カテゴリ:カテゴリ未分類
ギリシャ、イタリアほどではないにしろ、
日本海へぬっと突き出した能登半島。 渤海の使節は、どうしてきたかというご質問に対し、私なりの考えを述べさせて頂きます。舳倉島(へぐらじま)という島が、石川県輪島市沖40km位にあります。また、輪島市には、重蔵神社という神社があり、今は「じゅうぞうじんじゃ」と言いますが、その昔は、重蔵と書いて「へぐら」と言ったそうです。そして、この神社の神様は、女神様ですが、かっては、宗像三神のように三姉妹の神様だったそうで、今ご本尊は、輪島の重蔵神社ですが、元々は、舳倉島だったそうです。宗像三神が、航海の神様であったように、この神様も航海の神様だったようです。古代、舳倉島と輪島との中間地点にある、七つ島(ここもナカツヒメという女神様の島)と輪島の重蔵神社でワンセットだったようです。私は、ここが、半島への重要な航路であったと思っています。 千里浜(ちりはまといいます。)へいらしゃったのですか。あそこは、海流の関係でいろんな朝鮮半島からの漂着物が付きます。時々、北朝鮮や韓国の機雷とか魚雷という物騒なものも漂着し、海上自衛隊舞鶴水中処分隊のお世話になってます。 地元の観光協会は、違うといっていますが、昔は、塵浜と言っていたようで、ネーミングが悪いので、千里浜としたようです。 そう言えば時代は下りますが渤海が朝貢してきたルートも福井県か石川県で上陸して陸路京都へと向かったのでしょうね?? 石川県の羽咋市の隣町の高浜町に、福浦港という漁港がありますが、ここにしばしば渤海使の船が出入港していました。ここには、日本最古といはれる灯台があります。 また,今の金沢港のそばにある畝田遺跡から、渤海使といはれる木簡と渤海の陶器が去年だったか出土し、渤海使は福浦から、海上を迎賓施設がある、敦賀客院まで移動したのではないかという説が強くなったそうです。 石川県第二の都市である小松市は、高麗津(こまのつ)がなまって、「こまつ」になったという説もあります。この小松から、弥生時代のオンドルを持つ家の遺構が出土し、去年大騒ぎになりました。七尾湾に浮かぶ、能登島に須曽蝦夷穴古墳という、2つの羨道を持つ朝鮮式の珍しい古墳があります。このように、古代能登は朝鮮半島とつながりが深かったのでしょうね。 金沢の隣町の野々市町の末松というところに、末松廃寺という広大な寺院遺跡があります。これは、今はかってこの辺を支配した、道君の氏寺あとであろうということに落ち着いています。道君というのは、その出自等まったく不明ですが、日本書紀の欽明天皇の条で、唐突に高句麗からの貢物を「大和の大王だ。」といって詐取したという記述がある人物です。この先にも後にも、まったく記述がありません。この寺は、平安初期には、すでに廃寺となっていたといいます。 私は、538年以前に、すでに仏教は伝来し、地方豪族では信者も少なくなかったように思っています。そうでないと、蘇我稲目が仏教擁護論を論ずることは、出来ないと思うからです。また、キリスト教も、景教という言葉で、唐代に中国まで来ていますので、日本にも信者がいてもおかしくないと思っています。 私は、この道君が継体王朝の成立に大きく関わったので、欽明も貢物の返還の使者を送っただけで、軍事行動は起こさなかったのだと思います。 沖積平野が開墾されたのは近世になってから 投稿者:安部奈亮 投稿日: 1月28日(月)01時07分17秒 0mの平野部を耕地にするには、大河川を改修しなければなりません。そのためには技術力と大量の人間を動員する権力と財力、そして継続して工事を続けられるためにはなんと言っても平和が必要です。その条件が日本でそろったのは江戸時代になったからです。それも寛永・元禄になってから。寛永・元禄の50年で日本の耕地はほぼ二倍になり、人口も当然二倍になります。 私たちは、昔の家族は必ず3世代以上の大家族だと思っていますが、そのころの農地拡大を支えたのは、核家族の農民たちでした。今までだったら、次男坊三男坊として部屋住みか、あるいは武家の家来となって一旗あげるしかなかった人たちが、開墾に向かったわけです。江戸や大坂のようなと下やは一人暮らしや核家族が主体でした。そのような今までだったら家族を持てなかった人たちが一気に仕事を持てるようになって家族を持ちましたから、軍と産業が発展したのです。戦後とにていますね(ポスト戦国時代ですし)。 欧米の本を読んでいると時々「私は神を冒涜する言葉をはいてしまった、私は地獄に堕ちてしまうかもしれない」という言葉を目にします。でもその「神を冒涜する言葉」が文字にされたのを私は見たことがありません。そのためそれが何という言葉なのか私はわかりませんでした。 しかし最近やっとそれが何であるかわかりました。クリスチャンに尋ねて確認したわけではないのではっきりとは言えませんがまず間違いはないでしょう。その言葉は”SON OF A BITCH”です。” SON OF A BITCH”直訳すると「雌犬の子供」。しかし”BITCH”とは売春婦の隠語ですのでその意味は「売女のガキ」です。 何でこれだ神を冒涜する言葉なのか?それはみなさんもご存じのように、イエスは父親がいないからです。 マリアは処女懐妊をしたことになっていますが、キリスト教徒でない私はそのようなことを信じる必要はありません。イエスにもちゃんと遺伝上の父親と母親がいるはずです。 母親ははっきりしています。マリアです。では父親は?マリアとヨセフは婚約をしていましたが、マリアが懐妊したときに、ヨセフはそれは自分の子供ではなかったので、婚約を破棄しようとしたと「マタイによる福音書」にはあります。とすると、マリアは婚約を前にして密通を犯して(あるいはレイプをされて)妊娠をしてしまったとしか考えようがありません。 しかしヨハンは天使からのお告げを受けてイエスを自分の子供として育てることにしたと「マタイによる福音書」にはあります。 当時のユダヤ人の習慣では、自分の子供でなくても、結婚してしまった後はちゃんと自分の子として育てる習慣がありましたので、ヨハンはイエスを普通に育てたのでしょう。 処女懐妊などという訳の分からない神学で誤魔化していますが、イエスが私生児であることは間違いなく(ユダヤ人はその立場をとっている)キリスト教ともそのことは薄々感じているのでしょう。従って、”SON OF A BITCH”というのはキリストの隠語なのです。だから最大級の罵り言葉なのでしょう。 こう考えると、イエスがなぜあれほど優しい宗教を作ろうとしたのかがわかってきます。イエスはおそらく家の中では肩身が狭かったのでしょう。そしてマリアは自分しか頼るもののないイエスをかわいがったに違いありません。イエスが説教を始めたときに彼を「大飯ぐらい」と罵る者がいた、と聖書には記されています。「大飯ぐらい」は「私生児」の隠語らしいです。つまりイエスは日陰者であったからこそあのように弱い立場の人間に優しく、特に売春婦とか子供を失った母親とか婦人病に悩む女性といった、立場の弱い女性に優しかったに違いありません。 私は宗教家の中で一番女性に優しかったのはイエスではないかと思います(そして二番は法然上人です)。それにはこのような理由があったのではないでしょうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.11.22 19:44:11
|
|