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マニラから車で約5時間。急なカーブの山道に嫌気が差すころ、現場は姿を現し始めた。
「無残につぶされた車や民家、倒壊した橋、そして見事なまでに崩れた山の斜面・・・」。町中が流されてきた土砂で茶色くかすんで見える。自然の恐さをこれほどまで強く感じたことは今までなかった。 昨年11月下旬、熱帯低気圧ウイニーと大型台風ヨヨンによる集中豪雨がルソン島中南部を襲い、多くの被害をもたらした。 公表では死者は1000人を超え、行方不明者を含めると1600人以上になる。今後も増加する見込みだ。また家屋・公共施設の損壊、農作物被害などの損害は46億ペソ(約90億円)に達するという。 最近のメディアは、被害拡大の原因とされる‘違法な森林伐採’の関連者を糾弾する話題ばかり。肝心の被災者たちの現状はあまり見えてこない。 「復興はどこまで進み、被災地域への援助は十分に行われているのか」という疑問を確かめるため、僕は被災2週間後の12月中旬と、2ヵ月後の1月下旬の2度にわたり最も被害が大きかったケソン州に入った。今回はその時の‘被災地の現状’をレポートする。1回目はケソン州のインファンタ町だ。 1.ケソン州インファンタ町の被災状況 <町の現状> 「11月29日の午後10時頃、家が浸水し始めた。1時間もたたないうちに1メートルを超え、急いで家族を連れて屋根裏へ逃げたんだ」。 こう話すのは同地に住むNGOワーカーのリッキーさんだ。(今回の取材に同行してくれました。)彼の家は山、川から10キロ以上離れたところにあるにも関わらず1メートル以上浸水した。その半分は‘土砂’だったという。泊めてもらった家には確かに浸水した際の‘泥のシミ’が残っていた。「川の近くにある両親の家は年に1、2回ほど浸水するが、自宅が浸水するは初めて」と興奮気味に話す彼の言葉から、今回の洪水の大きさがうかがえた。 人口4万5千人のインファンタは川と山に囲まれた緑多き町、だったはずだ。今回の土砂混じりの洪水の影響ですっかり町は変わってしまった。豪雨で118人が死亡、41人が依然行方不明だという(1月26日現在 同町役場調べ)。 被災直後は1週間以上にわたり電気や水道が断たれ、土砂で道が埋まったため食料などの必要な物資はヘリで空輸された。 僕が訪れた時は泥や廃材をのせた大型トラックが行き来し、長靴を履いた市民が必死で壊れた家を再建するなど、町の復興は順調のように見えた。 だが、「学校や市場が再開したのは2週間前。被災1ヶ月半経ってからのことだよ。営業可能な食堂もまだ町に2件のみなんだ」とリッキーさんは話てくれた。よく食堂を覗いてみると、確かに営業していてもフィリピンの代表的なおやつである‘揚げバナナ’しか置いてない店も多かった。町の復興はまだまだこれからだ。 <不足する復興資金> ケソン州出身の下院議員、ラフィー・ナンティス氏の事務所を訪れ、マネージャーのアリスさんに話を聞いた。 「アロヨ大統領は被害の深刻なケソン州3町(レアル・インファンタ・ジェネラルナカール)に2百万ペソ(約4百万円)ずつ復興資金を供与したが不充分だ。ラフィー氏は地元の基盤を利用して様々な機関から復興のための資金550万ペソ(約1100万円)を集めた」。 政府の復興資金の少なさにまず驚かされる。地方自治体や国際機関が援助しているとはいえ、桁が一つ足りないのではないか。 また地元の有力政治家の働きは意外だった。彼らが地域の権力を牛耳っているとしばし批判されるフィリピンだが、その分災害などの緊急の場合には資金集めがしやすのかもしれない。 「現在の最大の問題は何か」という問いに対しては、「水道システムの回復」の必要性を説いていた。今は井戸から水を汲み取っている状態だ。だが町全体が復旧するまでには最低6ヶ月は要するという。やはり何よりもインフラ整備のための資金獲得が当分の間の課題のようだ。 町の中心部の様子。そのままにされた泥に埋もれた民家。 <救援物資の中身> 「乾燥えび1袋・にぼし1袋・モンゴ(小豆)・米1キロ・オイル500ミリリットル・ツナやコンビーフなどの缶詰6個・衣服」。配れられていた救援物資の内訳だ。「オーストラリアエイド・ニュージーランドエイド・国連開発計画(UNDP)」と袋には記されていた。 物資を見せてくれたのは、給付所から家に帰る途中だったラリータ・ドンソンさん(38)だ。 「支給は月2回程度。6人の子どもと夫の8人家族の我家は、この量では到底足りない。夫は農業を営んでいたが、全て流されてしまい収入がなくなってしまった」。彼女はこう話す。「今一番必要なものは?」という質問に対して、「食料」と答えていた。 フィリピン各地や世界各国から救援物資が送られているが、物資の不足は依然深刻なようだ。また農業に人口の半分以上が従事する同町では、作物への被害が大きく、3月から始まる収穫を前にして収入源を失った人も多い。食料支援と同時に農地の回復にも力を入れていく必要があると感じる。 救援物資の中身(上)と物資の不足を訴えるドンソンさん(下) <すべてを洗い流された地域> 町の中心からトライシクルに乗ること15分。ジェネラルナカール町に隣接するポブラシオン地区にやってきた。ここは東に位置するシエーラマトレ山から流れでた土石流が、アゴス川を下り、民家を残らず洗い流してしまった。今では一面、茶色の泥で覆われている。積もった泥は実に50センチ以上。だが、中心部のようにショベルカーが泥を掻き出すなどの作業は行われていない。ほとんど手付かずの状態だった。 民家は跡形もなく流されてしまった。 その泥の平原を歩き小高い丘を登ると、景色はガラリと一変する。山から流された木々や民家の材木があたり一面を埋め尽くす、‘死んだ木の海’が目の前に飛び込んできた。 僕はしばらくの間、言葉を失ってしまった。今までに見たことがないほど荒れ果てた光景・・・呆然とするほかなかった。 話では、その面積は10ヘクタール以上。これほど多量の木々を取り除き、かつてのような農村にすることは可能なのか。それは無理と言わざるを得ない。可能だとしても多く歳月を要する事は間違いないだろう。 あたり一面に広がる流木。手のつけようがない。 <人々のたくましさ> だが悲観的な私とは裏腹に、地元の人々はたくましい姿を見せてくれた。 同行してくれたリッキーさんの知人トンさん(50)は、流木を利用し舟を彫っていた。 「小さいサイズは作るのに5日間かかり、4千ペソ(約8千円)で売れる。大きいものになれば1週間かかるが、8千ペソ(約1万6千円)になる」と話す。 リッキーさんも所有地に流されてきた大木を売ろうと張り切っていた。「大きい方は1万5千ペソ。短いのは5千ペソかな。口コミで伝えて、建設業者に買い取ってもらえれば」と話していた。 リッキーさんの母アディーンさん(56)も約3ヶ月で収穫出来るトウモロコシやピーナッツなどの作物を早くも植えていた。泥で埋もれてしまった土地だが、既に新しい作物が芽吹く光景を目にすることが出来た。 川の氾濫で跡形もなくなってしまった同地区。だが人々はその状況を受け止めて、淡々と元の生活に戻ろうとしていた。しかも訪れた僕たちに笑顔を見せて。フィリピン人の底抜けな明るさは、彼らの‘精神的な強さ’を示していると感じる。<続く> 生計を立てるために必死の被災者たち。舟を彫る男性とモンゴ(小豆)を植える女性。 次回は隣町レアルについてレポートします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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