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カテゴリ:旅、それは人生そのもの
旅行10日目(前編)(アディスアベバ) さてさてエチオピア滞在の最終日。 四日前、長距離バスで隣になったアディスアベバ大学講師兼大学院生のエチオピア人、Hに電話をかけて約束通り大学を案内してもらうことに。 アラットキロと言われるキャンパス周辺の土地はけっこう整備されている。 博物館の前で待ち合わせとなったのだが、キャンパスが広範囲に渡っていてどこに行けばいいのかわからない! というわけで以前も紹介した、「質問は身なりのいい人に聞きましょう」の原則に従ってインド人風の老紳士に道を聞いてみた。 「なんでインド人に聞いてんねん!」というツッコミは至極正しいものであるが(笑)、雰囲気的に周辺に詳しそうだったからである。 私:「すみませーん。この辺りに博物館はありますか?」 老紳士:「ああ、それなら私の歩いている方向だから一緒について行ってあげるよ」 道すがら話したところによると彼はやはりインド人であり、アディスアベバ大学の薬学部の教授をしているという。 インドへは2回の旅行でかなりの都市をまわったため、出身地を聞いて「お、そこには昔行った事あるよ~!」と言うだけで打ち解けることができる(笑)。 彼は国連のプログラムでエチオピアに教授としてやってきたらしいが、「アフリカはもうじゅうぶんかな」とすでに飽きていらっしゃる様子だった(苦笑)。 なんて言いつつもエチオピア人と普通にアムハラ語で会話してるところを見るあたり、優秀なインド人の順応性の高さを感じた。 次の赴任地をすでに模索している感じであったが、知り合いの研究者がいる日本にもすごく興味をもっているという。 理数系のめっぽう強いインド人は昨今ITだけじゃなくてバイオ系にも進出してるからな~。 日本にその英知を広めてください! 教授とメールアドレスを交換してお礼を言って別れると、博物館の前でしばらく待つことに。 う~ん、時間を過ぎてもやってこない! 携帯にかけてみると彼もすでに待ち合わせ場所にいるという・・・。 なんと、周辺には2つの博物館があり、彼の説明をよく理解していなかった私の間違いだったのだった・・・。 勘違いを詫びて迎えにきてもらい、やっと大学の門までたどり着いた。 おお、さすがエチオピア随一の名門大学、立派な正門ではないか。 門に入るなり係員の荷物チェック。 なんかカメラもだめっぽいぞ!? しかし、チェックはいい加減もいい加減で、ポケットの上からカメラを触っておきながら楽勝でスルーだった。 H:「気にしないで。形だけだから(笑)」 いや~、まさにその通り(笑)。 というわけで図書館をパチリ。 堂々と撮っても周りの人に何にも言われないから本当に大丈夫なんだろう。 館内も見学をしたのだが、さすがに内部は撮影禁止だった。 この図書館は人文科学系の学部向けであり、環境化学を学部生に教え自らも大学院で学ぶHは別の敷地にある自然科学系の図書館を利用しているということだ。 広いフロアの二階建てで、内部は木造で決して新しい建物とは言えないが、ものすごい数の学生達が自習室で熱心に勉強していた。 蔵書の検索はパソコンにデータベース化されてはいないようで、昔懐かしい目録カードの引き出しがずらっと並んでいた。 活気ある図書館の雰囲気を感じ、この国の明日を背負う大学生達が頼もしくみえた。 なんて偉そうに語っている私が図書館を利用したのは、試験前に借りたノートのコピーくらいだったような・・・・(苦笑)。 う~む、広々とした大学キャンパスらしい敷地内でよろしいなあ。 この道を抜けてHが連れて行ってくれたのがここ。 実は彼が始め意図していた待ち合わせ場所の博物館とはここのことであった。 この建物はエチオピア最後の皇帝、ハイレ・セラシエの住居だったのだ。 さらに、Hの説明によれば、アディスアベバ大学のこの敷地全体がハイレ・セラシエ皇帝の宮殿だったという・・・。 大学のキャンパスだと思って納得してたけど、宮殿だとしたら広すぎだよ・・・。 この「おうち」の中は、エチオピア学専攻の図書館、学長のオフィス、そしてエチオピアの歴史の展示とハイレ・セラシエ皇帝が在位時に暮らしていた環境を展示した博物館となっている。 この入館料はアディス大の学生、エチオピア人、子供など、様々な料金設定がされており、当然のことながら「非学生、非エチオピア人、非子供」である我々2人の料金がもっとも高い・・・。 正確な料金は忘れたが、学生の数十倍の値段であった。 しかし、Hが何やらチケット売り場で交渉した結果、なんと無料にしてもらった! H:「エチオピア文化を外国の人に伝えるサークル活動の一環で来たんだから無料にしろと言ったのさ(笑)」 すごいHの交渉力、そしてすごいいいかげんなチケット売り場のおじさん(笑)! さらに館内を案内してくれたのは幼少の頃からハイレ・セラシエに仕えていたという歯の抜け揃えた(?)おじいさんだった! 彼の話すアムハラ語をHに英語に訳してもらいながら説明を聞くに確かにリアルな感じだが、ほんとに彼は皇帝に長年仕えた人なのか?? Hがおじさんに質問した。 H:「なぜ皇帝と后の寝室が一緒じゃなくて別々なんですか?」 おじさん:「よく喧嘩をしていたからね~」 こ、このおじさん、本物だ(笑)!! ハイレ・セラシエのベッドや、衣服、そしてオール大理石で作られた浴室など、豪華な展示を見るにつけ、この貧しい国においても皇帝ってのはすごい存在だったのだと感じたのであった。 ところで年配の日本人にはハイレ・セラシエ皇帝の名を知る人が多い。 遠くアフリカの皇帝はなぜ日本人に有名だったのだろうか。 ちょっと調べてみたところ、彼と日本とのこんな関わりが見つかった。 1.ハイレ・セラシエは大の親日家で、明治天皇のファンだった。 2.皇太子時代の昭和8年(1933年)には妃に日本女性をと希望し、二名の日本人女性が候補に。 (このお妃探しはイタリアの横槍が入り中止) 3.昭和31年(1956年)、65歳の時、一行20人を従えてインド航空機で羽田に来日、昭和天皇、鳩山首相などの出迎えを受け日本各地をまわった。 4.昭和45年(1970年)、大阪万博を見学。 (以上、 「世界最古の王朝滅ぶ」より抜粋) 2なんてトリビアの泉に投稿していいくらいの「へえ」ネタだ! マニアックすぎるかな(笑)? このようなバックグラウンドを持ったハイレ・セラシエ皇帝が昭和49年(1974年)にクーデターによって廃位させられ、翌年亡くなったというニュースは当時の日本でも大きく取り上げられたのではないだろうか。 遠きアフリカの国のカリスマ指導者の一生に思いを馳せ感慨に耽るのであった。 何かの縁で長距離バスで隣り合わせになったHよ、充実した大学案内を本当にありがとう!! は!気付いたらかなりの長文になっていた! 長い1日の続きはまた後編に・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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