"NEONTHANATOS" by 丸岡和吾展「ネオンタナトス」@CANNABIS。スゴかった…。前回イベントにお誘いいただいた際には、直前まで行けるはずが、残念ながら突発的な避けがたい予定が入り、敢えなく作品拝見できず。
今回は、ついに作品との対面がかないました。髑髏作家、丸岡和吾。いい響きです。髑髏の茶碗でお茶など酔狂な…と言われそうですけれど、私はこのユニークな作品、生理的に惹き付けてやまない作品と向き合う前に、自分と作品との接点についてのコンセプトを持って行くか、固定観念を持たずに行くか、ちょっと悩んでいたんですね。
見たら絶対素晴らしいだろう、それは作風、作品コンセプト、スキル、そのすべてにおいて、超絶モノだろうということは感覚していました。けれど、そのスゴさに圧倒されるだけでは惜しい、そんな縁(えにし)を感じたのです。
というのも、2011年、私自身「死との舞踏」というテーマを掲げていましたが、こうした年ごとのテーマは、その一年で消化されるものではなく、むしろ年々タグのように私自身の生命のテーマにぶら下がって行くものなのです。
それで、いざ作品と対面、という直前に前者を選びました。これまで、近代というのは「生」から「死」を考える時代で、それが長く続いてきたわけですが、心の問題、信仰、アイデンティティ、精神性、医療や科学技術の発展…。今や、時代は、「死」から「生の持つ意味」を考える時代になった、と私は確信しているのです。それだけ、命の意味が危機的になった、ということではないでしょうか。
だからこそ、死を想って今ある生の意味を考えるという自分自身のライフワークをあえて頭に入れて、作品と相対したのです。
ですから、これはあくまで私と作家さんの作品との関係についてだけの話ですが、生を見つめる器=人間(私自身)、という意味合いから、この髑髏作品、髑髏茶碗と文脈を構築したのです。
前回は、白ベースの作品が多かったとギャラリーでうかがいましたが、季節柄、桜をイメージした色合いの作品が並び、個人的には白よりも少し赤みがかった色味の方が求めていたイメージに合うこともあり、また「桜とされこうべ」、という取り合わせもまた奇想の妙として最高ではないかと感じました。
ひとくちに髑髏といっても、必ずしもネクロフィリア的なセンスとは限らず、洋の東西を問わず、常に生との表裏一体としてモチーフにされてきました。
まさに、メメント・モリな丸岡さんの作品、今後も注目したいです。(了)