同行二人と台風と
四国をドライブするのは、何度目のことだっただろうか。 父の船が波止浜(愛媛県)に入港したときに、横浜から会いに行ったのが、初めての四国ドライブだった。 それからは、なぜか四国へよく渡るようになり、このときのドライブも、6度目ほどに、なっていたはずである。 このときのドライブも、いつものように四国のメイン国道を、8の字に走り回り、全土を巡る予定だった。 このときのドライブは、台風にもよく遭遇した旅だ。室戸港では、港まで海水が上がりそうな状態だったし、足摺岬では、灯台が建つ断崖上にまで荒波が踊り出しそうなほどの、荒々しい光景を、見せつけてくれた。 クルマのラジオから流れてくるニュースは、「四国地方の崖が崩れた・・・」「河川が氾濫した・・・」「行方不明者が何名出た・・・」と、そんなことばかりだった。 四国の観光地は、行く先々の土産店が、私を見ても声も掛けられないほどの落ち込みようで、店先の椅子に座り込んで、しょんぼりと肩を落としている。 四国全土のほとんどの国道が寸断されて、観光バスが通れなくなっている。団体客のキャンセルが相次いで、開店休業状態なのである。稼ぎ時の夏休みにこの状態では、肩を落としたい気持ちもよく解る。 私は乗用車の1人旅なので、勝手気ままに観光地近くの宿に泊まれるから、こんな静かな観光地も、体験できるのである。 静かな、大きな土産店に入ってみた。 がらんと広い店に、客は私1人である。珊瑚のアクセサリーを眺めていると、店番の女性が寄ってきて、ショーケースから出して、1つずつ丁寧に見せてくれた。「この珊瑚は、色がいいでしょう? この深い色がいいんですよ。」「この色が、値段も安くて気に入ったんですが、どうですか?」「色はいいですね。でも、この白いところは、虫の跡です。これがない方が、値段はお高くなりますが、価値がありますよ。」「値段で選びたいものですから。」「それでしたら、その虫の跡も、タイピンの裏側に隠れますから、悪くはないでしょう。」 どうやら、客が少ないことが幸いして、丁寧に、しかもずいぶん正直に、珊瑚を見分けて勧めてくれたようだ。値引きに応じてくれた上に、サービスにと、ピンク色の珊瑚のタイピンまで、付けてくれたのである。 何度も四国を訪れていながら、なぜか88ヶ所霊場を巡ろうという気が起きなくて、まだ気まぐれに半分ほどしか見ていないことに、このときに気がついた。 クルマだから、本格的な遍路にはならないが、少ししっかりと訪ねてみようかと、思い立ったのである。 ところが訪ね初めてみると、当然のことなのだが、国道が寸断されているほどだから、険しい山上の霊場を訪ねることなど、無理なところが多かった。 そうこうしているうちに、旅費が底をつき始めた。 四国に渡ってから、10日近くになろうとしていた。いくら気ままにクルマを宿にすることもあるとはいっても、必要経費はかかるのである。 台風の通過直後だが、足摺岬から鳴門市まで、翌日までにクルマを走らせることにした。山間部を通り抜けることは、できなかった。台風による被害が大きくて、高知市から高松市に向かう国道32号線が大きな被害を受けていたのである。室戸岬を回る東海岸ルートも、各地で寸断されているという。 あとは、遠回りになるが、愛媛県を回るコースしか、残されていない。宇和島-大洲と抜ければ、予定通りには着けるだろう。 ところがそのルートでも、障害発生。大洲から松山へ、松山から伊予へというルートまでが、いたるところで寸断されていたのである。 だが幸運なことに、さらに海岸寄りの国道378号線、同196号線は、ほとんど無傷だった。海岸線ばかりを走ることになるので、予定よりも数時間も余分に時間がかかる。 しかし観光バスが走らないので、朝に足摺岬を出発して、夕方には鳴門の港に着いた。 霊場巡りは、次回の楽しみに残しておこう。そう思ってフェリーターミナルに行くと、幸いなことに、淡路島への船が出ていた。 急いで手続きを済ませて淡路島へ。 淡路島から、簡単に明石港へ渡れるものと思っていたのだが、台風はここで、最後の悪戯をしていた。海が荒れて、今の今までフェリーが欠航していたのである。 手続きに行くと、「いつ出港できるか解らないし、港で待っているクルマのうちの何台が乗船したいのかも解らない。手続きはみんな終了しているので、キャンセル待ちになる。明日の順番になるかも知れない。」と言う。 手続きを済ませて、キャンセルを待つことにした。 ここまで来れば、慌てても仕方がない。なるようにしかならない。 まもなく、「行けるか引き返すか解らないが、試しに船を出す。乗船希望者がいれば、受付を開始する。」という放送があった。 暗い海は、刀の刃のように鋭い白波を、どこまでも大きくうねらせている。その中に乗り出すのである。わずかに1時間。だがその1時間先に、どんな運命が待っているのか、知ることはできない。 窓口に並んでみた。 予想以上に、並ぶ人が少なかった。 トラックの間に車を停めて、客室に移動した。クルマは、今までに見たこともないほど厳重に、ロープで四方から繋がれている。 船内放送は、「行けるところまで行くが、無理だと判断すれば引き返す。その判断は、船長に一任された。岩屋(淡路島)と明石のどちらの港に着くことになるか解らないが、到着したら知らせるので、客室外には出ないように。操船の邪魔になるので、客室のカーテンも、一切開けないように」といった注意が、言い渡された。 この船が明石港に着いたら、それを確認してから、明石港発の船を出す、と言う。完全に実験船に乗っているのだ。 船の乗客は、船長と運命をともにするのである。大袈裟のようだが、全く様子が分からず、漆黒の海原を見ることも許されず、そして南北どちらに進んでいるかも解らずに、木の葉のように揺れる船に、身を任せたのである。 船は、大きく感じられたのに、どちらが前で、どちらが後ろなのかも解らないような進みかたをして、高い場所から一気にジェットコースターで下るように海の底めがけて滑り落ちたり・・・それを繰り返して、もう何時間過ぎたかも解らない状態になっていた。 船内放送があったのは、そんな状態で、到着時間を予定より20分も過ぎた頃だったろうか。「まもなく本船は、明石港に到着いたします。」と言うのである。 まだ海峡の中央付近で漂っているのかと思っていたのに、着実に船は前進していたのだ。 普通なら、船内放送がないことへの不満が出そうなものだが、1人として不満を漏らす人はいなかった。無事に到着した安堵感のほうが、不満よりも大きく心を占めていたのだろうか。 いやそれよりも、船内放送をする余裕もなく、全クルーが力を合わせて荒波と戦っていたのだろう。それが伝わってくるほどに、ひどい揺れだった。 船に弱い私だが、それほどの揺れにも関わらず、全く気分が悪くならなかった。 緊張のためだろうか。緊張感はなかった。不安。それも、不思議となかった。 ただ、どちらに進んでいるのか、一ヶ所に留まって、もしかしたらまだ港からも出ないで、ただ揺れているだけではないのか。 気持ちがそちらに奪われて、船酔いどころではなかったのである。 四国遍路は、まだいくつもの訪ね残しがある。船が無事に明石港に着いたのは、『また四国を訪ねて、遍路の続きをやるように・・・』という、弘法大師の後押しが、あったからかも知れない。 このときの帰路は、“運命”というものを、身近に感じさせてくれる、貴重な船旅になった。