観察会 vs. 昆虫採集
「昆虫採集」というと,捕虫網を片手に野山を歩く,という図をイメージする人は多いと思う.しかし,よく知られているように,もっと別のスタイルの採集方法もある.たとえば灯火採集は,山の中などで蛍光灯を点灯して虫を集める.蛍光灯の背後に白布を拡げておくと,飛んで来た虫は白布に止まるので,虫を見つけやすくなる. 夜の灯火など普段ない山中でこれをやると,面白いほど虫が集まる.そういう場所も最近は少なくなった.よほどの山中でも道路その他の人造物があり,しばしば灯火がついている.こういう何でもないような人造物が,じつは意外に自然を圧迫している. 話をもとへ. 灯火採集は,場所や季節や天候その他の条件が適切であれば,まことに楽しい行事となる.じつは最近,そういう「行事」を散見する.小学生を対象とした「自然観察会」の1つの形態として,灯火採集を実施する例がけっこう多いのである. 冬期の昆虫採集も,捕虫網のイメージとはあまり縁がない.冬,たとえば朽木をボロボロと崩してみると,ざくざくと虫が出てくることがある.それも普段あまり見かけないような珍しい昆虫だったりする.誰もがそう感じるものかどうかは知らないが,昆虫の好きな人にはたまらない感動の瞬間だろう. これもまた最近は「行事」として実施されている.「昆虫たちは冬はどうしているだろう?」などと銘うった「自然観察会」である.冬期,昆虫はいろいろな場所に潜んでいるわけだけど,やっぱり目玉は「朽木くずし」だろう.そうして虫を捕まえて持ち寄り,虫の種類を判定したり,どういう虫がどういう場所で見つかるか,などという「まとめ」をやったりする. 最近は市街地近郊の山の管理が良くなって,朽木はさっさと片付けられたりする.越冬場所として利用できる朽木は,場所によってはずいぶん少ない.「朽木くずし」が昆虫たちに与えるインパクトは,けっこう大きいかもしれない. それに,見つけて持ち寄った虫たちは,観察会が終わった後どうなるのだろう. 多くの場合,虫たちは,見つけた場所に返される.しかし,虫たちのいた朽木はすでに崩されていて形がないのである.そんな場所に返されても,虫たちの行き場はない.おそらく多くの昆虫がそのまま死ぬか,鳥に食べられるか,といった結果になるだろう. 自然観察会は昆虫を殺すわけではないから良い,と考えている人がいるとしたら,それは間違いです.意図せずして相当数の殺りくに至っている例は多い.上記の灯火採集にしても,蛍光灯や白布を片付けた後に残る大量の蛾の死骸を見るとき,「観察会」などという美名で片付ける訳にいかないものを私は感じる. こうした事例も含め,最近の「自然観察会」は,特に昆虫を相手にするとき,子供たちの歓声を期待するだけの一過性の行事になっていないだろうか.そこからどのように発展させて行くかという展望が,私には見えない. 子供に昆虫を教えたいのなら,やはり最良の方法は昆虫採集である.大切なことは昆虫採集をそのシーズンだけで終わらせず,できれば数年にわたって続けさせることだ.昆虫とのそういう持続的な,少しディープな付き合いが,自然観察会では得られない知識とモティベーションを子供に与える. もちろん昆虫採集は,虫を「殺せ」と教えるわけだから,これは大変なことだ.けれども捕虫網で虫を追いかける方式の昆虫採集では,現実に殺す虫の数は意外に少ない.標本にするため1つずつ丁寧に処理せねばならないので,殺す虫の数はおのずと限られる.この点,上記のような自然観察会では,行事が終われば後は野となれ山となれ.だから結果的に大量殺りくをしてしまうことになる. 「観察会」なら良いが,「昆虫採集」はダメ,という論理を,私はどうしても理解できないのである.