|
カテゴリ:カテゴリ未分類
よく人から「悪いものを受ける」 ということを聞くことがあります。 あの人と話しをしていたらなんか辛くなる」…とか なんだかそう聞くと まるで悪いものを持っていた 相手が悪いように聞こえますが 受けたのは自分です。 人の話とか雰囲気の影響を受けないためには 自分の身体状態を自分で面倒見ることが大切です。 思い出してみてください。 そういう時って相手の辛そうな所とかを まるで自分のことのように背負い込んで考えたり 同じような身体の使い方に自然となったりしていませんか? 例えばピリピリした雰囲気の中に入ると体が緊張し ふとした事で笑いが出ると一気にその場が和んだりします。 人って面白いもので 周りの環境に敏感に反応していますよね。 眼には見えないけれども 普通の人でも敏感に氣を感じている証拠ですね。 でも必ず影響を受けるかどうかは 人や環境によって違います。 そう考えると、情報は皆に等しく入っても その反応は情報に対する捉え方で どうにでも変わるんですね。 周りの環境と協調することはとても大切です。 でもエネルギーに流されて 本当は自分のエネルギーでないのに 自分のエネルギーと勘違いしてしまうと 母体である自分はその色に見事に染まってしまいます。 周りに流されて 人と自分のエネルギーの区別がつかなくなる事と 周りと協調する事は 似ているようでまったく逆です。 そこには「自分の方向性の有無」という大きな違いがあります。 例えば身体が柔らかくても そこに自分の身体を何処に向かわせるかという 意図が無ければただのタコ人間ですね。 周りの情報やエネルギー(・・・考えや意図なども)を受け入れつつ 自分の方向性を持っていて初めて立ち上がり 地に足の着いた考えができます。 その時、協調性が取れるんですね。 つまり明確な自分の 方向性、意図、目的を忘れて流される時 自分は主人公でなくなり「~された」 という 受け身で相手の人生を生きるんです。 明確な自分を持たずに 「~された」という受身を生きることって 意外と無意識にたくさんやっているかもしれません。 「~に手間を取られた」 「~に時間をとられた」 なんて表現を 思わず簡単に僕も使ってしまいます。 「渋滞に巻き込まれた」 なんて不可抗力もあるかもしれませんが 街の行事や動きを確認することもできると考えれば 実際は自分の選んだ行動の責任を取ることができるのは やっぱり他の誰でもない自分しかいないんですよね。 他の選択肢もあるのに ・・・例えば本当に用事があるなら 「時間が無いから」 と断ることもできた筈なのに 相手と一緒にいることを選んでいるのは私ですから。 自分がとった行動の責任は自分にあると知りつつ ぼくも無意識の内に人のせいにする癖がよく出ます。 人に指摘されると分かりますが 自分の責任を回避しようと無意識に反応してしまい 自分を守る安全策として人のせいにしちゃうんです。 そして傍から見たら本末転倒ですが 言い訳を並べ立てたり 怒ったりと すぐには認めようとしないのですから始末が悪いです(笑) 自分ひとりでは気付きにくいものですが 人から教えてもらった時には 素直に聴ける耳を持ちたいものです。 聴く耳を持たなければ 自分の考え癖は何も変わらないという 事実だけが残ってしまいますから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.25 16:57:24
コメント(0) | コメントを書く |