フジコ・ヘミング
フジコ・ヘミング コンサート 「トイチ君の冒険」の今(い)ままでの物語(ものがたり)はここで読(よ)めるよ!下(した)の絵え)を押(お)してネ!フジコヘミング昨日東京文化会館大ホールで開かれたフジコヘミングさんのコンサートに出かけてきました もちろん姫とね!!当日は残念にも雨・・・にも関わらず会場は当然満員おまけに会場周辺は国立博物館もあり 例の「阿修羅展」もあり大混雑でした。オイラも姫も「阿修羅展」も観たかったのですがコンサートの終演が17:00時では無理とおもい断念ですまぁ・・「阿修羅展」のほうは6月まで公開してますのでまたの機会にと思っていますコンサートは定刻の10分遅れで開演5Fのバルコニー席もいっぱいです。オイラたちの席は1Fの16列目の真中あたり。音楽を聴くにはナイスポジションです。フジコヘミングさんがいつものように、けだるい表情とあんまりやる気のない雰囲気でピアノに手を添えて軽く会釈後いよいよ演奏開始ですドビュッシーの「月の光」から始まりました。オイラの好きな曲ですそして・・同じくドビュッシーの「雨の庭」おもてなしの雰囲気をかもしだすナイス選曲です。やがてベートーベンの「月光」が第一楽章から第三楽章まで演奏されていきますベートーヴェン自身はこのソナタを「幻想風ソナタ」と呼んでいましたが、詩人のルードウィッヒ・レルシュターブが、第1章の静謐な美しさを「スイスのルツェルン湖の月光の波間に揺れる小舟」とたとえたことで「月光」と一般化するようになりました。難易度も第三楽章以外は比較的容易な曲です。う~ん・・ベートーベンのこの曲はこのピアノとこの会場ではいまいちかぁ?なんていっちょうまえのことを思っていたオイラです でも出来はよかった・・正直言うと・・フジコさんの「月光」と言うかベートーベンはあんまり聴きたくはありませんオイラ的にはルービンシュタインの方がいいと思います。会場は静まりかえり咳音ひとつ聞こえません。姫はとみれば・・音楽に合わせるように首を・・・うんっ?寝てます!!あれっ?確か・・「月光」が開始されたころは起きていたのに・・よほど 音楽が心地よくて気に入ったのでしょうね・・時折「ビクン」としてましたけど・・起きませんでしたそののちショパンのノックターンやショパンが4曲程奏じられ休憩の時間に突入ですお姫さまですか?はい、起きてましたよ最後のショパンの「革命」あたりでで、 「素敵だネ~」ですと・・「寝てたよ・・」「そう、気持ちよくて・・思わず寝たくなるほど気持ちよくて・・」「ふ~ん。。。」相変わらずです。お姫様は。今度、寝た時には 「涎がでてたよ~」って言ってやろ~っと。しばしの休憩が終わったのちフジコさんの真骨頂の演奏に突入ですまずバッハの作品が2曲演奏され、いよいよリストの作品の演奏に突入です。「ためいき」アルペッジョがショパンの雰囲気ですがリストの方が華やかでダイナミックです。流れるようにコロコロと演奏されます。そして「春の宵」日本画家の伊東深水作「春の宵」を思い出したオイラは不謹慎かも・・ハンガニーニの第6番あたりからはフジコさんが踊るようにそして音楽に丸め込まれていくように躍動しつつも一体化して見えてきますそして、おおとりは当然「ラ・カンパネラ」 いや~いい!!最高ですよ!完成された円熟味が感じられます演奏後彼女は見栄を切るように鍵盤から解き放たれたように左手を大きく上げました。拍手の嵐です。そしてこちらを向きます。オイラ達の席は1Fの16番。それでも妖艶に輝く彼女の瞳の輝きを感じられた気がします「魅入られる」とは・・こう言うことなのでしょうか?リストに魅入られた彼女、そしてそれに魅入られたオイラ・・正直なところ10年前の演奏はダイナミックな迫力と圧倒的な技術に押されてました。が、今回はなんと言えばいいのでしょう・・この作品に彼女の人生をみた思いがしました。ピアノを演奏するには想像を絶する体力が必要ですそろそろ80を迎える女性にはとっても大変なことですはっきり言えば10年前より衰えを感じないこともありませんが、それを補って余りあるものが今の彼女の演奏にはありましたとくに最後の部分のドラスチックに盛り上がる部分は最高でしたいや~・・・よかったです。アンコールに答えてショパンの小作とベートーベンのテンペストを演奏されましたがオイラの頭の中にはいつまでも「ラ・カンパネラ」が静かにしかし力強く聞こえていました^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^フジコ・ヘミングさんの事を御存じない方のために・・(引用)イングリット・フジ子・ヘミング(Ingrid Fujiko Hemming)日本名 大月フジコは日本人ピアニスト、大月投網子とロシア系スウェーデン人建築家、ジョスタ・ジョルジ・ヘミングを両親に1932年12月ベルリンで生まれる。5才の時、両親と帰国。父は開戦の気配の濃い日本から離れ、以来母の手ひとつで東京に育ち、6才から母の手ほどきでピアノを始める。青山学院高等部在学中の17才でコンサート・デビューを果たす。父が日本を去ったあともスウェーデン国籍のままだったが、スウェーデンに住んだことがないため18才でスウェーデン国籍を失う。(18歳までに一度も入国した経験がなかったため国籍を抹消された事に5才の時、両親と帰国。父は開戦の気配の濃い日本から離れ、以来母の手ひとつで東京に育ち、6才から母の手ほどきでピアノを始める。青山学院高等部在学中の17才でコンサート・デビューを果たす。父が日本を去ったあともスウェーデン国籍のままだったが、スウェーデンに住んだことがないため18才でスウェーデン国籍を失う。(18歳までに一度も入国した経験がなかったため国籍を抹消された事によるもの。当時日本は父系血統主義を採っており、日本国籍も取れなかった。後にスウェーデンに就籍する)その後、30歳の時に赤十字に認定された難民として国立ベルリン音楽大学へ留学を果たした。このころは大変貧しく苦しい状況が長らく続いた。人間関係においても、日本でも外国でもどこに居ても外国人として疎外された。フジ子は「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたと話している。ヨーロッパ滞在時リサイタル直前に既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが風邪が原因で両耳が全く聞こえなくなり、その後の演奏会はすべてキャンセルを余儀なくされ、次第に音楽界から忘れ去られていった。現在は左耳の聴力のみが40%ほどが回復している。1995年、母親の死去を機に30年余りの外国生活に終止符を打ち、帰国。「もう人前で弾くことはない」と決意していたが、平凡なピアノ教師の生活に甘んじることができずに「人生をもう一度取り戻したい」という意欲がわく。1998年4月、再起の舞台に母校の芸大の旧ホール(上野奏楽堂)を選んだ。1999年2月11日にはフジ子のピアニストとしての軌跡を描いたNHKのドキュメント番組、ETV特集「フジ子~あるピアニストの軌跡~」が放映され大反響を巻き起こした。1999年10月15日、東京オペラシティで再起をかけた本格的リサイタルを行い見事大成功をおさめた。これを機にコンサート活動を始めるが、どの公演もチケットは発売と同時に完売。