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カテゴリ:バベルの宴(内輪ネタ)
66回目の長崎原爆記念日。原発問題はさておき、もっと私的な点で、毎年この日が来ると気持ちが引き締まります。
祖母の家族を一瞬で焼き去った原爆。 私のルーツを焼き去った原爆。 訳もなく奪われたものほど、激しく取り戻したくなる妄執。生得的な喪失感、遺伝子の孤独。 しかし、私がここにいる以上、命脈は保たれた。 人類は進化しない。まだ二足歩行を始めたばかりだ。 成熟を待つのは途方もない夢だが、命一杯生きて、 今はただ、 分かつための「平和」ではなく、和すための「平和」を希求する一握りの藁でありたい。 戦争の記憶を永代に残す、というのは、ほとんど悲劇的に困難なことです。しかし、体験は残せなくても、追体験は語り継いでいくことができます。それが公的な視点であれ、私的な視点であれ。 追体験は体験を越えませんが、憎しみや恨みではなく、赦すために、赦しあうために、暴力に対して異議申し立てする気概は捨てたくないと思います。それがたとえ、表層的な博愛主義や、グローバリズムから後ろ指を指され?ることに繋がっても。 なぜならそれは、私の、人類の、共通の使命で?あり、種族の愚かさの償いであり、責任であり、同時に人類の美しい尊厳だと思うのです。(了) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/08/22 06:08:18 PM
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