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日本的な平和とは何かを読んで S子
日本的な平和とは何だろうかと私たちが考える場合、島国、単一民族、農耕民族、 神道、多神教、仏教、そして四季があるという下地がまず根底にあり、これが重 要な要素を占めているように私は思っている。 島国であるがゆえに他国が侵略して来さえしなければ、孤立した状態が平和を存 続させる。単一民族であるからお互いの思考や認識にたいした相違は見られない から、相互理解しやすい。農耕民族であるから自給自足ができ、農耕してゆく中 で自然の脅威を実感することで、人間の無力さを知り忍耐力、持久力も培われる。 神道であるから全てのものに神を見い出し敬うことができる。鎮守の森の聖域も 自然保護の観点から人間の手が及ばないように配慮し、後世に伝え残している。 多神教であるからあらゆるものを受容できる寛容さがある。仏教による教えが日 常生活に自然に取り込まれ、わざわざ教えを請うことなくして身についている。 そして、四季があるから極端に言えば、北極の極寒も理解でき、アフリカの灼熱 の暑さもそれとなく理解できる。わざわざ海外へ出向いて行かなくとも、世界の 気候は日本で体験できるメリットはある。 戦後は米国の価値が流入し日本的価値よりも優位とされたが、石油エネルギーに 保障された米国価値では今後の世界を生きてゆくことはできない。日本的価値が 今日見直されているのも、それに不安を抱く人々が増えたからではないのか。 その要因は小泉政権の米国盲従政策からきている。小泉政権の構造改革は日本式 システムの解体にあり、日本を米国の金庫と化すことにある。世界のグローバル 化は結局国家の相互依存体質をより密接にし、それをより強化させたにすぎず、 米国流の価値へと世界を引きずり込み、米国主導でますます世界経済を牛耳るよ うな感がする。 少し話しがずれたが、こういった世界情勢の中で平和とは何かを考えるとやはり 私たちが日常生活を当たり前に送る、過ごすことだと私は最近痛感している。 要するに食しセックスし寝る。これが全ての生き物の単純な基本である。 ところが貨幣経済システムに人々が生きるようになってから、この基本が崩れて きた。お金が目的化してしまい、もはや手段ではなくなったことから、お金を得 るために全てをこの貨幣経済システムに組み入れてしまった。 これにより食すこともお金を払いさえすれば出来合いの惣菜や弁当、インスタン ト食品ですますことができる。味覚よりも満腹感が得られたらそれでいいと納得 する。だから食事に時間をかけることもない。会話も減る。コミュニケーション も希薄になる。弧食に繋がる。食の素材も見えない。 長引く不況からもっとお金を稼がねばラクになれない、会社や企業として生き残 れないからもっと労働時間を増やさねばならないという脅迫観念から24時間労 働が参入される。労働者はパートやアルバイト等の不安定雇用となり、不規則な 労働時間を強制される。これも不景気だから仕方がないと諦める。昼夜逆転の生 活になり、身体がおかしくなる。人が寝ている時間に働く不条理?からまともに セックスできない。夫婦間のコミュニケーションが徐々に阻害され、夫婦間の亀 裂から家庭の崩壊に繋がる可能性も捨てきれない。 要するに何かに追われ、とりつかれて私たちはゆとりのない世界に放り込まれて いる。精神的にも時間的にも金銭的にも余裕のない生活を、貨幣経済システムが 生み出してしまった。貨幣経済システムは人が生きる基本を排除させ、非人間的 な生活を強いている。 そうして情報化社会やグローバル社会で、世界は短縮され、溢れる情報とともに、 私たちは生きる基本を粗末にしてもそれ以上に楽しいことは世界にはたくさんあ るのだと知らされてきた。私たちは洗脳教育により疑いをもつことなく今日まで きたが、地球環境問題や石油資源枯渇問題の表出、9・11事件以降の世界の不 穏な動き、更には度々訪れる自然災害の脅威から危機感を抱き始めた。 そして、確かに生きる基本を粗末にしても楽しめるものはこの世にたくさんある ことも事実だが、私たちがそこで真に充足感を得ているかというとそうでもなさ そうだ。次々と目新しいものに娯楽を私たちが移しているのはなぜなのだろうか、 ということである。そこでは表面的な充足感はあっても心底からの充足感を得て はいないのではないか。ただ単に私たちが勘違いをしているだけではないのか。 これに対する明快な答えを阿修羅掲示板で以前にあっしら氏が述べていた。 「雨露しのげる住まいとうまい飯と「快」があればそれでいい。」というような 内容だったと思うが、これは非常に的を得た発言だと私は思った。これさえ充足 していれば何も人間は問題はないし、私たちの行動半径も小さくなる。所詮人間 が死ぬまでの間に生きてやれることは非常に限られており、 この生きる基本の、「食しセックスし寝ること」で心底充足していれば、 他に何も求めるものはないだろう、と私は思うわけ。 ところが現在のような貨幣経済システムの中ではこの基本がおろそかにされ、 私たちは真の充足感を味わえないでいる。だからそれを他に求めるのである。 しかし、生きる基本さえ満足できないでおいて、私たちは一体他に何に満足する ことがあるのだろうか。これが重要な点である。 私たち日本人はよく繊細であると言われるが、この繊細さは一体どこからくるの かというと、やはり精神性の高さ、それだけ大人であるということの証左でもあ る。では大人になるとはどういうことかと言うと、どれだけ他者を思いやること ができるのかという度量である。器の大きさはすなわち繊細さで決まる。 より繊細で微細であるものが大人であり、それだからこそ他者を理解することが できる。そしてこの繊細さや微細を得たものが生きる基本である食しセックスし 寝ることに充足し、そこに留まることができる。 要するに「足るを知る」である。しかしこれを理解できるのは、おそらく日本人 だけではないのかな、と私は思う。野蛮な文明の西欧人には、理解しがたいもの かもしれない。日本人だからこそ理解できる平和観かもしれないと私は思ってる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.10.04 15:40:02
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