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カテゴリ:アート
『生誕100年 ジャクソン・ポロック展』@東京国立近代美術館、行ってきました。滑り込みセーフ(汗)。
ジャクソン・ポロック。中学生の時に、モダンアートにハマって、シコシコ貯金しては買っていたのが、ニューヨークを中心とする、当時のモダンアートのメッカに関する写真集や画集、事典など。その中で、ポロックを知り、やがて念願かなって同じ頃、ニューヨークに一ヶ月ほど滞在した時に、作品と対面を果たしたのではないかと記憶しています。 その後、あまり深入りすることなく今日まで来てしまっていましたが、何年か前に映画化された際に、同じように、10代の頃の甘い憧れのような記憶がよみがえった程度だったのです。 しかし、とにかく生誕100年ということで、これだけの規模のポロック関連の企画展はなかなか観れないだろうという気持ちに後押しされて、足を運んだ次第です。 しかし、やっぱりポロック。付かず離れずも、気になってきたワケだ。壮絶に面白い。ボキャブラリーが足りないようですが、私にはそれしか表現のしようがないのです。 アクション・ペインティングばかりに目を奪われてはいけないと知りつつ、作画風景を撮ったフィルムなど観ていると、彼にしか見えない「何か」、それは芸術の深奥なのか、名声なのかお金なのか、あるいは分解しきれないほどのアルコールなのか女性なのか、何にせよ、その「何か」は見えていて、無意識的でいて確信犯的な衝動に揺り動かされて「無心」ではいたのだろうな、と思うのです。その「無心」の境地は、苦しさも痛みもひっくるめて、きっと最高に気持ちのいい境地だったろうな、と思うのです。 とまれ、彼がネイティヴ・アメリカンのシャーマニズムに少なからず影響を受けていたことは、14歳の私は知らなかったし、その後も知らぬままでしたが、やがて来るカウンター・カルチャーや、カスタネダ的な陶酔、否定されながら皮肉にも結局事実的にはアメリカ社会を制覇した(!)ティモシー・ リアリー主義みたいな、幻術的ヒッピー精神からアメリカニズムに異議申し立てをしていく萌芽のさらなる先駆的な感性を、すでにポロックは発揮していたのかな、なんて思ったり。 ポロックの作風の変遷は、そのまま当時のアメリカのアートシーンの模索の道と軌を一にしている、というのもあながち大げさではないなと痛感しました。 興味深かったのは、ポロックは、アルコールに耽溺し始めた頃から精神科医に診てもらうようになる(先のシャーマニズム的な感性と、やがてユング派の精神科医の診察を受けるようになる流れなどにも必然のようなものを感じたり…)訳ですが、その頃の、何か検査か自由連想の一貫だったのでしょうか、医師がポロック描かせたドローイングが数点展示されていたのですが、医師がどう診たか知れないけれど、分析的な視点に立つと、少なくともこの時点のポロックには、「医師のいう異常性」というのは見られないような気がしてならないのです。 もちろん、「一種のアイディア帖のようなものだろう」ときちんと考証されても、どこかにはポロックの心理的な内奥が投影されていてもおかしくないのですが、まさに当時吸収していたシャーマニズムの影響は見られるにしても、それらはやはり純然たるアイディア帖であることに間違いなく、特殊な傾向は見いだせないのです。 とすれば、彼が作風の転換期を迎えようとしていた頃の作品も「アルコール中毒ですら」も、「ポロックの常軌」に相違ないということが判るのです。いつも、正常と異常の境界は、曖昧で人為的に規定された尺度でしかないことを思い出します。 作品を見るに如くはなく、それ以外の情報は補足なのかもしれません。けれど今は、改めて、賛否両論あって敬遠していた映画『ポロック 2人だけのアトリエ』、あえて観ようかな、と思っています。(了) ▲会場には、ポロックのアトリエが再現されています。その床はもちろん…こんな感じでした(w)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012/05/06 01:21:37 AM
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