天敵と受精卵
「天敵」と「受精卵」について書いてみようと思う.はて,この2つの共通点は何でしょう? 「天敵」という語の正確な意味を私は知らない.たぶん,人間に害をなす生物を駆除してくれる生物のことだろう.農業害虫を駆除するために殺虫剤を使わないで「天敵」を利用する,というような使われ方をする.この場合は,おおざっぱに言って捕食者(predator: アブラムシを食べるテントウムシなど)と,捕食寄生者(parasitoid: アオムシに寄生するコマユバチなど)を指している.その他いろいろな使われ方をする用語である.しかし生態学の教科書では天敵(natural enemy)という語は,あまり使われないと思う. では,なぜ日本でかくも日常的に使われるかというと,テレビ番組の影響が大きいだろう.ネイチャーものや動物番組が流行し,その中で頻繁に使われるようになった.「コチドリの雛は天敵から身を守るために,このような目立たない色をしているのです」といった調子.この場合,コチドリが人に害をなす害鳥であるという意味ではなく,要するに「捕食者」の意味で「天敵」という語が使われている.「捕食者」などという語では一般受けしない.わかりにくい.だから「天敵」という語で代用した,というあたりが真相なのだろう. これほど普及した語だから,もう良いではないか.天敵とは捕食者のこと,という理解でやって行けば良い,という意見は当然あると思う.しかし「捕食者」が価値判断に無関心な中性的な語であるのに対し,「天敵」は「悪を成敗する善」というのが本来の意味だ.そして「シカの天敵はオオカミ」などと言われると,私はぎくりとする.シカをどう扱うかが自然保護上で大きな問題になっている.そういう時に「シカの天敵は」という表現は,シカが害獣であることを,議論以前に承認していることになる. 「受精卵」とは文字通り「受精した卵」のことだ.受精した卵はやがて発生を始める.つまり卵割(細胞分裂)が始まる.最初は1個の細胞だった状態から,細胞数が2個,4個というふうに増えていく. 本来の用語からすると,卵割が始まったものを受精卵(fertilized egg)とは言わないだろう.卵割から胞胚,嚢杯,と進む過程を「発生」とか「胚発生」とか言って,そういう状態にある卵を「胚」(embryo)という.ところがテレビ番組では「胚」という語は使われず,代わりに「受精卵」という語が使われている. この場合も「胚」という表現ではわかりにくい,一般的でないといった理由から,より分りやすい「受精卵」という語が採用されたのだろう.最初にそれをやったのは,たぶんNHKである.当初はクローン技術などの解説に使われていた.「受精卵の8つの細胞をバラバラにして・・・」などと,ちょっと待ってくれと言いたくなるような表現が頻出した. ところがクローン技術の進歩につれ,ES細胞などという概念が出てきた.ES細胞(embryonic stem cell)の訳語は「胚性幹細胞」である.さすがのNHKも「受精卵性幹細胞」とは呼ばないようである. たとえば学術論文では,新しい用語を発明することは一般にひどく警戒される.ところがマスコミにかかると,そういう発明が簡単に行なわれ,それが本来の用語に代って普及してしまう.一つひとつの用語は,先人たちの苦心や論争の賜物なのだ.そういう事実に目を向け,それなりの敬意を払って欲しいと思う.マスコミによる安易な造語は,先人への敬意の欠如,マスコミの傲慢と私には見える.