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October 25, 2006
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カテゴリ:フレンド日記♪

さっきふと、大親友のことを思い出したので書きますね。
(少し長くなるので分けて書こうと思っています。)

私の親友は大阪にいます。
私の実家が京都なので大阪に住んでいます。
現実には大阪に住んで居ました・・・が正しいです。

彼女は私より1つ年上で同級生。

彼女と知り合ったのは高校の入学式。
初日の全体集会のような集まりの時に一人ウォークマンで音楽を聴きながら足組をしていた彼女。
なんとなく・・・雰囲気で分かりました。
グレてた子だなぁ~と。

でも、彼女との事を語る前に書いておくべき事があります。

今の私を知っている人は驚くような過去。
過去の日記を見返してないので触れたことが有るのかすら覚えてませんが
私は小学校5年の頃に1度、中学1年の頃に1度学校に行けなくなった子供でした。

学校に行けなくなるきっかけは、小学校5年の頃が祖父の他界後。
中学1年の頃は祖母が他界した後に有りました。
私の父は4歳の頃に女を作って家を出たので私は母子家庭育ちです。
母はお嬢様育ちで離婚しても裕福に暮らせるほどに祖父母は立派でしたが
それでも先々のことを考えて働きに出た母は離婚して初めて外に働きに出た人なので
ストレスからか当時の私は毎日のように八つ当たりされていました。

今では姉妹のように仲の良い母と私なんですが
当時の母はヒステリーの塊で、気に食わないことがあると
ハサミを持って私を追い回したり、文鎮を投げつけられたり定規で叩きまくられたり・・・
「あんたなんか産まなきゃ良かった」「あんたのせいで・・・」と
小学生の頃は毎日のように何度も言われたものです。

今時離婚は普通になって「子供は理解してくれている」と良く耳にしますが
理解というよりは耐えているという方が正しいような気がします。
楽しかった時代の思い出、母が目一杯自分だけを見てくれていた時間の思い出とか
自分の中に残る記憶があるからこそ子供も耐えようとします。
変わってしまった現実を、生活を、状況を・・・。

当時私の家では祖母が癌で数年の闘病生活を続けており何度も入院していて
母は毎日流動食を作り、仕事の後は毎日お見舞い
痴呆で家に火まで付けた祖父の下の世話から
深夜徘徊に出られる度にタクシー会社や警察から連絡が入っては駆け付け
私の面倒も見て・・・と、色々あったので
当時の母の苦労を思えば子供にしか素直な姿で向き合うことが出来ない
迷いや疲れや支えのない中での葛藤は
昔よりも今の方が正しく理解出来る気がするけれど
当時、私が泣いていると、いつも祖父母が救いの手を差し伸べてくれて。
祖父母の存在は私にとっては第二の母と父親のような大きな存在で
心の支えを失ったことが私の心のバランスを崩させたのかも知れません。

祖父母の死から親戚との付き合い方も変わり
欲のない母は伯父の奥さんに価値のある物全て言われるがままに譲り
70坪、部屋数15の家の明かりは一人留守番をするダイニング以外全て消え
毎日のように来客のあった家に誰も来なくなった・・・
大人になれば理解出来ることが子供の私には理解出来ず
耐え難い寂しさを抱える原因の1つともなってしまったんだと思います。

そして当時、中学校の英語の教師が
私を目の敵にしていたのも学校が恐くなる原因の1つでした。
いつも×2、教室で恥をかかされる。
教えられてないところを当てられて、「分かりません」と言うと怒られて笑われる。
今はそういう行為も問題になるけれど当時は大して問題になることではなかったんですね。

なので私は中学はをほとんど行けませんでした。
行きたくても行けない状態に陥っていました。
でも、たまたま京都大学が近かったことで、家庭教師を付けてもらい
1年の時と2,3年の時の担任の先生、そして校長先生がとても良い方で
母と通ったカウンセラーの先生も素晴らしい方で
私の気持ちも前向きに変わり、母との関係も改善されて
私は色んな人に支えてもらい、そんな私でも進学出来る高校を見つけて
浪人することもなく高校に進学出することが出来ました。

まぁ、その学校は私と同じような人が多いので
私立で馬鹿高いお金を毎年支払わなければいけない学校だったんですが
見学の時は、「当校は不良の経験がる子は全くいません。」という触れ込みで
私も信用して入ったので、初めて大親友となる彼女を見た時は
母と顔を見合わせて 「なんで?!」 といった思いでいました。
そして・・・寮制の学校だったので部屋割りが発表された際
私はめでたく、彼女と同室になっていました(^^;

高校生なのに、禁止されているのに
部屋でお酒を飲み、タバコを吸う彼女が苦手でした。
当時の私はタバコ嫌いだったので、授業も受けず、お酒を飲んでは
部屋でゴロゴロしている彼女に対して、迷惑だ。。。とも思っていました。
それは他の子も同じで、次第に彼女への風当たりは冷たくなり
彼女の写真を部屋で燃やす子や大声で文句を言う子も多くなりました。

そしてある日、私と仲の良かった子達の態度が急変し私をシカトするようになりました。
ある子が突然

「●●ちゃんが学校を辞めるって言い出してる」
「●●ちゃんが来るから謝り!」 
と偽善者ぶって部屋に駆けつけて来ました。

そして彼女が部屋にやって来ました。
「●ーちゃんが首謀者やってみんな言ってるけど」
「私、学校辞めようと思ってる」そう言われました。
正直愕然としました。

でも私は会話の間も、その後も、彼女から目を反らしませんでした。
そして
「私は首謀者やないよ。
 苦手に思う所があったから悪く言うた事があるんは事実や。
 でも、誰の為でもなく自分の為に入った学校やねんからウチは辞めんで欲しい。
 ウチのせいで傷つけたんやったらゴメン。」と頭を下げました。

そこで、彼女から
「分かってたよ。●ーちゃんは首謀者やないって。●●ちゃんやろ?
 
あの子らズルイなぁ。ウチが気付いてへんと思ってるんやろか。
 ●ーちゃん謝ってくれてありがとうね。
 問題大きくなって巻き込んでゴメンね。
」と言われました。

でも、それからも周りの子たちが彼女に付き私から離そうとしていたので
高校時代、私は彼女と挨拶以外で話す事はほぼ有りませんでした。

でも、私も彼女も高校時代は最悪で。。。
私は学校全体からいじめの標的にされてました。
前向きに頑張ろうとすればする程、積極的に取り組めば取り組む程
過去を引きずっている子達からやっかみの目で見られ
それが敵意になり、いじめに発展しているようでした。

大々的に貼り出されている体育祭の写真には
私の写真にだけ全身、顔が全く見えないように画鋲が貼られ
私は先生にも他の生徒にもありのままを見せようと画鋲を外さず
寮に駆け上がり、洗濯室で一人泣きました。

顔を合わせるだけで、「あいつの顔見てしまった。俺死ぬかも。」と暴言を吐かれ
山の斜面に立っている校舎だったので
何かある度に「ここから転がり落ちて死んでくれれば良いのに」と
笑いながら言われたりもしました。

いじめられて学校に行けなくなった子が沢山いる校内で
そのようなことが起こっていました。

認めてくれていたのは、1年生の時の部活の3年生の先輩のみで
力になり支え、応援し認めてくれたのは教師ではなく食堂の調理の人達で
私が安心して過ごせるのは食堂の調理場のみ。

教師や学校長に相談しても、「●ーちゃんは強いから耐えてやって欲しい」と言われ
教師同士の不倫に巻き込まれた時ですら
「●ーちゃんは当事者じゃないんやし何も無かったことにしてやって」
と言われるような・・・とんでもない内情の学校でした。

今でもその学校はあり、当校では現在までに一度もいじめはありません。
と謳っていて、以前はたまにテレビでも紹介されていました。

当然、別の意味で目立っていた親友も様々な形で標的になりました。
いじめグループの内の1人と付き合っていた頃の親友は問題なく過ごしていましたが
私のされたような事はなくても、別れてからは色々とあったようです。

私はいじめる相手に対して「無」の感情を抱くことに決め
「好き」でも「嫌い」でもない存在として視野にも入れず
自分の為に、高卒の学歴だけを貰うつもりで学校に通いました。
彼女も同じような心境だったのでしょうか・・・。
未だにその辺は聞いていないような気がしますが。

そんなこんなで学校を卒業して、彼女と仲良くなったのは卒業して1年か2年経った頃に
突然彼女の方から架かってきた電話がきっかけでした。

1度話すと何度も架かってくるようになり半年ぐらいは戸惑いで一杯でした。
多分、久々の再会を果たすまではずっと戸惑ってましたね(^^;
「なんで私に連絡してくるんやろう??」 って。

でも、彼女の 「あの日以来、ずっと話したかったんや。」
という言葉を聞いて彼女がなぜ電話をくれるのかが分かり
その頃から私の気持ちも解れていったと思います。

お互いに過去の高校時代の話をしては文句を言いまくりました。
彼女が学校を辞めたいと思った頃の話をした時も
「私はあの学校で自分が盾になって守ってやるって思える程の
 人間関係を築けんかったことが悔しいわ。
 みんな見て見ぬ振りで一緒に居る時だけ仲良しを演じててズルイなぁ~って思ってた。
 そやからこれから先、もし●●ちゃん(親友)に何かあったら
 今度こそ私が盾になるからな。」と言ったら彼女は電話の向こうで泣いていました。

そんな感じで始まった私達の親友関係も10年以上が経過しました。

お互いの恋愛話、身内のこと、過去の話に未来の夢
ブランド品、化粧品、芸能人、仕事の話・・・

どれだけの時間、どれだけのことを話したか思い出しても全部思い出せないぐらい
大切なこと~くだらない話まで語り合ったもんだなぁ~と思い出します。

10年の間に私は京都を離れ千葉に引越しました。
千葉に引っ越そうと思った当時はプチ家出のようなこともしてしまい
親友には本当に迷惑&心配を掛けてしまいました。
それでも全面的に理解をし受け入れ
変わることなくずっと応援してくれていたのは彼女だけでした。

彼女の方も引きこもりのお兄さんとモメて
プロポーズされていた彼とも別れ仕事も辞め
出会い系サイトにハマり投げやりになって

やる気も正気も失うほどに落ちていた時には
私は前彼と一緒にレンタカーを借りて彼女を迎えに行きました。
千葉~大阪まで。
彼女が気晴らしに千葉まで来て1週間滞在して帰る日に
お好み焼き屋さんにもんじゃを食べに連れて行ったら
髪の毛や服に匂いが付いてしまって可哀想だったことを思い出します(^^;

そして、前彼が亡くなった時は
彼女が大阪~千葉まで駆け付けてくれました。
1週間近く一緒に居てくれて、気晴らしにと「ラストサムライ」を見に行き号泣しました。
バス停で東京駅に向かうバスに乗り込む彼女を見送る時、初めて彼女と抱き合いました。

いろんな経験をして、いろんなことがあっての10年以上です。
ほとんどが電話での付き合いだけど、彼女と話す時だけ私も完全に関西弁に戻って(^^;
二人の口癖は・・・

ウチら 「心の友」 と書いて 「しんゆう」 やなぁ手書きハート・・・ です。

(つづく・・・)






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Last updated  October 25, 2006 06:50:37 AM
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