「駅」と聞くと何か哀愁のようなものを感じる。
<終着駅・・・確か映画の題名にもなったな>
都会の大きな駅もいいが,田舎の無人の小さな駅もいい。とにかく駅にはたくさんのドラマがある。ドラマが生まれる。
私はジョサイア・コンドル設計による東京駅が好きだ。外観の見事さと煉瓦づくりの組み合わせが良い。重量感と文明開化の雰囲気がとても良い感じに思える。
<ああ,ここが東京駅なんだ>
東京に住んでいてもいいな,と感じる。郷土愛などというものとは違う。建築美に引かれるのだ。
こうした観点でミラノを訪れると,これまた見事な駅を発見する。そう,ミラノ中央駅だ。
まずは正面から見てみよう。
<これって,駅なの?>
というのが最初の印象だ。誰かの宮殿であったような造りだ。駅は乗客の乗り降りさえできれば事足りる。なのにあちこちに彫刻あり,柱ありと実にギリシャ,ローマ時代の古代建築を見ているような錯覚にとらわれる。日本人なら絶対に考えない,いわば「無駄」が実に見事なのだ。これぞミラノ,といった感じである。駅そのものが歴史に長く残りそうな予感を持たせるのだ。不勉強で知らないが,この駅舎は最初から駅として建てられたものなのか,それともかつては別の用途で使われていた建物を駅として再利用したのか。こんな疑問が私にはわいてきた。
さて,中に入ってみると,日本の雑誌にもしばしば登場する光景が目の前に登場する。アーチ状の鉄筋とガラス窓。明るくて開放的な空間が拡がっているのだ。この下には若者からお年寄りまで,そして修道女からビジネスマンまで,目的の列車に身をすべりこませるのだ。流行のファッションを身につけた若い女性にも会える,わくわくした気分も良い。
日本の駅と違うのは,ほとんどアナウンスというものがないことだ。
「列車が来ます。危ないので白線まで下がって待て」
「この列車は名古屋行きだ。静岡には止まらないから注意しろ」
・・・・
こんなアナウンスは一切ない。皆さん静かに乗って,列車はゆっくりとホームを離れる。こんな感じがなかなかいい。ヨーロッパのどこにでも列車でいけるから,実に便利でもある。キオスクなど売店はないので,駅の中にあるコンビニで必要なものは買い込んでおく。景色を眺めながら,そして一緒のボックスに陣取っている方々とおしゃべりをする。これもまた楽しい。
若い男女が目を見つめ合って,ときどき唇を長い時間合わせていることもあるが,これは文化の違い。
<おい,いい加減にしろよ。他人のいる前だぜ>
と言いたくはなるが,我慢,我慢。