条例の非対称性
- 私はお前との間に,お前には全く損になり,私には全く得になる取り決めを結ぶ.私は自分の守りたい間だけそれを守り,お前は私が守りたくなくなるまではそれを守れ. (ルソー「社会契約論」より) 前回までに,高知城のある城山の管理について私が感じた3つの違和感のうち,1.庭づくりの発想による行き過ぎた管理,2.動植物の捕獲採取禁止の妥当性,について説明した.今回は,3.条例による規制の「非対称性」,について書いてみます.ここで問題にしている条例とは高知県の「都市公園条例」です. 「非対称性」と私が呼ぶのは,この条例による拘束があまりに一方向的であるということ.つまり県民は草1本引き抜いても罰せられるのに,県行政のほうは何をするのも自由だという,そのような条例がはたして妥当なのかという疑問である. 冒頭に引用したルソーの言葉は,奴隷制とはこういう馬鹿げた契約なのだという指摘である.おおげさなことを言うつもりはないが,高知県の条例は,ルソーの描く奴隷制の世界を連想させる.もとより私は法律関係のことは何も知らないに等しいから,ルソーの時代ならともかく現代ではそういう法律だって可能なのだと言われれば,おや,そうですか,で話は終る.まあしかし,もう少し説明しよう. この条例が実施され,その結果として高知城の自然が急速に失われている.だから条例の意図は知らないけれど,この条例のもたらす結果については,自然保護の観点からいって大きな問題がある.そして,少なくとも自然保護が関係しているような場合,法(条例)は相互的でなくてはならない. 自然保護とは,どこか人里離れたところに住む稀少な生物を絶滅から救おうというもの,というふうに矮小化してはいけない.人が住み,そこに自然がある.人間の都合だけを根拠に判断すれば,自然をいくらでも破壊して構わないことになる.いま人間の住んでないような場所はメッタにないから,そういう原則を適用すれば,際限なく自然破壊が進んでしまう.市街地の「公園」にしても,多少とも自然が残っているような場所では,自然を破壊する可能性について配慮が必要である. そもそも高知市内の山々は自然植生が主体で,「都市公園法」(昭和31年)が想定している「公園」とはずいぶん違う.時代も違う.そのように想定されている「公園」を,高知市内の山々に当てはめること自体に無理がある. 「公園の管理」などと称して自然を破壊するなど時代錯誤もいいところ.まして高知市のような地方都市は,「豊かな自然が身近にある」ことぐらいしかウリはないのだから,成りゆきに任せると進行してしまう自然破壊に対し,為政者はもっと敏感でなければならない. また,いま地球温暖化が問題になっているが,地方の町づくり政策がまず対処せねばならないのは「地球の」温暖化よりも,市街地のヒートアイランド化である.木を何本植えたからCO2何トンを削減したことになる,などというインチキな政策ではなく,いま目の前にある自然を活かし,夏でもエアコンなしで暮らせるような市街地環境をつくることの方がよほど大切である.それは結局は地球温暖化対策としても有効であろう. 市街地の自然を大切にすることは,地方都市の個性を演出するうえでも重要である.高知市の場合は,暖地性のさまざまな自然植生があり,昆虫がいる.「こんなところで」と思うような野鳥に出会うことも,かつてはあった.もう少し自然に配慮した政策をとっていれば,今頃は全国から羨(うらや)まれるような町になっていたはずである. 公園のあり方についても,市内の山々(高知城を含む)を対象とする場合,街角にあってブランコなどが置いてある「公園」とは違う扱いが必要である.つまり公園の管理は自然保護を十分に考慮したものでなくてはならない. そして,繰り返すけれど,自然保護が関係する場合,法(条例)は相互的でなくてはならない.なぜなら第1に,知事自身がしばしば環境の破壊者だからである.昔も今も最大の環境破壊者は行政である.第2に,高知のような田舎では,知事の判断というものは,さまざまな圧力や既得権に配慮しつつ行われがちだからである.だから知事の恣意的な判断だけではどうにも動かしがたいような,しっかりしたルールを作っておくことが,自然を守るために必要である. 最後に蛇足を1つ. 自然保護の話に限らず,社会のルールというものは,相互的であること,互いにチェックし合えることを原則とすべし,と私は思っている.最近は県民市民の行動を一方的に規制する反面,為政者の側に課される制限があまりに少ない条例をよく目にする.日本全体ではどうか知らないが,私の身辺では民主主義は相当に劣化しているように思う.