ウソをつく科学者たち
夏が終わり,「自由研究」について書く意欲が減退してしまったので,今回は話の行きがかり上,ウソをつく「科学者」について書いてみよう. 自然科学の基礎は,「自分が観察した事実」に忠実であることだ.基礎であるから,「事実」は正しく報告されねばならない.「観察した事実」についてウソを述べたら,そこから先の議論,推論はきわめて危ういものとなる.だから,この点でウソをつかないことは,科学者として最低限守るべきルールといえる. だから科学者が最も忌避すべきウソは,データの捏造ないし改ざんである.たとえば目の前の温度計が24℃を示しているのに,ノートに「20℃」と書くような行為である.またはノートに書かれた数値を,あとで書き換えるような行為である. 捏造や改ざんは誰がどう見てもルール違反であるのに対し,隠ぺいについては意見が分かれるかもしれない.しかしデータの一部をじょうずに隠ぺいすることで,元データとは全く違う印象を与えたり,特定の結論を導くこともできる.だからデータの隠ぺいは,捏造や改ざんと同質の行為でありうる. 自然科学から少しハズれるけれど,たとえば世論調査やアンケート調査では,対象者や質問項目をじょうずに設定することで,ある目的に好都合な結論を意図的に導くことができる.この場合はデータの捏造や隠ぺいではなく,データをとる手法が間違っていたのである.単に間違えただけなのか,意図的にそうしたのかは,追求しきれない場合が多い.後者であれば、極めて悪質なウソと言うべきである. さて 理系人間の属性として昔からおなじみなのは,頑迷,偏屈,馬鹿正直,といった形容詞である.現実社会の中では「ウソも方便」という言葉もあるように,場の空気を読んでウソをついたり沈黙を守ったりということが奨励される場面がある.しばしば理系人間は,そういう空気を読めない,ないし読まないで,事実をそのまま語って,周囲から煙たがられる.それが上記のような形容詞となるのだろう. しかし人々(自分も含む)の都合や利害を越えて,とにかく「事実に忠実である」ことは,理系人間の基本である.これらの形容詞で呼ばれることは,ある意味では理系人間の証(あかし)であり,勲章のようなものとも言える. ところが,である. 最近は,その理系人間がウソをつく実例をよく見るようになった.福島の原発事故に関連してテレビに登場する解説者たちは,どれほど信用できるだろうか.科学者は「空気が読めない」どころか,しっかり空気を読んで,それに合わせた発言をしているように見える.科学者がウソをついている? この人たちの発言内容は,大抵の場合,「観察された事実」についてのものではない.だから仮にウソだとしても,「科学者として最も忌避すべきウソ」とは次元が違う.しかし国営放送に登場し異口同音に「安全安心」を唱える顔ぶれのオンパレードは,「科学者はウソをつかない」というイメージをくつがえす1つの現実を見せつけた. もはや科学者は,頑迷だけど信用できる偏屈人間ではない,テレビで私たちが見たのは,空気を読んで,それに合わせた発言をする「科学者」たちだ.科学者は偏屈どころか,なかなかどうして世渡り上手な人たちであることに,私は感銘?をうけた. 科学者は「変質」してしまった.どうして,そういう事になったのか? その理由は,科学者を取り巻く「環境」が変化したからだ,と私は考えている.この点が,もっと話題にされねばならない.