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古代、高句麗からも、新羅からも、時代がさがって渤海からも使者が来た石川県。
石川県は、今の横浜、神戸のような海の玄関口だったんですね。 そして、異人館もあり、外国人たちも住んでいたようです。 それは海流と関係があります。そして遺跡でも確認されています。 太平洋はあまりにも大きすぎますが、日本海の大きさは東西南北、自由に交易が あり、互いに富や力の蓄積も、大いにあったのでしょう。 北陸地方は、継体天皇成立の大きなバックボーンとなっています。 日本の表側玄関、先進地域は、日本海側だったんです!! 朝鮮半島の名勝は、山は金剛山、海の景勝地は海金剛といいます。 豊かな自然に恵まれ、奇岩・怪石や白砂青松の海岸線も、能登金剛と称されます。 能登半島国定公園の大きい景色は、かつては北前船の行き交う 日本の大動脈ですね。大きいお金が航路の港へ落ちたそうです。 能登半島の志賀町には、遊女が愛しい船員との別れを惜しみ、腰巻をかけて 時化(荒天)を願ったと伝わる腰巻地蔵や、日本最古の木造灯台である旧福浦 灯台が今も残っています。 能登へ遊びに行くときは、サザエなどの貝焼き、ノドグロ、ブリの海の幸に 舌鼓を打ち、温泉を楽しみ、海の風景を鑑賞するのがいいですね。 とりあえず、ブログのうえでは歴史の旅「能登半島」でした。 やっぱり、実際に行ってうまいもん食べるのが最高ですね~。 ね、ヨンミョンさん!! いしりの貝焼き、食べて、一杯やりたいです!! 記:とらのこども 能登のとある方の証言。 千里浜(ちりはまといいます。)へいらしゃったのですか。あそこは、海流の関係で いろんな朝鮮半島からの漂着物が付きます。時々、北朝鮮や韓国の機雷とか魚雷とい う物騒なものも漂着し、海上自衛隊舞鶴水中処分隊のお世話になってます。 地元の観光協会は、違うといっていますが、昔は、塵浜と言っていたようで、ネーミ ングが悪いので、千里浜としたようです。 http://chirihama.com/ 参考:地元歴史家の証言。(小松市 文化・歴史/志賀町の概要) 石川県の羽咋市の隣町の高浜町に、福浦港という漁港がありますが、ここにしばしば 渤海使の船が出入港していました。ここには、日本最古といはれる灯台があります。 http://www.town.shika.lg.jp/shikasypher/www/about/outline.jsp また,今の金沢港のそばにある畝田遺跡から、渤海使といはれる木簡と渤海の陶器が 2年前だったか出土し、渤海使は福浦から、海上を移動したのではないかという説が 強くなったそうです。(古代、敦賀客院に海外来賓の迎賓施設があった。) 石川県の第二の都市である小松市は、高麗津(こまのつ)がなまって、「こまつ」に なったという説もあります。この小松からは、弥生時代のオンドルを持つ家の遺構が 出土し、一昨年大騒ぎになりました。 http://www.city.komatsu.ishikawa.jp/maizoubunkazaichousa/maizou_hakkutu_2.html また七尾湾に浮かぶ、能登島には須曽蝦夷穴古墳という、2つの羨道を持つ朝鮮式の 珍しい古墳があります。このように、古代能登は朝鮮半島とつながりが深かったみた いです。 参考:歴史に残るちょっとした事件簿より。 金沢の隣町の野々市町の末松というところに、末松廃寺という広大な寺院遺跡があり ます。これは、今はかってこの辺を支配した、道君の氏寺あとであろうということに 落ち着いています。道君というのは、その出自などまったく不明ですが、日本書紀の 欽明天皇の条で、唐突に高句麗からの貢物を「大和の大王だ。」といって詐取したと いう記述がある人物です。この先にも後にも、まったく記述がありません。この寺は、 平安初期には、すでに廃寺となっていたといいます。 538年に百済から仏教が伝来したと教科書には載っていますが、それより以前に、 すでに仏教は伝来し、地方豪族では信者も少なくなかったように思っています。そう でないと、蘇我稲目が仏教擁護論を論ずることは、出来ないと思うからです。また、 キリスト教も、景教という言葉で、唐代に中国まで来ていますので、日本にも信者が いてもおかしくないと思っています。 私は、この道君が継体王朝の成立に大きく関わったので、欽明も貢物の返還の使者を 送っただけで、軍事行動は起こさなかったようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.09.05 18:32:56
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