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口にするのも汚らわしい、見ただけで食欲が減退しやる気がなくなり、前向きに生きようという気力すら失われる例の「アレ」の件ですが、「アレ」は本日の衆院本会議で、自民、公明両党にも東電福島第1原発事故の責任があると強調した上で、こんなことを口走りました。
「すべての失政の責任を押し付けて責任を免れようとすることこそ、恥の文化に反する行動だ」 …ああ。「アレ」はまた考えなしに思いついた言葉をそのまま口に出し、すべてをぶち壊す行為に出ました。ここまで野党を強烈に批判すれば、いよいよ国会は進まない。世紀の恥知らずにここまで挑発されたら、もう歩み寄ることなんて考えられません。「アレ」は間違いなく、被災者のことなんか1ミリも頭の中にはないのでしょう。あるのは被害妄想と自己愛と原生動物にも似た生存本能だけなのだと思います。 あるいは、「アレ」の狂気と妄想の中では勝つ気でいる衆院解散・総選挙に向けて、対決姿勢を強く打ち出すことにしたのか。衆院本会議場では、この「アレ」の言葉に、与党席からもほとんど拍手が起きませんでした。自分たちがその地位につけ、またその地位の維持を認めてしまったグロテスクな「アレ」のあんまりな姿に、みな一様にうなだれているかのようです。 孟子はこう語りました。 「恥の人に於けるや大なり」 人間にとって恥の心が占める意義は大きい。恥を知らなければ、最低の人間に成り下がる、という意味ですね。廉恥の心がないことにかけては同時代に比類する者なしと言われる「アレ」に言ってきかせても、どう懇切丁寧に説いても理解はできないでしょうが。 …実はこのところ、精神的にけっこう煮詰まっていて、このブログのエントリ更新も滞りがちとなっていました。毎日毎日、目に見えない何ともイヤな毒を放ち続けている「アレ」の言動を追い、取材その他を通じてそのやろうとしていることや心境を推し量っているうちに、その毒気にあてられて、こっちがまいってきたようです。 卑劣で醜悪なものを正しくありのままに描写しようとすれば、卑劣で醜悪な表現を使わざるを得ません。結果、それを描く自分自身が卑劣で醜悪であるような思いにとらわれる日々でもあります。 人類はその進化の過程で、原生動物のたくましい生命力を失いました。人類を人類たらしめている脳髄はあまりにか弱く、繊細だからです。反対に、あまりに強い生命力を誇るものは、プラナリアでもクマムシでも間違いなく知性を失うか、もともと持っていないものですが、その眷属をウオッチし続けるのはしんどいものです。 国会中継を見て、「アレ」があうあうと意味不明のことを言い出すたびに、胸が苦しく、呼吸が困難となります。6日付の読売新聞の一面コラムは、第五代国鉄総裁、石田礼助氏の「粗にして野だが卑ではない」という自己紹介の言葉をもじって、「アレ」をこう評していました。全く同感です。 「粗にして野にして『卑』でもある」 もう笑う気もおきません。ただ一つ言えることは、「アレ」はクトゥルー神話にでも出てくるような異世界のものであり、日本に仇なす最悪の存在であるということです。「アレ」が、いかにわれわれと異なる太古の原生動物的な思考を持つか、その傍証として「アレ」自身がかつて朝日新聞社のインタビューで振り返った政治家としての歩みから引用して示したいと思います。 《市民運動をしていたころ、国会というのは遠い向こう側にありました。つまり、政党というのは私には縁のない存在だった。だから向こう側の中にある与党や野党がどういう関係にあるのか区別はできず、社会党も含めて体制に見えていたのです。 それが議員になって国会の中に入ると、与党と野党が違うということがわかった。与党は政権に入り、野党はアンチテーゼを出していた。さらに次のステップで、自社さ連立政権で与党になり私も閣内に入った。それまでは与党と内閣の区別がつかなかったが、ここでそれがわかってきた。》 …3回連続して落選した後、4回目の挑戦で国会議員になるほど執着していたくせにこれです。これって、まるっきり馬か鹿かそのハイブリッドではないですか。その後、「アレ」を連続して当選させ続けた有権者に八つ当たりしたい気分です。ああ、本当に頭が痛いし、体がだるい。放射能より無能が怖い。 http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2350635/ 阿比留瑠比さん お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.07.11 21:32:42
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