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自立とは何者か?
究極的には「運命からの自立」ということだ。 自分の場所、自分の環境、そうしたものは千差万別ではあろうけれども、 自立とは、なにものにも頼らず、自分の居場所を楽しめる精神の快活さのことだ。 例えば、ナチスの強制収用所に閉じ込められた人のなかでさえ、 過酷な現実のもとにあってなお、 有刺鉄線の下に咲く美しい花に心を寄せ、 曇りガラスをほの明るくする光を愛でた人がいた。 延命という観点で言えば、 将来を絶望視した人たちより、はるかに多く、このタイプは生き残った。 運命が過酷になるのは、希望を持たなくなったときからだろう。 希望さえ、抱き続けることができたなら、 人生で起こる大多数のできごとは、ちょっとだけ憂鬱なことに過ぎない。 まして不況とか、将来の不安なんてのは、強制収用所の過酷さとは比較にならない。 戦時というものは、厳しく、残酷なものだ。 自立は人生のうちで何度も訪れる。 最初は親からの自立。 帰属するものからの自立もある。 学歴を鼻にかけるタイプなら、肩書きも含め、一切のラベルから自立していない。 会社に己のすべてをかけてきた人なら、 組織依存から自立していない人がほとんどではないか? 流行をうらやましがる人、他人の成功をうらやましく思う人は、 精神の幼稚さから自立していない。 今、問われているのは、現実がどうなろうと、それに左右されないで すっきり自分だけで立ち続けられるかどうかだ。 換言すると、一切の外的要因から自由になることだ。 運命からの自立とは、 自分の人生の主役は、あらゆる意味で自分だと腹をくくることである。 変化する環境に左右されず、自適になることだ。 悠々自適の自適だが、悠々でなくてもよい。 そう思えれば、ギャップなんてなんでもない。 環境の変化に伴い、不安になったり、落ち込んでしまうのは、 まったく自分が人生の主役になり得ていないということでなのだから。 運命に翻弄されない自分であれば、老後の人生であっても ゆるぎない確信のもとに生きてゆけるはずだ。 透明なひかりのなかに、立っていられるはずだ。 弘兼憲史「俺たちの老いじたく」より。 ときどき、はだかの自分の立場で、言葉をきちんと紡いで語るひとがいる。 光り輝いて見える。自分もかくありたいものだと希求している。 はだかには、なかなかなれないひともいる。 そうした人も、一生懸命やってらっしゃるのがわかる。偉いなと思う。 記:とらのこども@再掲シリーズ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.10.18 09:42:10
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