採用試験不合格
昨日発表。職場の飲み会だったので,もし駄目で雰囲気を悪くしてはいけないと思い、今朝確認した。今年で3回目。早々と一次で敗退。今年は小論文がなく、集団面接とグループワークだった。自分としてはまずまずだったと思ったが、よっぽど縁がないのだろう。さすがに凹んだ。悔しいけれど、結果は結果だ。仕方がない。今回は厳しい日程の中でやれることはやったつもりだ。筆記ならともかく、評価の基準もわからない。この10年間で、教員免許の認定試験で3回、この採用試験で3回の不合格を経験した。我ながら、この年齢でよくもがんばったと思う。さすがに気持ちの切り替え方も少し上手になった気もする。この年齢になって、こんなに苦しい思いをしてなぜ本採用を望むのかといえば、母親や妻を安心させたいというのが大きな理由だ。しかし、妻からは一笑に付されてしまった。若いうちならともかく、お母さんは逆に心配するかもしれないし、自分も全然気にしない。むしろ、今更、試験を受ける気持ちが理解できない。なぜなら、子育てでお金のかかる一番大変な時期はなんとか乗り越えたではないか。それより、父ちゃんらしさを捨てていっているようで寂しい気がする。だと。これは、考えさせられた。私は若いころから、具体的なやりたい仕事、職業のイメージをつかむことができなかった。ただ、田舎でのびのびと子供を育てたいという、暮らしのイメージは明確にもてた。だから、そこに向かってがむしゃらに突っ込んだ。次々といろいろな貴重な出会いがあり、家族にも恵まれ、こうしてほぼ、子育てもゴールが見えた。親馬鹿かもしれないが、4人とも私には出来過ぎの子供たちである。私が育てたというつもりではなく、私と妻が用意した環境が育ててくれたと思うのだ。私にとっての農業は、職業というより、この暮らしの延長線上にあった。妻に言わせると、この子育て真っ最中、農業中心のころは、とても貧乏だったし、大変だったけど、父ちゃんの周りにはいつも色んな人が集まってくれて、それに答えて、父ちゃんも存分に父ちゃんらしさを発揮していた。今、どんどん自分の世界を狭めているようで寂しいと。学校の仕事はとても楽しいし、自営のしんどさや怖さは身にしみているから、何かを我慢しているわけではないし、世界を狭めているつもりもないのだが、将来こうしたいとか、こうなりたいとか、そういう夢をもてずにきているのは確かだ。この堂々巡りは、農業専業で行き詰ってから、もう10年以上自分のなかで続いている。問いの立て方そのものが間違っているのかもしれない。別の切り口で自分の将来を考えることが必要なのかもしれない。まあ、とにかく前向きに考えていきたいと思う。