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カテゴリ:旅行/散歩(国内)
さて。果たしてこの旅は何だったのでしょう。もともと、母の家系はすごく霊感が強く、それは私に遺伝した(自分が感じると言うよりも、よりそうした力の強い方から指摘される側)ようで、昔から不思議な話には事欠かないのですが、沖縄に滞在していた時も、宮古島では、男性には滅多に使われることがないという「生まれ高い人」(霊的な能力の強い人)と呼ばれたりもしました。
私は常々、スピリチュアリティというのは人間にとって絶対不可欠な要素であると考えていますが、それはある種、神代から受け継がれて来た人間自身の知恵や哲学に類するもの、先人を敬い愛する心や、生き方の美しさに関わるもので、楽しく生きる、成功するなどといった利益につながる道具でもなければ、オカルティズムでもない、と考えて来ました。 所謂場の力の強いスポットに、惹かれ、召し出されるようにして趣いたこの旅。不思議なことが起こったかと言えば、そういうことを考えること自体がいささか不謹慎なことなのかもしれませんが、実は、内宮に足を踏み入れるまでは、ミスティな空間で、ただただ心地よく、心が鎮まり、包まれるような感覚に、やはり心身が疲れていたのだな、来てよかったな、という思いを強めるに止まっていました。事実それで十分だったのです。 ところが、内宮に至り、やがて正宮に近づくと、なにか、重力が働かないような感覚に包まれ、それこそ、地面のないところに立たされているような状態に陥ったのですが、しばらくするとその状態に慣れて来て、逆にその浮揚感というか、無重力を泳いでいるような感覚の方が心地よく正常のような感じになりました。一日中玉砂利を踏みしめたその足が、アスファルトを異様と察知するのと同じように、今度は体でなく、心が正常と異常を感知し、選り分けたのかも知れません。 そのことが、どうだ、というのはまた別の話。ただ、あの感覚は忘れられない体験となりました。しかし何より、この旅で素晴らしかったことは、一日にこれだけ、頭を垂れる、ということの意味を味わったことかもしれません。日常、俗世の垢が身に付けば付く程に、素直に、謙虚に頭を下げるということから縁遠くなって行くものです。それが、傲慢というものです。 しかし、こうして、神社で、鳥居で、何度も何度も頭を垂れ、礼をしていると、忘れてはならない謙虚さ、謙譲の美しさというものが、身に沁みてくるのです。そういうことに気づかされてまた、家族や友人、知人の協力、応援のもとに日々があることを思い出し、不足しがちだった心の準備を補って、心から感謝をすることができたのです。なるほど、伊勢神宮を巡るということは、心身の浄化から始まって、各所で頭を垂れさせ、高慢な心を素直に変えて、内宮に導く。そんな、あたかも神々のプログラム、心のリセット装置のようにして神聖なる社は配されているのではないか、とまで考えてしまいました。 短い時間ながら濃密な刻を過ごしたこの経験は、まさに糧としてこれからの生き方に清涼な風を送ってくれるのではないでしょうか。(了) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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