一回目から順次視聴し、そのつどその回をリピートはしてますが、最後まで見終わって結末を知ってからもう一度1話から見直す、という作業をしていません。
その段階での考察。
無駄に長い。頭悪いので簡潔に述べられない。でも考えずにはいられなかった。
そんなドラマでした。
【不条理を描き出す物語】
コンセプトはこれだと思う。
人種、というよりアジア系の外国人に対する偏見。大企業の保身の為の隠蔽工作、零細企業の切り捨て。弱者を切り捨てる社会。
事情も過程も、人の心もとまどいも忖度することなく行動と結果のみで自己責任の下に断罪する世論。
覚醒剤取引の冤罪事件も食中毒事件も過去の抗争事件の冤罪にしても、すべて構造は同じ。
強者が弱者に己が罪を押し付け、武器を持たぬ弱者はそれに潰されるしかない。
世論も社会も潰される弱者に同情することはない。
押しつける側の悪よりも、押しつけられた側の「弱さ」と「隙」が責められる。すべては自業自得なのだ。(その意味で、視聴者の反応は興味深かった。社会的であると自認する人ほど、ビトは自業自得だと断罪する傾向が強かった。世論の縮図だと思った)
それは正論に見えて一面的で歪な論理だと私は思う。
そういう現代日本に存在する不条理をつきつけるのが、このドラマのテーマだったのだと思う。
だから主人公は、人物ではなくエピソードそのものだったような気がする。
それぞれのエピソードが関連する必要もなかった。
ほら、こんなに世の中は理不尽なことだらけですよ、不条理に満ちていますよ、と列挙して提示することが目的だからだ。
座り心地の悪さ、バラバラでまとまりのない、とっちらかった印象はこころから生じたのだと思う。
が、ドラマとしてはそれでは成立しないわけで。
このエピソード群を集約する機能を果たしたのが裁判員制度だったように思う。
これは、集約するだけでなく、凝縮してビトにすべての不条理を背負わせる役割も担った。9話がクライマックスだった所以だ。
10話、11話はつけ足し的なエピローグだったと言えないこともない。
10話で死刑判決を受け、ビトは不条理に完全に圧し潰され、消えゆく弱者の象徴となる。
ゆえに、ビトは死なねばならなかった。人間の罪を背負って十字架に架けられるジーザス・クライストさながらに。
登場人物は全て社会の縮図を分かりやすく見せるための記号だった。
ビトも花も力を持たぬ上に、社会の外縁に位置する最弱者のアイコンだ。
町村家の人々は彼らよりは社会に根付き、闘う力と気力を持った人物として描かれる。
一馬は法律という武器を持って戦う、力をもっている弱者側の人間の象徴である。いわゆるヒーローポジションだ。だから彼がこのドラマで最もかっこよく、最もカタルシスを感じさせてくれる人物であり、正論を吐ける存在だった。
が、同時に自身は自分のルーツ、社会の構造に負けた人間としての一面も持たされた。
一方、林をはじめ、古瀬も北川も、思いこみや自意識に支配されて弱者を追い詰める「悪」として存在する。が、この物語で特徴的だったのは、悪意に満ちた彼らもまた、個体では強者ではなく弱者だと描いたところだ。
彼らは弱者ではあるが武器を持った弱者だった。林は暴力と支配力という力をもち、古瀬は「警察権力」の力を利用する。ポジション的には一馬と同じである。
弱者を直接的に追い詰めるのは権力や体制といった強者ではなく、同じ弱者なのだ。
彼らは彼らなりの理由を背負って、スケープゴートを追い詰め、死に追いやる。
「善」のアイコンとして使用されたビトと花にしても、完全なる正義として描かれたわけではない。善と正は似て非なるものだ。
彼らは善良な人々だが、誤りは多々犯す。それが人間だからだ。完全に正しく生きる人間などこの世には存在しない。「正」にも表裏二面が存在するからだ。
彼らはいくつも間違いをおかす。実に人間らしい人間として描かれているのだが、それが許せないと思う視聴者も多かったようだ。
この記号にすぎない人物も、それなりにきちんと描かれていた。
だからこそ、唐突なテーマ変更にも対応できたのだと思う。
結論。
ほら、こうして一人の青年が死に追いやられました。
戦う術をもたぬ弱者はいる。「弱い者は死ね」という社会でいいの?
あなたは「強者」?
ということをつきつける物語だった気がする。
だからビトは死ななければならなかった。テーマが不条理をつきつけることだったのなら。
ビトの死そのものが、社会の理不尽の象徴になるはずだった、と思う。
でも、10話以降、(すでに9話あたりから)物語の視点の中心が、「不条理」から「人間」に切り替わる。
人間としての葛藤、生きざまが主たるテーマになり、犯した罪にどう向き合うかが丁寧に描かれ始める。
それは、視点変更がなくても副次的なテーマとして描かれる部分でもあっただろう。それがなくては「理不尽に圧し潰される」様が成立しないから。
しかし、それが副流ではなく本流にとってかわった。
ここで、敏感な人、特にエピソード主体の乾いた硬質な描き方に同調していた人は違和感を覚えたのではないだろうか。
自分のように、ビト花のほんの些細な断片を拾い集めて二人のドラマとして見ていたものは、この変更は好ましいものではあったのだけれど。
とまあ、感じたことを書いてみました。長過ぎて、誰も最後まで到達しないよね(笑)
もしここまで見て下さった奇特な方がおられましたら、ありがとうございます。
馬鹿があれこれ考えた戯言ですので、一笑に付してくださるとありがたい。
んで、次は早川ビト考、三島花考と続くのさ(爆)