風が吹いている
蔵王から中尊寺そして花巻へ9月の17日18日19日の3連休を利用して 久しぶりに東北岩手を旅してきました。朝 4時に起きて そのまま食事もとらず 圏央道へと そして 東北道へと 車を走らせました。高速道路が つながって 最近よく 北を 目指しています。同居人から 走行車線を走るように きつく言われておりましたので 静かな 走りです。途中 SAに 立ち寄って 軽く 食事をとり、 これから向かう 第一目的地 蔵王までの地図を眺めておりました。カーナビからは 到着予定時刻を 確かめながら 中島みゆきの「時代」が流れています。トンネルのない 東北道からは 山間部の 緑 豊かな山影に 薄い霧雲を羽織った 景色を眺めながら、 村田ICから 山形自動車道の 平地では 稲刈りの終わっていない 黄金色の 田んぼが はるか 山のふもとまで 続いています。 子供のころ 走り回った 田んぼの あぜ道。 水路には カエルのたまごが ゆらゆら流れに任せて所々で葉にしがみついている。そんな ふるさとの 記憶を 呼び覚ます 東北道から山形自動車道 なのです。予定時刻より 早く着いたので 車を止めて 蔵王の街を 散策して 目的地のホテルを確認してから 蔵王ロープウェイに向かいました。蔵王山麓駅で 蔵王地蔵山頂駅までの往復チケットをカードで購入して、階段を上って いざ乗り込もうとしたら 駅のほうから 大声で 私たちを 呼ぶのです。「金額のけたを 間違えました」と なんと 5,400円のところを 54円と入力していたのです。領収書は きちんと 確認することですね。(笑い)樹氷高原駅 標高:1,331m 蔵王温泉スキー場が広がっている。樹氷の中をスキーで風を切るのはどんなに素敵なことかを思いながら 子供時代に仁山スキー場で一日中スキーに明け暮れていた日を思い出す。地蔵山頂駅 標高:1,661m樹氷高原駅を乗り換えて 山頂へとここまで登ると さすがに 寒風が 頬をなでる。トレッキングを楽しむ同年代のご夫婦 若い二人女性 一人黙々と着替えをする男性が 重装備をして さらに 上を目指して熊野岳・刈田岳への登山口へと昇って行った。周りは 少しずつ色づいていた。蔵王地蔵尊高さ2.34mの坐像で、安永乙未年(1775年)に造立されたとある。「災難よけ地蔵」と呼ばれている。 刈田岳には車で 向かった。 山道には ガスが立ち込め 視界を遮られた。山頂手前で 車を止めて リフトに乗り換えました。山頂は霧で お釜は観られないとの 案内板に 記されていたが。普段からの 行いがよいので刈田岳頂上の「蔵王連峰」の名称の由来となった「刈田嶺神社」が見えてきた。霧の 晴れ間から しっかり「御釜」を見ることが出来ました。火口の底に水が溜まってできた火口湖が「御釜」一日に何度も色を変えることから五色沼とも呼ばれます。外輪山がぐるりと取り囲む形や火山活動で湖水が沸騰することがあるのだとか。冷えた体を 温めるため ホテルについてから すぐに 温泉に入りました。蔵王温泉は、高湯温泉、最上高湯とも呼ばれ、とても熱いのです。適当に水を入れて薄めてから 入ります。強い酸性の硫黄泉の白濁湯は 肌を滑らかにする「美人づくりの湯」とかで 私の老皮の肌もなんとなく スベスベに なったかなー。(笑い)2日目藤原清衡に始まる奥州藤原氏の「平泉」に向かいました。2011年、平泉は世界遺産に認定されています。奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となっていました。ところで なぜ 藤原氏は奥州に来たのでしょうか。そのためには どうしても 清衡の父 藤原経清を 語らねばなりません。藤原経清は、藤原氏の中でも 従五位に昇叙し散位であったようなのです。朝廷の支配下にあった 奥州に 経清は在庁官人として陸奥国府多賀城に赴任してきたのです。経清は 赴任していた 蝦夷の豪族 安倍氏の娘と結婚しました。生まれた子が 清衡なのです。しかし 安倍氏が 朝廷に 反旗を翻します。悩んだ末に 経清は 義父である 安倍氏とともに 朝廷と 戦うこととなりました。朝廷は 同じ蝦夷の豪族 清原氏を味方につけ 安倍氏を滅ぼします。経清は のこぎりのような刃物で 首を 落とされるのです。経清の妻は 清原氏の長男 清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となったのです。 7歳でした。養父 清原武貞が 亡くなったとき 跡目争いが 起こり 異父弟家衡を討ち取りました。その後 実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となったのでした。毛越寺(もうつうじ)慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。大泉が池を中心とする浄土庭園周辺には、州浜、荒磯風の水分け、浪返しにあたる立石、橋のたもとをかざる橋引石、枯山水風の築山、遺水などの石組を配しています。平安時代には曲水の宴(ごくすいのえん)が行われていた。庭園の遣水(やりみず)に盃を浮かべ、男性は衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)、女性は袿(うちぎ)、十二単等という装束をまとい、水辺に座り、流れに合わせて和歌を詠む、平安時代の優雅な遊びです。毛越寺を後にして 車を 走らせること20分。本日の目的地 中尊寺に向かいます。多くの団体客で 駐車場は 満車でしたが 何とか もぐりこむことが出来ました。中尊寺 参道入り口月見坂と呼ばれる 参道を上ります。これが 結構 歩くのです。藤原清衡によって上棟されました。中尊寺金色堂極楽浄土を 具体的に 表現しようとしたのが 金色堂です。金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められています。中央壇、右壇、左壇共に黄金の阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)を中心に黄金色を放っていました。(撮影禁止)藤原秀衡は 源頼朝によって 朝敵となっていた義経を 匿っておりましたが 秀衡の死後 泰衡は 父秀衡の「頼朝を討て」と遺言したのを無視して 義経を 自害させ 義経の首を 頼朝に差し出すのです。 しかし 源頼朝は 藤原氏を あくまで 朝敵として 自ら大軍を率いて奥州に向かいます。1189年8月22日 平泉は陥落するのです。源頼朝は 地方都市を中心とした 政権を 確立していきます。まさしく 奥州藤原氏の パクリなのですね。奥州藤原氏が滅亡してから 約800年 東京一極集中の現代 平泉を歩いていると 地方の時代を 考える必要があるのではないかと思うのです。大地震が 近いといわれているのですから・・・・・・ね。 平泉を 後にして 本日の宿泊地 花巻市に 向かいました。花巻温泉に 行く前に 生誕120年の 宮沢賢治に 合わなければなりませんね。20年以上前に 子供たちを連れて 来たのですが 記念館の 展示室は まったく別のものとなっていました。32年ぶりに展示をリニューアルしたのだとか。壁一面に 賢治の直筆の原稿が 展示され スクリーン映像や関係資料を5分野に分類しています。あまりにも 近代化してしまい 私には なつかしさが 湧いてきません。ちょっと 寂しい気がします。 よだかの星も 天高く 飛び立っていきます。突然風が吹いてきた。 周りの木々がざわめき 小鳥が一斉に舞い上がる。どう どどうど どう どう どどうどどう ガラスのマントを着た 少年が まさに 飛び立とうとしています・・・・・・そんな 風景が よく似合う 花巻でした。花巻温泉は あまりにも 大きすぎて 3館連なっております。食堂は 体育館みたいなので 最上階の レストランにて ゆっくり食事をいただきました。地酒を 桝に置いた カップいっぱいに注ぎ ほとんど町明かりのない夜景を見ながら味わいました。でわ おやすみなさい。♫「風が吹いている♫」安西節雄