テーマ:徒然日記(23499)
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親鸞の言葉に、弁円はとまどいをおぼえた。
「依頼祈願の念仏ではない、だと? しかし、後生に浄土へいけますように、 お願いします。阿弥陀さま、念仏しているではないか。」 「そうではないのだ、弁円どの」 親鸞は膝をのりだして、弁円にいった。 「おすくいくだされ阿弥陀さま、ではない。 われらの念仏とは、自分がすでに救われた身だと気付いたとき、 思わずしらず口からこぼれ出る念仏なのだ。 ああ、このようなわが身がたしかに光につつまれて浄土へ迎えられる。 なんとうれしいことだ。疑いなくそう信じられたとき、 人は、ああ、ありがたいと、つぶやく。 そしてすべての人びとと共に浄土へ行くことを口々によろこびあう。 その声こそ、真の念仏なのじゃ。 そなたも、わたしも、身分の関係なく、修行も、学問も、戒律も、 すべてが関係なく、人はみな浄土へ迎えられるのだ。 地獄へ落ちたりはしない。そのことを確信できたとき、念仏が生まれる。 ただ念仏せよ、てゃ、それをはっきりと感じ取り、 ああ、ありがた、とよろこぶべし、ということなのだ。」 「信が先、念仏は後、ということでござるか。」 「念仏するなかで生まれてくる信もある、とわたしは思う」 弁円の体の奥深いところで、すこしずつ動き出すものがあった。 自分は今、とほうもない大きな転機にさしかかっている、と彼は感じた。 以上は、「親鸞」五木寛之より。 全国の新聞44紙に連載中です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.10.16 08:02:14
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