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武士の発生
□ 坂東は武士の原郷である。 □ 武士は坂東に生まれ、坂東に育った。といっても、それは平安末期から鎌倉時代にかけてのことであって、言葉としての「武士」が生まれたのは意外にはやく、『続日本紀』によると奈良朝元正女帝の養老五年(721) 正月の詔に出てくる。 文人と武士は国家の重んずるところであり、医術・卜筮・方術は昔も今も貴ばれる。 百官の中から学業を深く修め、人の模範とすべき者をあげて、後進を励ますこととしたい。 □ ということで、武芸に秀でた正七位下佐伯宿禰式麻呂はじめ四人が褒賞されている。この武芸に秀でた武士の筆頭にあげられた佐伯宿禰は、平時は宮城の佐伯門の警備にあたる佐伯部を中央で管掌し、戦時は先祖を同じくする大伴氏と共に軍事的任務に就いたから、正に「武士」と呼ばれるのに相応しい初期の一族であった。 以上は、坂東千年王国論より転載。 しかし宮廷内に創設された武士階級は、たとえば朝鮮の両班と同じで文官優位であり、 武士たちは文官たちよりも、一段、低くみられた。武士階級が真に認められるのは、 鎌倉を創設した源頼朝まで待たねば成らない。 ところで、日本近代における各分野の史学は一様に西欧との比較に始まる。 平たくいえば、日本にも西欧と同じものがある、という観点から歴史が見直されたのである。世界史との普遍性・共通性を見出そうとした。そこで発見されたものが、封建制であり、それを担う武士であった。 戦後になって、武士は地方の在地領主として、中央の貴族政権を打倒する革命の担い手とする領主制論と、武士は支配手段として武力を持った集団とする職能人論が出た。 そして1980年代以降、職能人論を土台とする軍制史の研究は、地方の在地領主ばかりでなく、中央の軍事貴族をも発見した新領主制論が出された。(前出・坂東千年王国論より) 日本の徳川封建制というものを考える上で、古(いにしえ)の坂東武士の流れがあった うえで、鎌倉、室町、そして徳川の時代へと来ている武士の時代が来ているわけで、 そして、源流となった坂東武者というものを考えざるを得ない。 一所懸命という言葉を産んだ、坂東武者。 坂東八平氏といえば、中央の傍流のようでいて、父系の血筋が平氏につながるだけで、 実態としては、土着豪族の母系氏族の延長線上なのが実情であろうと思われる。 NHK大河ドラマでは、戦の後に武田信玄より「本領安堵」を言い渡され、ははーっと 平伏しているが、これこそが一所懸命の姿、我が領地を守る姿だったろうと思う。 隋、そして唐の勢力が盛んになり、半島にある百済、新羅、高句麗などの国々が圧迫され 滅ぼされ、そのときに大量の移民が日本に入ってきた。この連中が多量に入れられたのが 今の東京、埼玉にあたる。この地域はそれらの連中によって拓かれた。 それまでの関東平野は、茫々たる原野と森林だった。 だから、坂東武士の原型はたぶんに朝鮮人であった。 以上は、海音寺潮五郎・司馬遼太郎「日本歴史を点検する」より転載。 日本を徳川300年の平和へといざない、明治維新の大転回へといざなう武士たち。 その源流が関東武士・坂東武士であることは異論を持たない。 そしてその源流のひとつが、朝鮮半島からの移民であったことを知らない人が多い。 地理、歴史、政治体制の差異から異なる運命を歩んできた両国であるが、 同じ祖を持ち、共有するものが少なくない。 日本とは何か、日本人とは何か。歴史と、地理と、隣人から、学ぶことが多である。 独立した島嶼であるからと言って、完全に独立したものと思っては誤りであろう。 100年前も、500年前も、1000年前も同じ場所にあるのだから。 記:とらのこども PS 司馬遼太郎さんが、いにしえの朝鮮南部と日本は同じ民族であって、ちょうど 今のイギリスとアメリカの関係であった、と本のなかに書いてあった。 元の強い絆を再構築できるかどうかは、純粋に我々の意思にかかっている。 それを邪魔するものは、それを恐れる者たちである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.09.24 17:01:13
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