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商社マン
日本の戦後復興と高度成長を支えた花形は、技術屋と商社マンだった。焼け跡の工場で技術屋がもの作りに汗を流した。商社マンが世界中を回って材料を調達し、売りさばいた▲鈴木一正氏が三井物産に入社したのは1959年。「三丁目の夕日」が描く昭和30年代だった。父も商社マン。学習院大では、テニス部で皇太子時代の天皇陛下の相手をした。入社するまで自分で電話をとったこともないお坊ちゃんだった▲初仕事でマレーシアに銅線を買いに行かされた。治安の良くない地方の銅産地に行き、夜は泥棒に盗まれないように倉庫の中で銅線と寝た。その後はマレーシア一筋。青年時代のマハティール前首相が食品公社の社長に左遷された。公社のパイナップル缶詰は粗悪でまるで売り物にならなかった▲不遇のマハティール氏と出会った鈴木氏は、その能力に賭けた。米国製缶詰製造機の導入に奔走した。いい缶詰ができた。商社が輸出の権利を争った。鈴木氏の提示した条件は悪かった。よそに決まりかけたとき、マハティール氏の一言で逆転した。「ここまできたのは誰のおかげだ」(マハティール著「立ち上がれ日本人」新潮新書)http://item.rakuten.co.jp/book/1625330/▲見抜いた通り、マハティール氏は信義を重んじた。首相になってからルック・イースト政策をやった。日本から「規律・勤勉・忠誠心」を学ぼうという運動だったが、この日本人イメージは商社マン・鈴木氏から得たものだという▲鈴木氏は、国王から「タン・スリ」という称号を授与された。約30年暮らしたマレーシアに骨を埋めるつもりだった。が、前立腺の治療で入院した東京の病院から戻る体力が回復しないまま、先月74歳でなくなった。生前「このごろ商社マンらしい商社マンが減った」と嘆いていた。 毎日新聞 2007年5月11日 0時02分 商社マンが追い求めていたものは、何だったのか? わたしたちは、それを分かっているか、同じものを追いかけているだろうか? もし違うものを追いかけているならば、数十年後は違った国になっていくのでしょう。 記;とらのこども PS 立ち上がれ日本人。お勧めです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.12.28 21:46:14
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