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カテゴリ:映画
先週木曜日、たまたま早く帰れたので久しぶりに映画館に寄った。
「悪人」と「十三人の刺客」どちらにしようか悩んだ挙句、「悪人」を選んだ。 理由は単純に泣けるかなと思ったから。 木曜の午後6時30分。地方のシネコンに映画を見に来る酔狂な客はさほど多くはない。 なんと自分をいれて、女性三人。 好きな席座り放題である。 よってど真ん中で悠々と鑑賞させてもらった。 結果から言えば、泣ける映画ではなかった。 泣くための作りはしていない。何のドラマもそこにはなく、ただ粛々と淡々と、起こった事件と、犯人と被害者に関わりある人々の描写が積み重ねられていく。 濡れ場はあるがそこにエロも色気も糞もなく、あるのは切実な孤独と現実逃避の哀しさだけだ。 本気で誰かに出会いたくて出会い系を通じてメールをしたのだと呟く光代と犯人。 その呟きに全く共感も納得もできないこちらには、出会ってすぐに体を重ねただけで犯人を強烈に愛する光代の心情も響いてこない。 主人公妻夫木くんの演ずる犯人の心情にも共鳴できる部分はなかった。 むしろ現代によく見受けられる典型的な「嫌な女、軽い女」の被害者の方が強烈な印象を残す。決してよくできた女の子ではないにしても、ありふれたどこにでもいるタイプ。彼女の取った行動は相手の尊厳を踏みにじる酷いものだったけれど、だからと言って殺されなければならないほどのものではない。 踏みにじられて抑圧されていた鬱憤が一気に爆発した犯人に対してもそうで、やったことは衝動的かつ短絡的で許されるべきではないにしても、だからといって憎めるほどの悪人でもないのだ。彼は彼なりの人生と背景を背負っている。 犯人と被害者と、双方のそのバックボーンを淡々と描く。 だから、なんというか、掴みどころのない作品になっていると思う。 深津絵里さんと妻夫木くんの熱演はすさまじい。けれどもその二人をはるかに超えて、作品を奪い去って行ったのは樹木きりんさんだった。 ばあちゃんが裏テーマか。 とさえ思った。 榎本さんもよかったけれど、彼の演じる被害者の父親の悲哀と慟哭は、極めて映画的なれどありふれた描かれ方で類型的。 当然その顛末の起点となる岡田くん演じる増尾くん?だかなんだかの坊ちゃんのいやらしさも非常にステレオタイプで、ゆえに被害者側への同情を排除する。 そしてそれは、狙ったものなのかもしれないとも思ったりした。 灯台の風景は美しかった。 けれどその刹那に敢えて閉じ込められようとした二人の逃避行と純愛は愛とは程遠いものだった。少なくとも光代のそれは最後まで愛とは遠かった――ように感じた。(蛇足の犯行現場訪問がなければそう感じなかったかもしれない) 灯台で、最後に光代を手にかけようとして見せた男の愛情と、なおかつ最後の最後に手を伸ばし光代に少しでも触れようとした哀しい思慕は印象に残った。彼のその愛情は、果たして光代に届いたろうか。 タクシーの中の光代の表情とつぶやきからは、私は何も受け取ることができなかった。 おそらくはその呟きが、この作品の主題そのものだっただろうに。 それにしても樹木きりんさんはすごかったなあ。 金を返してくれとしがみつくばあちゃん。 信じやすくて人が良くて、自分が積み上げて来たものが一気に崩れ去った人の空洞を、演技とみせぬ演技で見せてくれた。 ばあちゃんの場面は、目がしらが熱くなった。 それともう一か所。犯人が光代に語った言葉。 殺したとき、悪いことをしたなんてそんなに思わなかった。あいつが悪いんだって思ってた。でも光代にあってから、どんどん苦しくなる。 そんな意味合いの台詞だったと思う。聞いて胸が痛んだ。 ばあちゃんが与えていたのは愛ではなかったのか。ばあちゃんも切なければ彼も切ない。 彼は愛されているとは実感できないまま大人になったのだ、多分。 愛されて初めて人は人間になるという――これもまたありふれた真理。でも、響いた。 光代と先に出会っていればという犯人の感傷はよくわかる。そうすればこんなことにはならなかった。だがそれが人生というものだったりもする。巡りあわせって、あるんだよねえ。 ということで、金返せとは思いませなんだが、二度見たいとも思わない映画でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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