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「今日は休みでんねん。」
「この車、ちょっと借りてまんねん。」 文末の「でんねん」、「まんねん」という言い方は、昔ながらの大阪弁らしい、 いかにももっちゃりしたものの言い方として、今ではそれだけで若い人だけ でなく、多くの人の笑いを誘う。吉本新喜劇を見ていて、そのように感じる。 「あんたはん、なに言うてまんねん!」 「なん、で・す・か~?」 「なに言うてまんねんって、聞いてまんねん。」 「「なん、で・す・か~?」 「なに言うてまんねんって、聞いてまんねんって、聞いてまんねん。」 「はあ~。まんねんはんでっか~。」 これだけで、漫才のようになるから関西弁はすごい。 ところで、「でんねん」「まんねん」は、 「ですのや」「ますのや」が音変化をとげた形である。 共通語において、「ですのだ」「ますのだ」という言い方はあり得なけれど、 大阪弁では、「今日は休みですのや」「今から花見に行きますのや」という 言い方が許される。 その「ですのや」「ますのや」が、 「でんねや」「まんねや」からさらに、「でんねん」「まんねん」と発音されるに 至ったのだが、「です・ます」の下にさえ「ねん(のや)」を付けて言うところが いかにも大阪らしい。 一方で「です・ます」を使って相手を尊敬しながら、 同時に「ねん」を使って、相手と自分の間の垣根を外すのである。 共通語の「のだ」とは違って、大阪では「のや」「ねん」が、 「自分の手の内を開いて説明する」という言い方の、一種の終助詞のような ものに変質しているということだが、 より根本的には、 相手を尊敬することと、垣根を外すことが、大阪人の感覚的においては、 立派に共存できるということである。 「です・ます」を使って相手を尊敬してしまったら、もはや必然的に相手との 距離を大きくとることになってしまう、というのではいかにもぎこちない。 相手との壁を取り去ったら、自然に相手をぞんざいに扱うことになる、では、 いかにも単純、粗野である。 あくまで相手を尊敬しつつ、同時に壁は取り去る。 それが都会人の対人接触の身のこなしというものであろう。 「でんねん」「まんねん」とは、このような都会的洗練を象徴する言葉である。 以上、尾上 圭介(オノエ ケイスケ)先生の「日本語を歩く」より。 東京大学文学部 日本語日本文学所属 助教授 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/teacher_detail.cgi?id=65 ps 京都弁であれば「何を言うてはるんですか?」「はりまんねん」になる。 参考まで、とらのこどもは、関西弁でも京都弁がベースになってます。 河内のど真ん中に長く住んでましたが、きつくて馴染みませんでした。 河内とは、古くから木綿工業が盛んで、言い方も考え方もリアル(現実的) な場所です。それだけに、突っ込みがきつい。言葉も同様やと思います。 人間関係は遠からず近からず。近づきすぎず遠すぎず。間合いこそが妙。 記:とらのこども お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.09.03 13:26:11
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