意味になることをお断りした上で言いたい。結果が肺塞栓症であったから、肺塞栓症を疑うべきであったというのは結果論である。実務というものを知らない、道理というものを知らない人の戯言である。そのような戯言を言う人が医師の間にも120人中3人、弁護士の間には41人中の過半数が居るのだ。 このような3人の医師の中からトンデモ鑑定が飛び出し、法律家の間で市民権を得て、トンデモ判決につながるのだろう。医師の責任を認める人たちは、具体的にどうすれば良かったと思っているのだろうか。 ミラーサイトが変更になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.07.01 11:40:20
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