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カテゴリ:音楽
マイケル・ジャクソンの死は、言い古された(そう、もう“言い古された”なのだが)表現だが、一つの時代の終焉であった。一つの時代を切り拓き、一つの時代を体現し、一つの時代の幕を引いた。キング・オブ・ポップ。その死すら、消費されてしまうのか、と思うとなんとも切ない。
が、この場でマイケル・ジャクソンの死を改めて深く書こうというつもりはない。私にとって驚きだったのは、ここまで高度に発達した情報化社会だと、これほどに衝撃的な事件であっても、逆に事実に対する鮮度への感覚が鈍感になってしまう、ということだった。連日、あらゆるメディアでこの件についてたくさんの情報が流れている。どこかで耳にしたり、目にしたりしても、あまり深く知ろうと思えない自分がいた。後で調べればいつでも聞ける、見られる。この「後でもイイ」という感覚を、マイケル・ジャクソンの死を以ってしても凌駕することが出来なかった日常に、遅鈍な後退を覚え、嫌な気がした。 私にとってマイケル・ジャクソンは、いつも「スター」だった。好きだった音楽のジャンルの特性上、たとえばスティーヴィー・Bや、MCハマーがちょっと恥ずかしいと感じる時期があっても、マイケル・ジャクソンに気恥ずかしさを覚えたことはない。その危うい分岐点に、名作『Dangerous』がリリースされたから、というのもあるにせよ、自らの出自をフィールドとするのではなく、それすらも逆にポップ・フィールドで消化してしまう“細腕の力技”は、まさにモンスター級。 そういえば、何度かコンサートにも行った。いい思い出だ。なにより、マイケル・ジャクソンの場合、ライブ特有の興奮がどうこう…というのではなく、むしろ“映像ベースでのマイケル・ジャクソン”の再現性の高さに拍手喝采した。ビデオで観たマイケル・ジャクソンと、生で観るマイケル・ジャクソンの近似性の高いことに、ある意味でファン心理の期待を裏切らない、忠実さへの徹底に、胸躍った。画面上のマジックが、現実だったことのスゴさに興奮したのである。 今も彼の死について、網羅しきれない情報が世界を飛び交っている。その情報だけがおそらく、およそマイケル・ジャクソンについて、事実との乖離が一番大きいのではないだろうか、などと思ってたりしている。(了) ■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009/06/30 12:17:38 PM
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