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バベルの図書館-或る物書きの狂恋夢

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テーマ:お勧めの本(7335)
カテゴリ:書評
見出し:即興のいのちの奥義を求めて地球を吹く、“ジャズ山伏”の旅路。

近藤等則著『いのちは即興だ』(地湧社)

 近藤等則氏に思いを馳せるとき、否応なく中学生時代の記憶に戻らざるを得ない。あの頃の私といえば、耳に飛び込んで来る音楽のどれもこれもが新鮮で、同時に、音楽の良し悪しではなく「好き嫌い」の基準を育んでいた最初の時期だったような気がする。文章を仕事とするきっかけになったR&Bに出会い傾倒したのもこの時期であるし、それと同じくらいの関心を持っていたのがジャズだった(結局、あの頃ジャズにのめり込めず、その反動でR&Bにどんどん傾いていったのではあったが)。音楽といえば、洋楽。そんな思い込みはあった。だからこそ、「日本人離れ」したセンスや実力を持つ日本人のミュージシャンには、過剰な贔屓でもって応援したものだった(「国際舞台で活躍する」というスマートな枕言葉で意味が通じる今の時代、「日本人離れ」などという言葉はもはや死語だ。しかし、それはたった20年前にはまだ生きていたし、おそらく、「日本人離れ」という言葉を真の意味で使用していたのは私たちが最後の世代だったに違いない)。近藤氏ももちろん、そんな「日本人離れ」したアーティストの一人であり、世界で通用するジャズ・トランペッターで、ブリリアントでワイルドな日野皓正氏の対極にあって、どこか垢抜けた、モダンというよりアーバンな感じ。少し前衛芸術のニヒルなインテリジェンスを持ちながら、それを簡単にうかがわせないような、確信犯的なポップ感があって、格好よかった。
 そんな、“垢抜けジャズ”のイメージのまま、いつしか縁遠くなっていた近藤氏が本を出した。表紙の写真の迫力にまず驚かされるのである。DCブランドのカチッとしたクールなスーツで身を固め、ポマードで光った80年代の都会的なヘアスタイルでトランペットを吹くあの甘いルックスからは程遠い、どこかの山伏のような風貌。そう、ルックスではなく風貌、なのだ。しかしそこには、すすんで荒行に臨んだ、不敵だが澄み渡った力のようなものも感じる。いったい、何が起こったんだ!?
 本書では、近藤氏が体現していたアーバンなイメージとその実情、やがて当時の近藤氏自身が感じた「気持ちよくないヴァイブ」からの建設的逃避が導いたその後の音楽的旅路も詳らかに語られる。本書は、近藤等則氏の、必然に導かれた変容の記録でもある。
 近藤氏が、それこそ商業主義的な音楽ビジネスの世界を早々に脱し、自らの、あるいは存在の彼方からの声に導かれて独自の音楽活動に没入し、その一部が『地球を吹く』という活動に結実していたことを、実は私は知らなかった。それほどまでに、私と近藤氏は縁遠くなっていたのだろう。しかし、こうしてまた出逢った。
 今回本書を読んで感じたのは、実は、私にも共著があるが、そこで考えていたことと、近藤氏が辿られた道のり、そして私よりははるかに先にあるだろうとは言え、感覚として向かっている方向には似通っているような気がした。それは、逆説的にいえば、立ち居地、基準としているポジションや、対象とのスタンスの取り方、というのが似通っている、ということなのかもしれない。
 感覚的な部分だけでなく、おそらくは論理的な部分でも一致していると思われる点が事実ある。それは、たとえば、本書でももちろん語られ、拙著でもテーマとなった、スピリチュアリティや「いのち」というものへの距離感である。先に結論を言えば、これらメタな世界に身をゆだねつつ、感覚のみに溺れてしまうことは理知的に避けようという心構えが先にある、という点である。
 スピリチュアリティに言及しながら、オカルティズムの罠を回避する。これは、実はスピリチュアリティや、いのちの即興性などという、メタな話を考える上では、相当に重要ではないかと私は考えている。特殊な体験は、スピリチュアルであっても、普遍には至らず、特別な体験、異体験で終わってしまう。エンタテイメントとしては結構だが、それが真意でない場合は、その誤解を軌道修正するのは楽ではない。だから、スピリチュアリティの海原に飛び込むには、さまざまな合理的・非合理的な要素をよく咀嚼したり、それらにぶつかりながら得た、自分なりの理解を携えておかねばならない。
 とはいえ、確かに霊的スピリチュアリティは特殊に傾くが、生物=生命由来のスピリチュアリティは、本来的には十分普遍になりうるのだということに改めて注目しておきたいし、本書を通じてさらに確信を深めたことを述べておきたい。そも、すべて人は生物だから、体験に根ざし、命に根ざし、生きることの中に顕れるスピリチュアリティは、すでに意識的・無意識的にかかわらず普遍なのだ。スピリチュアリティが、特殊でなく普通であること。いや、特殊の中に種を拾おうと無駄な努力をしなくとも、日々の生命の中に、この“普通のスピリチュアリティ”は宿っているのだ。普通とは、普遍を流通させるスタンスであり知恵に等しい。
 本書の中で、次第に「心地よいヴァイブ」との距離を詰めていく近藤氏は、時に壮大なる地球という(あるいは宇宙をも含めた)楽器の一パーツとなっているようだったり、あるいは、銀河のセッションに参加する人類代表のトランペッターであったり、はたまたあるいは本人が、全人的意味において楽器そのもの(人間の体が楽器であること。リードやマウスピースと同じ、響きあう媒体であることを改めて思い出させてくれる)であったり、あるいそのいずれでもなく、生命そのものが音楽を奏でているのであって、人も地球も宇宙すらも、マクロなオーケストレーションの一部に過ぎないのだと諭すようであったり…。
 はたして、“いのちの即興性”とは何であろう。私は、拙著の中でそれを「しなやかさ」と捉えた。これを、柔軟性と呼ぶ人もあろうし、行き当たりばったりと解する人もあるだろう。脱マニュアルの生き方、という表現が、それ自体マニュアル化している。
 いつか聞いた、仏師の話。木片に耳を傾け、その声に従って彫刻刀を握ると、現れるべくして現れる仏像の姿。仏師の仕事とは、仏の声を聞いて木屑を払うだけに過ぎないのだと。仏は、すでにしてそこにおられるのだと。
 根源的なウ゛ァイブに身を置くと否応なく、自然とそう生きてしまう生き方。生きるべくして生きざるを得ない生き方。それこそ“即興のいのち”。木片に隠れた仏と同じく、神代から存在して来た、いのちの本来のあり方なのだろうか。そうして、様々な音の探り合いの中で、「今欲しかったの、まさにその音!!」とぴしゃりと出会う、必然的なパズルのピースとの邂逅を連続してゆくことこそ、いのちが即興であることの面白さ、いのちの無限性を旅する道標を見出すことなのかも知れない。(了)


いのちは即興だ

「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。





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Last updated  2009/03/16 12:54:18 AM
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